暁の銀太子~プロローグ~
ユウヒが覚えているいちばん初めの鮮明な記憶は、三歳の時の出来事だ。
マイルス侯爵家の館には、帝国の始祖である神を祀った礼拝の間がある。しかし三歳のユウヒは、自分の住む館にそのような場所があることさえ知らなかった。
その日、ユウヒはお昼寝の時間に目が覚めた。いつもならばあやが呼びに来るまでぐっすり眠っているのだが、妙に目が冴えていて、眠れそうにない。
退屈になって、ユウヒはベッドから降りた。
そのまま開いていた扉から部屋を抜け出して廊下へ出たが、あたりは静かだった。
なぜか侍女の姿もなく、ユウヒを見咎める者はいない。
不思議に思いながらも、わくわくした気持ちで廊下を歩き出した。
広い館は、探検するにうってつけの場所だ。
いつもはあちこち行こうとすると侍女に止められるが、今はその心配もない。
あたりをきょろきょろと見渡しながら、使用人に見つからないように歩いていく。
しばらく行くと、見たことのない、細い廊下があることに気が付いた。
「……?」
ふわっと頬を撫でる風が廊下の先へと流れていく。
風に呼ばれるようにして、ユウヒの足は自然とそちらへ向いた。歩いていくと、奥に大きな扉が見えてきた。
天上にも届きそうなくらいの、高い扉。
取っ手が二つ付いていたが、片方の扉がわずかに開いている。そこへ風が吸い込まれていくのが分かった。
初めて見る扉と、知らない部屋に、ユウヒはおそるおそる近づいてみた。
親指ほどのすき間から、中をのぞきこむ。
「……みえない」
よく見えないが、扉を引いたら、中に入れそうだ。
ユウヒは両手で扉をつかむと、扉を引いてみる。
ギギ、と鈍い音がして、すき間が広がるが、体は入りそうにない。扉はそれほど重くなかったので、もう一度、ユウヒは力を込めて扉を引いた。
「あいたっ!」
ユウヒが入れるほどのすき間ができ、達成感に息を吐きだす。
部屋の奥に光が差し込んでいるのが見えて、ユウヒはドキドキしながら足を踏み入れた。
そこは、思っていたより小さな部屋だった。
天井近くにある窓から差し込む光が、真正面に飾られている大きな絵を照らしている。
「わあぁ!」
そこには、一人の美しい女性が描かれていた。
つややかな黒髪は地面につくほど長く、風になびいて軽やかに舞っている。空から美しく垂れさがっているのは、ユウヒもよく知っている藤の花だ。マイルス侯爵家の庭には藤棚がいくつもあり、藤はシンボルなのだと教えられていた。
絵画に描かれているのは紫の藤で、女性の黒髪を美しく彩っている。
そして、その足元は色とりどりの薔薇で埋めつくされ、花たちが競うように咲きほこっていた。
ひと目見て、それが人ではなく神様なのだと分かった。
「あまい……おはな?」
本当にそこに咲いているかのようで、ユウヒには花の香りまで感じられた。
藤も薔薇もきれいだったが、絵の真ん中に凛と立つ神様はさらに美しかった。
右手におさめた金と銀の煌玉を守るように胸にいだき、左手からは光の粒がこぼれおちる。
見たことのない不思議な服に身を包んではいるが、慈愛の笑みを浮かべて立つ姿は、見惚れるほどきれいだった。
母よりも美しい神様にユウヒの鼓動が早くなる。
何よりも目を奪われたのは、神様の瞳だ。
輝きを宿した瞳の色は、まるで宝石を思わせる美しい紫。
初めて見る色とその美しさに見惚れると、絵の中の神様と目が合った気がした。
何か言われた気がしたけど、よく分からない。
「なんですか?」
たずねてみたけど、返事はなかった。
でも、優しく微笑んでくれて、ユウヒはますます胸が高鳴る。
「いつも、ここにいるんですか?」
そうきいたら、神様が頷いた気がした。
「むらさき、すきです!」
きらきらと輝くような紫の瞳が、ユウヒにはいちばん素敵なことに思えた。
見つめているだけで、心の奥からしあわせな気持ちがあふれてくる。
目の前にいる神様が特別で尊い存在だということも、本能で分かっていた。
幼いユウヒは、畏怖よりも喜びで胸がいっぱいになり、舞い上がる気持ちのまま話しかけた。
神様がどのように返事をしたのか覚えていない。
けれど、目の前に神様がいるということが、嬉しくてたまらなかった。
+ + +
誰かの呼びかける声に、ユウヒは重い瞼をゆっくりと上げる。
目の前には、カリンの心配そうな顔があった。
「ユウヒ。目が覚めたのね」
「ははうえ?」
「気分は悪くないかしら?」
「……はい」
頷くと、カリンがぎゅっと抱き締めてくる。
ユウヒも、カリンの膝の上に座ったまま小さな腕を伸ばしてぎゅっと抱き着いた。
「ははうえ」
いつも忙しいカリンが、こうして抱きしめてくれるのはお休みのあいさつをする時だけだ。
だから嬉しくて、カリンの胸に顔をうずめる。
甘えるユウヒの背中を撫でながら、カリンが優しく問いかけた。
「ユウヒ。どうやってここへ来たの?」
「あるいてきました!」
「そうね。誰にも会わなかったのかしら?」
「はい。ばあやもいなくて……あ、かみさま!」
ユウヒは顔を上げると、先ほどまで眺めていた神様に顔を向けた。
「ははうえっ! かみさまです!」
「まあ、ユウヒ。この御方を知っているの?」
カリンの驚く声に、ユウヒは胸を張って答える。
「はい! いつもここにいるっていってました!」
「……セイヒメ様と、お話をしたの?」
ユウヒの言葉に、カリンが真剣な面持ちになる。
しかしユウヒはカリンの告げた名前に反応する。
「せいひめさま? かみさまのなまえですか?」
「ええ。ユウヒの好きな絵本に出てくるあの神様ですよ」
「あ! せいひめさま!」
ばあやに読んでもらっている絵本の中でも、一番のお気に入りだ。
セイヒメ様は、ラングス帝国の、始まりの神様。
勇者と一緒に国を作って、今も見守ってくれる、とても偉い神様の名前だ。
しかし絵本に載っていたのは、こんなにキレイな人ではなかった。
「あのえとちがいます」
「ユウヒがいつも読んでいるものは、民衆向けの絵本ですからね。ここにある絵は、ウィステリア教皇がお認めになった宮廷画家が描いたものです」
カリンが説明してくれたが、ユウヒには絵が違うということしか分からない。
「皇家に代々伝えられているセイヒメ様の御姿を、そっくりに映したものです。ですから、この御姿が、真実に近いのですよ」
「ほんとの、せいひめさま?」
「ええ」
カリンが誇らしげに頷くのをみて、ユウヒは改めてその姿絵を見上げた。
絵本で見るよりも、ずっときれいで、神秘的で、いつまででも眺めていたい。
いちばん心惹かれるのは、きらめく紫の瞳だ。
ユウヒもカリンも瞳の色はブラウンで、使用人たちも同様だ。
だから、紫の瞳はとても不思議で魅力的に映る。
それをカリンに伝えたくて、ドレスの袖を引っ張った。
「ははうえ!せいひめさまは、むらさきです!」
「そうね。セイヒメ様は神様ですから、特別な色をお持ちです」
「むらさきは、せいひめさまだけですか?」
「……そうですよ」
カリンは一つ間をおいてから、ユウヒに微笑んだ。
幼いユウヒはその不自然さに気づくこともなく、無邪気にセイヒメ様の姿絵を眺めた。
この出来事がユウヒの運命を決定づけるとは夢にも思わず、それを知るのは、ずっと後になってからだった。