プロローグ
おれは狼男である。
満月の夜に姿を変え、村を燃やし、人を食うような、誰もが恐れるあの狼男である。
数百年前、濃霧が漂う森の奥に家を建てた。そうして月に一度、不幸にも森に迷い込んだ人間を頭の先から足の先までぺろりと飲み込む。
人間は脳みそがいっとう美味い。そのまま食べてもじゅうぶん美味いが、すり潰して団子にし、炙って食うのが一番いい。その次に大腸。大腸はきちんと洗ってから果物と煮込むと美味い。
もちろん口に合わない部位もあるが、貴重な食糧だから、ひとつの肉片も残さず食べる。
何の罪もない人間を食うのは心が痛むが、しょうがない。
人が豚を、牛を、鶏を食わねば生きられぬように、おれも人間を滋養とするほか、生きる術がないのだ。
今日も、満月の夜がやってくる。
相変わらず外には濃霧がぷかぷかと浮いており、数百年見続けた光景に何ら変化はない。ただひとつ、家の前に、小さな籠が置かれていることを除いて。
その籠からは、「あー」だとか「うー」だとか、意味を為さない声が聞こえてくる。籠の蓋をゆっくりと開けてみると、そこにはおれの片手にも満たない、小さな人間が横たわっていた。今まで食べてきた人間とは姿形が全く異なるが、薄橙色の皮膚に、体毛で覆われていないからだを見る限り、おそらく人間だろう。
その人間はおれを見ると、ひっくり返った虫のように四肢をばたつかせた。人間と呼ぶにはあまりに未完成なそれに興味を抱き、片手でそれを持ち上げると、今度は甲高い声を上げて短い腕を振り回した。
「──おまえ、おれを怖がらないのか?」
今まで見てきた人間たちは、どれも姿を変えたおれを見ると、目を見開き、腰を抜かし、涙を流しながら、「イノチダケハ」「タスケテクレ」と、いつか見たオウムのように繰り返していた。
ところがこいつはどうだ。おれがこんなにも近くにいるというのに、泣き叫ぶどころか、「きゃ、きゃ」という声を上げて両手を叩いている。
「今晩はおまえを食ってやろうか」
牙を剥き出しにしても、それは変わらず俺の手の中で蠢くだけだった。
──ほんの少しだけ、興味が湧いた。
これが成長したら、どんな人間になるのか。おれ好みに育て上げたら、どんな味になるのだろうか。甘ったるくなるのか、それとも淡泊なものになるだろうか。
あれこれと想像して溢れ出る涎を慌てて押さえつけたあと、おれはひそかに決めたのだった。
この人間を、今から299回目の満月の夜まで生かしておいてやろう。
そして300回目の満月の夜に、ひとつの肉片も残さず食らってやるのだ。
「今からおまえは、おれの食事として生きるんだ」
その言葉など聞こえていないかのように、小さなそれは指をしゃぶりながらこちらを見据えていた。
満月の日に食事を我慢した燻りからか、それとも未来の食事への期待からか、その夜はひどく空腹だった。