春、青い春に味わう酸いも甘いも。
彼女と出会ったのは、中学の入学式の時だった。
その日は、春らしい穏やかな風が吹いていた。
緊張でこわばった頬を、満開の桜が優しく撫でる。ビオトープ以外に池がある学校、という、珍しい学校だったので、水面に桃色の花弁が浮かんでいた。そもそも、そんな学校があったのかと驚いた。
新しい制服に身を包んだ新入生が、はしゃぎながらその美しい風景に目を輝かせていた。
保護者と新入生で混んでいる中を、僕は縫うように移動していた。
迷子。なんともダサい理由だが、その時は必死だった。見慣れない地だった。それに、周りは緊張していながらも明るい表情の人が多く、僕一人焦っているようで、それがさらに焦りを加速させ、周りからすれば僕はかなり滑稽だっただろう。
そうして、焦った先で見たのが、彼女だった。
人気のない一つの空き教室。教室も担任の先生も、よくわからなくなっていた時だったから、彼女が希望に見えた。
「……? もしかして、新入生かな。迷子?」
僕の方へと視線を向けた彼女の、澄んだ湖のような声を聞いた。
心臓が、焦りとドキドキとした気持ちで、早く鳴っていた。
電気のついていない教室だった。あたりが妙に暗くて、彼女の瞳がきらりと輝いて見えて、綺麗だと思った。
「は、はい。あの、一年三組って、どこですか?」
焦って発した声が、掠れて上手く出てくれない。
彼女は笑って、こう答えた。
「三組? ああ、それならこっち。ついて来てね」
僕が通ったドアとは反対側のドアから出る。彼女の背中を、見失わないように慌てて追った。
「私も、一年生の時迷子になってたんだ。それで、あそこで先輩に教えてもらったの。まさか、私と同じように迷う一年生が居るとは思ってなかったけどね」
歩きながら、彼女は言った。
その、濁り一つない声に、また体が熱を持つ。
彼女の横顔は、凛としていて、綺麗だった。
「お、ついたついた。ここだよ。うん。早めに来ていてよかったね。まだ間に合いそう」
彼女は一つの教室の前で足を止めた。
「おいちょっとまて柏木! もうそろそろ始まるんだから体育館来い!」
先生らしい。スーツを弄りながら、でかい声を出した。話しかけられた彼女は、
「すみません。よく分かりません」
下手な機械の声の真似をして、にっこりと笑った。その笑顔で、ああ、この人も、僕と年が一年か二年しか変わらない人間なんだと思った。とても大人びて見えたけど、それでも、少しは手が届きそうな距離にいる人なんだ、って。
「はあ。とにかく、新入生を案内していたのはいいが、役割に責任を持て。……案内されてたんじゃないよなあ?」
「私、この子が一年三組どこですか? って聞いてくれなかったら、きっと今でもここどこだろうなあって思ってました。この子に感謝ですね! 方向音痴で校内を覚えてない私をよく見ておかなかった先生方の落ち度です!」
少し、違和感を覚えたが、そんな些細なことより、彼女の笑顔に見惚れていた。
「話が通じてるのか? まあいい。早く来い。もう十分前だ」
そういって、先生は彼女を引っ張っていった。離れていく彼女に、僕は精一杯の感謝を込めて、
「あ、ありがとうございました!」
といった。意外と響いた自分の声が大きくてびっくりした。
彼女は、満面の笑みで、どういたしましてえー! といいながら先生に前を見ろ! と怒られていた。
彼女の姿が見えなくなるまで、見続けていた僕は、はっと我に返り、急いで背後の教室へと入った。
「あ、鈴宮やっと来た。お前どこ行ってたの?」
小学生の時に一緒だった友達に声をかけられても、僕の思考には彼女の笑顔がちらついていたのは言うまでもない。
僕はまた、在校生代表挨拶の彼女を見つけ、驚くことになるのだけど。
ちなみに、返事は噛んだ。あんな行事、潰れちまえ。
そんなスタートダッシュを切ったものだから、当然というべきか、驚きというべきか、なかなかに波乱な学生生活を送ることになった。
まず一つ。彼女が僕のクラスと顔を覚えていたので、最初クラスに来た時に、名前は? と尋ねられ、鈴宮怜です……。という会話をし、それから、クラスに頻繁に来られ、呼ばれて……と繰り返す。どのくらい頻繁かというと、一連の流れが、クラスメイトにとって当たり前になるほどだ。嬉しいような、この人暇なんだろうかとか思い、複雑な心境になり、彼女――柏木 愛歌先輩に全てぐちゃぐちゃにされるという生活を送っていた。
委員会は先輩とは別になり(わざとじゃない)、部活は帰宅部にした。やりたい部活がなかったから。
先輩も帰宅部らしい。運動音痴であり、音楽も音痴で、そのほかは不器用すぎてできなかったそうだ。それでも、先生方からは信頼を置かれ、友達もたくさんいて、卒業した先輩からも後輩からも頼られている(いた)ことはなんとなく分かった。生徒会にも入っているし、僕とは、住む世界が違うように感じていた。
その度、先輩の、信じられないほど真っすぐな態度とか、その目とかに僕の心はかき混ぜられていた。
先輩の優しさや、さりげない気遣いが心に染み込んで、徐々にそれは、僕の心の支えになっていた。
そのころ、僕の家庭は少し大変なことになっていたから、余計に先輩を頼りに――いや、正直に言ってしまえば、僕は先輩に依存していた。特に趣味もなく、特技もなく、ただ入学式に迷子になる程度には平均以下で――。
そんな中、優しくしてくれる先輩も先生も、同級生もいた。でもそれは、薄っぺらい気がした。どれほど言葉を重ねても、まるで理解されたような気がしなかった。その原因は、僕が相手を理解しようとしない態度が相手に伝わっていたのだと思う。
愛歌先輩には、自分でも引くくらい素直になれた。それが、本当の、恋愛的な意味での好きだったのかは分からない。人としてかもしれないし、あるいは憧れだったかもしれない。
僕が悩みを話すたびに、先輩は静かに聞いてくれて、最後には必ず、じゃあ、雑談でもする? なんて言って、明るく話してくれる。お茶を濁されているわけでもないし、かといって真剣になりすぎてしまうほどでもない。ほどほどに真剣になって、ほどほどに軽く受け止めてくれたのだ。
いつしか、この関係が続いてほしいとも、もっと先輩に踏み込みたいとも思うようになった。
だとしても。僕に何か行動を起こす勇気も、今のままでいいとする怠惰も諦めもなく、悶々と考えることしかしていなかったとき。
秋の気配が深まり、雨の滴る日の事だ。
先輩は、池のそばで座り込んでいた。門の右隣に位置するから、下校しようとした僕にも分かった。
「愛歌先輩。どうしたんですか? 雨でぬれますよ?」
傘を差さずに、いつも浮かんでいる笑みをどこかに飛ばして、まっすぐな目を水面に向けている。
「…………」
あまりに真剣に見ているものだから、邪魔しては悪いのか、なんて思って踵を返そうとした時、やっと先輩が口を開いた。
「怜君は、雨が好き?」
普段の先輩では考えられないくらいぼそりと、暗い声だった。それでも、澄んだ感覚は消えておらず、先輩の新しい一面を見た気になった。
質問の意図が読めず黙っている僕を、先輩の目が見上げた。
座り込んでいる先輩と、立っている僕。僕が高いのは当たり前のはずなのに、なぜか胸が苦しくなった。
「私はね――」
――大嫌い。
いつもの明るい笑みのまま、言った。
ちらちらと見てくる生徒は、いつの間にかいなくなっていた。先輩の言葉が、僕一人に向けられていて、だからこそ、なんていえばいいのか分からない。
ここで気の利いた言葉一つ零せれば、きっとここまで彼女に依存しなかったのだろう。
「明るくて溌溂としてて。そんな、そんないい人を、雨がね、全部奪っていったんだよ。こう、バーン、みたいじゃなくて、静かに、すー、っていう感じにね」
言葉選びも、言い回しも、声音も先輩のものなのに、違和感が溢れた。
「先輩?」
「私は、あの事がなかったらね、きっと、今の私じゃないんだよ。あの人が、今の私を作ったの。ま、あの人みたいにおしとやかにーとはいかなかったけど。いやあ、私があの人の代わりをするには、私の能力が足りなかったみたいだね」
あはは。渇いた笑い声。壊れた人形のようだと思った。実際、彼女にとっては、上手くやれなかった人形なんだろう。
「先輩は、優しくて、気遣いが出来て、俺、先輩に救われてます。だから、そんな、自分を卑下する言い方はしなくて、いいじゃないですか」
結局。口から出たのはそんなありきたりな言葉だった。僕はやはり、凡人にしかなれないようだ。
「……そうかなあ。怜君から見て、そう思われてるんだ。嬉しいな」
弱弱しい先輩が見ていられなくて、僕は頭上に咲いていた傘を閉じた。そして、先輩の隣に座った。
目を見開いた彼女は、とても珍しかった。
「先輩。俺がしたように、悩みとか、話とか、話してください。たまりにたまった、恩を返すタイミング、それくらいしかないんですから」
いつも先輩がしていたように、真剣で、でもさらりと流せるような笑顔を作ってみた。
困ったように笑みの形を作り、やがて耐えきれなくなったように、目が輝いた。濡れた先輩の顔に、目から流れ落ちる涙が混ざる。水を溜めた先輩の目が、透き通ったような綺麗な光を反射していた。それで、先輩の目も透き通って、輝いて見えた。
「中三になって泣くなんて、馬鹿みたいだね。……卒業できなかった私の二年上の先輩。みのり先輩っていうんだけどね、雨の日、交通事故で死んじゃった。あともう少し、卒業しても頑張ってください! って、……思ってたんだけど。相手の信号無視に、雨で地面がつるつる滑ってたからだって。もし、もしも晴れだったら、もしかしたら助かったかもって。思っちゃって。雨、嫌いなんだ」
冷静に考えてみると、小学生かなあって思うよね。二年前の事引きずっちゃって。
そう言う先輩に、僕は笑った。
「俺の母親は、二十年前の失恋を引きずったまま父と結婚して、離婚の危機になってますけどね」
そんな状況で、ちょうど中学入学の時に父の鬱病が診断され……離婚などのあれこれをやっていたので、僕の精神は不安定だったのだ。子供にとっての親は大きい存在で、そして僕はまだ子供だ、と認識した。
「……そっかあ。ごめんね、嫌なこと言って」
僕が邪魔をしたかもしれない。
先輩は、続けた。
「まだ子供の私が引きずるのも無理ないかな。死、って、やっぱり、重いし。みのり先輩は、優しくて、みんなから頼られてて。……うん。私がこんなになっていても仕方ない! 怜君、変なとこ見せてごめんね。ありがとう。凄い助かった! 怜君は帰りどっち? 私送っていくよ。先輩らしいところ見せないと!」
自分で立ち直って、また傷を負おうとする先輩が、凄いと思う。
「大丈夫です。っていうか、先輩の方が危ないんじゃ……」
ジャケットを着ているとはいえ、下はブラウス一枚。先輩はそれに、モテるし……いや、美少女だし。
「え? ああ、そうかな? でも、部活やっている子はもっと遅いし、大丈夫だよ。それじゃあ、バイバイ! またね」
大きく手を振って、先輩は門を抜けていった。
その、先輩の笑みに、胸が高鳴った。乙女か。
先輩を見ていると、悩んでいたこととか、全部がどうでもよくなってしまうんだ。
僕はまた傘を差して、先輩の後に門を通り過ぎた。
季節は流れ、中学生になってから二回目の春が訪れた。
先輩の卒業式が終わった。もうこれで、先輩とはお別れだ。
切ないという言葉では足りないほどに悲しいはずなのに、涙は出なかった。
先輩が、一人になる時があったら告白をしよう。そう決めた。バクバクと、緊張で心臓が鳴く。
しかしまあ、予想していた通り、先輩は人に囲まれていて、一人になる気配は微塵もなかった。
諦めて、帰ろうと思った。
その時、先輩がこっちを見た。
確実に目が合った。逸らすのもおかしいし、合わせ続けんのもおかしい。
桜が舞い散り、人々の足に無情に踏み潰される。ゆらりゆらりと風に乗る花びらが、視界を遮った。
息を吸って、吐いて、意味もなく制服を弄り、瞬きを味わうようにゆっくりとしたあと、やっと先輩に声をかけた。
「先輩。この後、少し話したいことがあるんですけど」
周りの目が、好奇に変わる。あーもう。だから、嫌だったんだ。
先輩は笑顔のまま、
「うん。じゃあ、そうだな。十二時、あの池のそばで」
といって、他の人と別れや会話に戻った。
ドキドキしている。僕は大分、乙女思考というか、女性脳だったらしい。
そして、十二時、約束通り、彼女は現れた。……モンスターみたいな言い方になってしまった。
「うん。もう誰もいないね。それで、話って?」
先輩の黒い髪が、ふわりと桜に溶けた。
水面にはやはり、桃色の花弁が浮いていた。
「……多分。よく人の事、見ている先輩なら気づいていると思うんですけど」
緊張で手が濡れてきた。手汗酷いな。
顔が熱い気がする。一度、つばを飲み込む。震える声で、僕は口を開いた。
「好きです。好き合ってください」
……完全に、間違えた。
恥ずかしさで顔が赤い気がする。
先輩は、本当に楽しそうにコロコロ笑って、
「うん。好き合う。……そういう間違え方かー」
そう言った。不安になった僕が、早口でまくしたてる。
彼女には、どう見えただろうか。
「あの、愛歌先輩の、明るくて、優しくて、気遣い上手で、でもそれを相手に気づかせないところとか、少し天然なところとか、二年前のことを引きずっているのを気にしてるとことか、綺麗なのに可愛かったりするところとか、なんか、全部好きです」
すると、また、腹を抱えて笑った。
「……いいよ」
笑いが収まった後、先輩がそういった。
「え?」
本音を言えば、失恋待ったなしだと思っていた。僕のどこが魅力的に見えるというのか。
「好き合う、まあ、付き合おう? 私、これが、恋愛的な意味で好きかは分からないけど、でも、嬉しく思ってる。それに、他の人よりも怜君が特別に見えていることは間違いないから」
じわじわと理解して、笑みが溢れた。
そんな幸せな、春だった。
あれから、三年。僕は高校一年生になり、彼女は高校三年生になった。
「気遣い上手の愛歌なら分かってると思うけど」
三年前と同じ言葉で前置きした。
やはり今も、彼女は明るい笑みで、違うのは、僕と彼女の心の距離と、精神と肉体の年齢だ。
お互い、きっと、本当の好き、を知ってしまったのだと思う。
互いの依存によってはじめて成り立つ感情が、恋ではないのだと知った。愛ではないのだと知った。
「好きじゃなかった。俺と、別れてください」
相手のたった一つじゃない。すべてを愛すには、彼女と僕はあまりに自己中すぎたのだ。
「うん。そうだね。……好きじゃ、なかったね」
三年前のように笑うわけでもなく、それでも、『愛歌先輩』だった。
「愛歌と、付き合えてよかった。優しくて、気遣い上手で、それで、他人の傷を写し取ってしまうぐらい綺麗で澄んでいる目と心を持っている貴方なら、きっとうまくやっていける」
心の支えになっていた。憧れだった。綺麗だと思った。でも、恋愛的な相手として見れなかった。
「私も、怜と付き合えてよかった。優しくて、出来ないことを必死に埋めようとして、時々自分の大切だと思うもののために、少なくない勇気を振り絞って、守ろうと立ち上がれる怜なら、きっと幸せになれる」
ふわりと、桜がどこからか運ばれてきた。
二人とも、同時に背を向けた。彼女はこれから、大学生活をどう過ごすのだろう。なんにせよ、上手くやって、いい人を見つけられる。
僕は……僕は、どうだろうか。
新しく、写真撮影の趣味が出来た。彼女に褒めてもらったのが始まりだが、今ではすっかりはまっている。
今だって、手に持っている。
「……あれ? その制服、もしかして私と同じ高校ですか? それに、そのカメラってあの人気メーカーのですよね?」
春とは、別れが枯れるのと同時に、出会いが咲く季節であるらしい。
別れがつらくても、きっと僕は来年も春の出会いに歓喜するのだろう。
僕は、桃色に染まる景色の中、咲いた出会いに笑いかけた。