満たすもの
水族館の日から何週間か過ぎ本格的な夏が来た。外からは蝉の叫び声と窓を開ければ生温い風。やはり夏というのは自然の過酷さを思い知るためにあるように思える。
「あと一週間かあ」
「紳助、そんなに楽しみなの?」
「当たり前だろ。綺麗な景色を見れるんだぞ」
というのも今週の土曜には四人で月華祭に行く予定なのだ。月華祭では月の光で河が輝くことを神様のおかげだと信じ、神様を崇めるために行われる祭りだそうだ。
「そうだなー」
「何だよ興味ないの?」
「いや、毎年見てたら特別感ないよ。地元だし」
「まあいいじゃんか。今年は俺がいるんだから」
何だか頼り甲斐のある相棒のようで笑えてきてしまう。
「笑うなよなあ」
「ごめんって」
ふわっとシャンプーの落ち着く香りが鼻を掠める。
「やあ、お二人さん。なんの話してたの?」
蝉の声と心臓の鼓動が速く大きくなったような錯覚に陥る。かれこれ数週間前からだ。病院に行くべきなのだろうか。
「月華祭について楽しみだなって話してたんだよ」
「そっか、もう今週のことか」
「月すんごい楽しみにしてたものね」
「そういう紗良もでしょ?」
楽しみ、か。確かに楽しみだ。
生温い教室で蝉の声と心臓の鼓動が混ざって溶けていった。
◻︎ ◻︎ ◻︎
夢を見た。いつか見た夢と似ていた。水の中にいるような何かに包まれているようなどこかに落ちているような浮遊感や開放感、閉塞感色々な感覚が肌を通してカラダに浸透していくような何ともいえない体験をした。
そして、眼前には色のない空間が彼方遥かまで広がっていた。そこにはポツンと月が居座っていた。
ヴーヴーヴー
バイブ音が蝉の声と共に部屋中を闊歩する。遅れて気づく今の私は汗でぐっちょりと濡れていることに。服が肌に張り付く不快感が朝早々私を襲ってきた。
「シャワー浴びなきゃ」
──ピンポーン
「はーい」
時計を見ると10時を指していた。もう来たのかと早足で玄関のドアを開けに行く。
「おはよーハルくん」
「おはよう」
ふと疑問が脳裏をよぎる。
「ふたりは?」
「なんだか田神くんが寝坊しちゃったみたいで紗良が待って一緒に来るって」
「紳助らしいね」
きっと前夜に楽しみで夜更かししたのだろう。
「とりあえず上がってよ。突き当たり右が僕の部屋だから。僕はお茶注いでくるよ」
「はいよー」
慣れた歩きで冷蔵庫に向かう。そして寝ぼけていた脳がハッと覚醒した。女子を部屋に入れるのは初めてではないかということに気がついたのだ。
一気に4拍だった鼓動が3拍に変わった。落ち着け、動揺したら負けだ。
心を沈めて部屋に入る。
「あれ?何を開けてんの?」
「あーと、ごめん。この箱が気になっちゃって」
月さんが開けていたのは煎餅の錆びれた缶だ。それはいつからか開けていなかった大切なものを入れる僕にとっての宝箱のようなものだった。
「それは思い出深いものを入れてある箱だよ」
「そっか、ちなみにこのカエルのぬいぐるみは何?」
「それは小さい頃に駄々こねて買ってもらったものだね」
「じゃあこっちの石は?」
「お爺ちゃんと散歩してて見つけた綺麗な石」
「この紙切れは?」
「うーんとわかんない。多分大切なもの」
「この絵は?」
「授業で描かされた家族の絵」
それから月さんはこれは?あれは?と疑問を僕にぶつけてきた。
「いっぱいあるんだね。ハルくんのことがより知れた気がする」
「そりゃどうも」
顔が赤くなっているような気がする。気のせいだといいけど。
「何時に河の方へ行くの?」
「月が南中するのが22時だから21時くらいに河に着くようにする予定だよ」
すっかり話し込んでしまったが時計はもう11時を指している。もうそろそろ来るかな。
──ピンポーン
「来たみたいだね」
◻︎ ◻︎ ◻︎
「ごめんな寝過ごした」
「ほんとよ。待ってあげたの感謝してよね」
「神様、紗良様、仏様ぁ」
「よろしい」
何を見せられているのだろう。目の前で紳助が堀宮さんに土下座している。そしてその堀宮さんは僕の椅子に座り足を組んで見下している。何だこれ。
「あはっ2人ともコントしてるみたい」
「時間まで長いけどなにする?」
「ふっふっふ。私寝坊しましたが、良いものを持参しましたよ」
「そ、それは?」
「桃鉄じゃい」
ということで桃鉄が始まり、1位堀宮さん、2位僕、3位月さん、4位紳助という順位になりました。
「最後にキングボンビーとキングデビルくるのおかしいでしょ?!!」
「運も実力のうちだよーん」
気づいたらもう20時になっており外には夜が訪れていた。
「お腹減ってきたけどどうする?」
「お祭りで屋台出てると思うから行こうか」
外を出ると遠くに見える神社へと続く坂道には屋台の灯りが並んでいて光の道ができていた。夏の夜の魔法で心は踊り、登り始めている月はのんびりと僕らを優しく見守っていた。
◻︎ ◻︎ ◻︎
涼しい風が僕らの隙間を撫でるように通り過ぎていく。お祭りの喧騒が近づいてくる。いつもは静かなこの街も今夜はいつになく盛り上がっているようだ。
「俺、イカ焼き食べたい!」
「私は焼きそば!」
「私はリンゴ飴」
「僕はかき氷で」
各々が自分の食べたいものを次々と言っていくうちに神社へと続く坂にたどり着いた。坂といっても傾斜は緩いので道に沿って屋台が並べられている。
「じゃあ神社に向かいながら食べ歩きしましょうか」
「さんせー!」
だらだらと食べたり話したりしながらして神社へと着いた。
「着いたけど、何するの?」
「おみくじ引かない?誰が一番運いいか決めようよ」
「地遥、良いなそれ!」
境内の隅にある無人のくじ引きのところで1人ずつ引いていく。
「せーの!」
月さんの合図のもとみんなが一斉におみくじを開く。
「やったー!俺大吉!」
「私、中吉だわ」
「僕も中吉」
「あれ、月は?」
声を発さない月さんの方を見るとどうやら俯いているようだ。
「わ、私、凶だった」
か細い声で絞り出すように言うところを見ると相当堪えたようだ。
「ま、まあこれから運を上げていきましょうよ。伸び代があるってことじゃない」
「紗良ぁ、ありがとう大好きぃ」
よほど嬉しかったのか目の前で抱きついている。
「結局一番運いいのは俺かな」
「調子乗んなよ紳助」
「いやいや、一番良いのを当てられたんだから調子に乗るだろ」
「残念ながらそれは一番良いやつじゃないぞ」
というのもこの神社の本当の当たりは白紙のものだと言う。その白紙を月が南中した時に月に透かすように掲げて白紙を通して月を見るとその時願った願い事が叶うんだとか。全ておばあちゃんから教えてもらったものだけど。そのことを紳助に伝える。
「んだよそれ。ただの作り話じゃねぇの?」
「でも夢があるよね、そういうの。私は好きだなあ」
月さんが抱きついたまま応える。
「そうねえ。ほんとなら夢があるわね」
「さて、運の悪い月のためにも早く河のほうに行こうぜ」
「そう言っても案内は僕だろ」
「頼むよーハルくん」
「はいはい」
裏道を通って河の堤防のあたりまで来た。もうそろそろ河が見えるはずだ。
「天の川だ…」
先を歩いていた紳助が立ち止まってそう言葉を溢した。少し駆け足で紳助のところまで向かう。そして淡い一本の光が目に映る。
それは毎年見る不変の景色。
それはこの街唯一の世界に誇れる夜景。
それは僕を僕たらしめた途切れてはならない線。
それは僕らを繋ぎ結んだ糸。
それは月に呼応するひとつの定理。
これは夢だと錯覚するほどに日常とはかけ離れた景色がそこにはあった。
「満月ってね」
隣にいる月さんは光に目を向けたまま言葉を紡ぐ。
「天満月っていう異名があるんだ。天を満たす月って意味。今はそれに地上も含まれてる気がするよ」
隣にいる月さんは目の前の景色を満天の星空のように輝かせた目でうっとりと眺めている。
毎年見ている僕にとってもこんなに綺麗に映るのだからきっとみんなにとっては想像もできないほどに綺麗なのだろう。
「ねえハルくん。私おみくじだと凶だったけどさ。これ見ただけで雀の涙ほどの運気を使い切った気がする」
「それは困るなあ」
そう言った彼女がこっちを向き思わず目が合った。彼女の瞳はこの世の闇なんて知らずに育った純真無垢な透き通ったような瞳だった。僕はその瞳の渦に吸い込まれるように彼女を見る。
天満月に照らされる彼女は綺麗も美しいも美人もどれも彼女には過小評価にしかならないような美貌を持っていた。今全ての世界の言語の辞書から探しても表し切れる言葉はないほどの輝きを放っていた。きっと彼女のこの美しさは4次元や5次元に人類が到達しないと表現できないだろう。それほどまでに彼女は───
「そんなに見ないでよ」
思わず見惚れていた僕に彼女が唇を尖らせて言う。その耳は熟れた林檎のように赤くなっており、思わず口から言葉が降る。
「綺麗だったから」
嘘偽りのない本音を彼女に浴びせると彼女はいきなり水をかぶらされたように驚いた顔を一瞬見せて、次の瞬間にははにかんで見せた。まるで平静を装うかのように。
彼女はタタッと駆けて髪を舞わせながら振り向いて口を動かす。そこに音はなく、暗闇の状態ではなんと伝えたのかわからなかった。
彼女の音なき言の葉は天満月の浮かぶ空に飽和した。
ほんとにこんな景色があるのなら教えていただけると嬉しいです。。。