第44話:亡霊国へ(3)
瞬が過去へと来てから4回目の朝を迎えた。
過去に来たという重い事実でこの数日間は気が滅入っていた瞬も、体力が回復して自由に動けるようになり、ようやく気持ちの切り替えが出来た。
「帰れる手段を探そう。それしかない!」
窓から差し込む朝日を受けながら決意を新たにしていると、そこに毎朝の恒例となっているメイドが朝食を運んできた。
メイドは立ちあがってスッキリした顔の瞬を見て、驚きの表情へと変わる。
『瞬さん!大丈夫なんですか?』
『ええ、ご心配おかけしました。体力は戻りましたし、もう動けます』
『いえ、そうじゃなく・・・』
『?』
『いいです。元気になられたのでしたら』
分かってもらうのを諦めたメイドだが、明るくなった瞬の様子にホッとした様に息をついた。
何しろここ数日の間、何があったのか塞ぎこみ続け、食事もあまり取らず、ベッドの上からずっと窓の外を眺め続けていただけなのだ。
誰でも気を病んでいるとしか思えない状態に、体調管理を任されたメイドはうろたえ、ヴァネッサも常に心配して何度も足を運んでいた。
どこか上の空になっている瞬には何を言っても反応が薄く、どうしてそうなったのか誰も原因が分からず、成り行きに任せるしかなかったのだがそれが治った。
責任がのしかかっていたメイドが心底安堵するのも無理はない。
『とりあえず、朝食をどうぞ。私は姫様に回復したと伝えてきますので』
『あ、ちょっと』
引き留めようとした瞬の言葉など届かぬうちにメイドはいなくなる。
残された瞬は椅子に座ると、湯気の上がる朝食へと手をつけた。
「確か、動けるようになったら手合わせする約束だったはず。・・・できれば無かった事にしたかったな」
タイムスリップのショックから立ち直ったものの、ヴァネッサと手合わせするというのは憂鬱になるほど気が引けていた。
何しろ、『旅人』の時の彼女にはまるで敵いもしなかったが、この世界での姫も『旅人』ではないとはいえ、剣技はかわすだけで手一杯だった。
両方とも体力のない疲労している状態ではあっても、体力が回復するだけでそこまでは変わらないと瞬は思っていた。
肩を落として食事に手をつけ始めると、途端に廊下が騒がしくなり、勢いよくドアが開いた。
『瞬!よかった!本当に回復したんだな!』
『あ、ありがとうございます』
突然のヴァネッサの訪問に瞬のスプーンを持ちあげる手が反射的に止まる。
どうにか反応してお礼を言ったものの、次の言葉で彼の体は完全に固まる事になる。
『よし、勝負だ!』
「・・・」
『朝食を食べたら修練場まで来い!待っているからな!』
指をさしてそう言うとヴァネッサは部屋を飛び出し、手合わせの準備へと自室を目指して走っていった。
あまりにも前に見た『旅人』であった彼女とのイメージの違いに悩む瞬を、遅れて入ってきたメイドは見た途端、ヴァネッサが原因である事を理解した。
全力で走る姫について回ったため、息も荒く、ゆっくりと休みたいが瞬を気遣って聞く。
『だ、大丈夫ですか?何か、言われ、ましたね?』
『はぁ・・・、その手合わせするよう言われて、朝食を食べたら修練場という場所に来いと』
『は、はは、そうですか。申し訳、ありま、せん。ハァハァッ、ふぅ・・・。姫様は手合わせとなると目の色が変わってしまうんです。強い相手であるならなおさらです』
『ああ、それであんなドレス姿で走った、と。分かりましたけど、僕は強くなんかありませんよ?』
そこまで期待されているのが逆に申し訳ないと思うほど、瞬には自信などありはしない。
ただ、サンドバッグの様に殴られ、倒されるのがオチだと本気で思っている。
それを否定するようにメイドは首を振り、続けて言った。
『いえいえ、姫様の剣を何度もかわしたとお聞きしています。彼女は剣の申し子とまで言われるほどの剣の使い手ですが、それを満身創痍でかわし続けた貴方であれば、良い勝負をすると皆が思っています』
『おそらく、買被りすぎですよ、それ・・・』
逃げるのを手助けしてくれる人が皆無であるなら、最早、逃げ場などないのだろう。
溜息付きで再び肩を落とした瞬はスープに手をつけて、黙々とパンを食べていく。
ヴァネッサを待たせるのに気が引けたため、あっという間に全て平らげると、今にもため息が出そうな沈んだ顔で満面の笑みを浮かべるメイドの案内に従って修練場へと向かう。
どうか手加減してくれますように。
無いとは思っていても歩きながら祈らずに入れない瞬。
道中ですれ違う人達からは好奇な視線と珍妙な視線を受けながら歩き、1階の外へと出ると目の前にそびえ立つ修練場は現れた。
中庭の一角に建造されたそれは巨大な城壁と同じ囲いがあり、中では槍や剣を持った者達が訓練を続けていた。
まだ、ヴァネッサは到着していない様だ。
『えっと、ここで待っていてください。すぐに姫様もいらっしゃいます』
メイドはそう言って城に戻っていくと、1人残された瞬にまるで見世物小屋でも見ているかのような物珍しげな視線が集中する。
あまり見られない東洋人、ましてやこの時代なら外になど出る事のない日本人がいるのだから訓練している者達の手が止まるのも無理はない。
視線を集めているのは分かっていたが、振り向くに振り向けない瞬に後ろから男の声がかかった。
『おい!お前か、姫様をコケにしてくれたという東洋人は!?』
『え?あ、はい』
馬鹿にした部分がよく分かっていなかった瞬は反射的に頷いて答えるが、その回答はヴァネッサを慕っている男の逆鱗に触れていた。
『殺す!』
顔を真っ赤にして瞬へと襲いかかってきたのは、体長は少し低めだが、体中に筋肉の鎧を纏い、口や顎を覆うほどの髭を生やした男だった。
男は手に持った木剣を振りかざし、瞬へと向かって突進する。
『え?ええぇ!?ちょ、ちょっと何を!』
『うるさい、死ね!』
男が構えた剣を慌てふためく瞬へと振り下ろした。
武器もなく、腕で受けたとしても確実に骨は折れそうなほどの強力な打撃が襲いかかる。
その動作を見据えた瞬。
彼の眼には剣の軌道がしっかりと捉えられ、振られる位置からおおよその予測までもが見えてきていた。
姫の時よりも剣の動きが鈍く見える、それなら!
瞬は予測をもとに難なく体を捻ってかわした。
勢いの割に軽快に空振りした男だが、その手は止まることなく次なる攻撃としてタックルをしかけてきた。
瞬の体をくずすことを目的とした意表をつくタックルではあったものの、それすらも見透かしたいたかのように瞬は横に飛び退いてかわす。
素通りするタックルの隙だらけである側面に立った瞬。
『旅人』の力もないけど、これで!
「ふっ!」
『ちぃっ!』
武器も何もないが、とにかく男を止めようとする一心で瞬は男の胸の辺りを殴りにかかる。
今までと比べれば非力なただの一般人である瞬。
本人も周りで見ていた者達も、隙を突かれた事を失態と嘆く男でさえ大した事のないパンチだと高を括っていた。
そんな中で男の胸へと瞬の全力のパンチは突きささる。
辺りに鈍い音が響き渡り、更に瞬と殴られた男の耳にはそれとは別の肉が潰れる不快な音が届く。
『ごふっ!?』
体の芯に響き渡る程の衝撃が男を襲い、かろうじて保った意識で離れようとする男。
胸の痛みと体中に残る痺れでまともに動く事など最早出来ないが、年下とはいえ剣の師匠であるヴァネッサを愚弄された怒りで奮い立たせる。
ところが、言う事を聞かない足は1歩目を踏み出した途端にバランスを崩して頭も大きくグラつき、それにより最後に保っていた意識も揺さぶられる。
『お、お・・・前・・・』
瞬へと何かを言おうとした男の視界は暗転し、白目を剥いて石畳の上へと倒れる。
それを見ていた男の仲間達に彼が倒れた事で動揺と恐怖が走り、それは目の前で起こった事を改めて認識していくと次第に怒りへと昇華されていった。
『アンガス!?おい、しっかりしろ!』
『こ、この野郎!』
『全員でやっちまえ!』
まるで自分がやったのが信じられないとばかりに驚いている瞬の耳にも物騒な言葉は届く。
「・・・え~と」
周りを見渡せば、既に四方を木剣を持ち、殺気立った連中が取り囲んでいる。
どこにも逃げ場はない上に孤立無援の状況。
今にも飛びかかってきそうな連中に対し、瞬はどうしたものかと冷や汗を垂らす。
『瞬は来ているか?ん?一体、どうした?』
天の助けがあった。
ちょうど訪れた練習用の服に着替えたヴァネッサは、今いる不可解な状況に当然の疑問を浮かべる。
なぜ、手合わせするはずの男が殺気立った訓練中の兵士達に囲まれているのかと。
ヴァネッサの言葉に一番近い場所にいた男が全員の胸中を代弁するように姫に告げた。
『ひ、姫様!聞いてください!あいつが姫様を侮辱したんです!おまけにそれを注意したアンガスを殴り倒したんですよ!』
『ほお、アンガスを倒したのか。やはり凄い奴だったか』
軽い準備運動の様に体を動かすヴァネッサ。
会話が終わってしまい、逆に疑問を浮かべた兵士は再度、慌てながら姫に話しかける。
『え、あの、姫様?それだけですか?』
『ん?それだけだな』
『そんな!?姫様を侮辱するなんて禁固刑でもおかしくない位じゃないですか!?』
必死に訴えかける男だが、ヴァネッサは涼しい顔で言い放った。
『そもそも、瞬は人を侮辱する様な事はしないであろう人柄だ。どうせ、拙い話し方で誤解を招いたんだろう。ここ数日の会話も一応ある程度は話せるようだが、どこかぎこちなかったしな。仮に本当に瞬が私を侮辱したとしても、命の恩人を牢屋に入れるなど数日間とはいえ私には出来ん。それに』
『それに、何ですか?』
『たかが侮辱一つで罪になるのは私も嫌だからな。さて、そんなことより私の用事だ。皆、散れ』
彼女の一声に渋々と兵士達は離れていき、壁際にまでひきさがった。
瞬が倒したアンガスも瞬を忌々しく睨む兵士達数人の手で運ばれ下がっていく。
助かった・・・。
リンチを受けずに済んで安心した瞬は肩を下ろす。
そこに目をまるで子供の様に輝かせたヴァネッサが歩み寄る。
『待たせたな!さぁ、手合わせしてもらおうか!』
助かってなかった・・・。
瞬の落ち着いた心をぶち壊すようにヴァネッサは高らかに言い、今からまた戦わなければいけない事に瞬は自然と溜息をつく。
そんな瞬の反応も楽しむかのようにヴァネッサは彼の前に立ち、木剣を構えた。
『お前が倒したと言う男の剣を取れ』
言われるがままに瞬はアンガスの落とした木剣を拾い上げ、諦めたような顔でヴァネッサに向かって剣を構えた。
『よし、あの時の続きだ。いくぞ!』
『お手柔らか、にっ!?』
礼をしようとした瞬に向かってヴァネッサはすぐさま飛び出し、無駄な動作の省かれた最速の突きを放つ。
慌てて礼をするのを止めた瞬は迫る突きの軌道上に剣を向けるが、それを受けたヴァネッサは強靭な手首を捻り、強引に突きの軌道を変える。
曲がった!?
その動きも捉えていた瞬だが、あまりの距離のなさに焦りを浮かべつつ剣の場所をずらした。
木剣同士がぶつかる乾いた音が上がり、ヴァネッサの放った軌道の変わる突きは瞬の体から逸れる様に瞬の剣によって軌道を変えられていた。
まさか防がれるとは思いもしなかったヴァネッサは、自分の中で驚きと喜びの感情が入り混じっているのを感じていた。
『やはりやるな!面白い!ならば、これでどうだ!』
突きを放った剣を引き、その反動を持って再度、突きを放つ。
ただ、今度は軌道は変化しないものの、瞬が剣で弾くと同時にまた突きを放ってくる。
その動きは徐々に早くなっていき、周りで見ている兵士達の中には何が起こっているか分からない者まで出てきていた。
「くっ!早い!」
次々に繰り出される突きをどうにか防ぎ続けている瞬だが、押し寄せる攻撃の波に前に出ることは敵わない。
防戦一方となった瞬の様子に、ヴァネッサも倒せるのは時間の問題かと思えていた。
だが、多少の気の緩みが生まれたせいか、彼女の突きの速度が遅く、威力が弱まった突きが来たのを瞬は捉えた。
それを力を込めて弾き飛ばし、彼女の体ががら空きとなった所へと剣を落とすように斬りかかった。
弾かれた剣では防御が間に合わない事を感じたヴァネッサは、咄嗟に後ろへと飛び、態勢を立て直しにかかる。
そこへ瞬が飛びかかり再度斬りにかかるが、ギリギリのところで立てなおしたヴァネッサは剣で防ぐ。
今度は瞬が攻める側となり何度も攻撃を仕掛けるが、ヴァネッサもその澄んだ瞳で全てを見通すかのように攻撃を予測し、瞬の攻撃を全て防ぐ。
っく!なんだ、この重い斬り込みは!?
表面上は涼しい顔でいなしていくヴァネッサだったが、その胸中は一撃一撃が今まで体験した事のない程力強い攻撃であるのに焦りを抱く。
手や腕も痺れを帯びてきた中で、瞬が振りかぶった攻撃に咄嗟に前に出る事で無理やり鍔迫り合いの状態へと持ちこむ。
『ふぅ、強いな!私とここまで出来るのはエドガーくらいのものだ!』
『それはどうも。じゃ、そろそろ止めて、休憩でも』
『まだまだこれからだ!』
叫んだヴァネッサは大地を蹴る様にして足に力を貯め込み、その力を解き放った事で鍔迫り合いの状態から瞬を押し返した。
弾かれてしまったもののよろけるまではいかない瞬。
だが、ヴァネッサが攻撃を仕掛けるには十分な隙が出来ていた。
華麗なステップで瞬の右側面へと回り込んだ勢いを活かし、振りかぶった剣を真一文字に振る。
回転をつけた斬撃は突きとは比較にならないほど重く、力がなぜか増している瞬でも防ぐだけで手が止まる。
そこでヴァネッサは信じられない行動に出る。
止められた剣を手放したのだ。
一瞬、それが何を意味しているのかと分からない瞬の前でヴァネッサは体を沈め、そして回転しながら飛んだ。
空中で落ち行く剣を拾い上げた彼女は回転する勢いのままに、瞬の脳天目がけて斬りかかる。
何が起こったのか咄嗟の判断がつかなかった瞬は剣での防御が間に合わない事を悟り、少しでもダメージを減らそうと頭を体ごとずらして剣の軌道から外す。
そこにヴァネッサの剣が振り下ろされ、瞬の肩へと一撃が入ろうとしていた。
私の勝ちだ!
誰もがヴァネッサの勝ちだと思ったが、次の瞬間、小さく木剣同士がぶつかった音が鳴る。
瞬の肩付近で剣は交差されていたが、ヴァネッサの剣を瞬の剣と肩が支える様な形で止まっていた。
これが本物の剣での事なら、威力は剣である程度防がれ、せいぜいかすり傷と言ったところだろう。
瞬は咄嗟に体をずらす際、ただずらすのではなく下にしゃがむ事で持っていた剣の防御に到達する距離を縮めていた。
それにより、際どい所で瞬の防御が間に合い、致命傷とまで至らない様な決定打を止める事が出来た。
『今のを防ぐのか!信じられん!これまでにない位、倒しがいのある奴だ!』
『あ、危なかった・・・』
『いいぞ!瞬!よし、次はお前の番だ!私の様に技の1つでも出してみろ!』
肩のヴァネッサの剣を撥ね退けた瞬は、後ろに飛んで距離を取った。
「ふぅ、技ですか。技と言われても」
息を整えた瞬はその場で剣をまるで鞘に挿したように剣の向きを変え、その場で体を沈める。
足の位置はまるで短距離走のスタート前の様に右足を前に左足は後方に置かれ、猫の様に背中を丸めながらも目はヴァネッサを捉える。
その目は決意を固めたのが見て取れるほど、強固な意志を宿す目をしていた。
「これしか知りません」
瞬とヴァネッサの目と目が合った途端、彼女の全身に嫌な汗が噴き出た。
・・・なんだ、このプレッシャーは!?
目の前にいる瞬からまるで飛びかかる寸前の獣の様な威圧感を彼女は感じ、呼吸も荒くなっていく中、知らないうちに唾を呑みこむほど緊張が高まっていた。
お互いが動こうとしない状況に、最初、外野は鞘に納める真似でてっきり瞬が試合放棄をしたものだと思い込んでいた。
瞬だけに野次や罵声が飛び交う中、徐々に姫様の様子がおかしいのに気づくと野次や罵声も無くなっていった。
それどころか瞬から感じる威圧感に訓練場から出ていきなくなる者が何名も出始めるが、ヴァネッサの試合を見ないなど失礼きわまる行為であると出ていく事も出来ない。
次第に訓練場内からは言葉が無くなり、ただ二人だけが対峙するのを見守る兵士達という図式が出来上がった。
時間にすれば1分程度。
ただ、彼女が感じていた時間は普通の時計の進み方とは完全に別だった。
微動だにしない瞬とは逆に、ヴァネッサの呼吸は荒く、何筋もの汗を顔に浮かべている。
『くっ!対峙しているだけでこれか!くそ!』
『・・・止めますか』
攻めあぐねている姫の前で瞬は構えを解いた。
途端に訓練場に漂っていた重苦しい雰囲気は消えて無くなり、兵士達は誰しもが安堵の息をつく。
ただ、それを良く思わない者が1人だけ残っていた。
『なぜだ!なぜ止める!』
剣を放り捨てて瞬を問い詰めようと目前に迫るヴァネッサ。
その勢いから迂闊な解答でもすれば、怒りを増長させるだけなのは誰の目にも明らかだ。
そんな中で瞬は言う。
『今のをやればどちらか大怪我するかもしれませんし、それに』
『それに、何だ?』
『今の僕では出来るか分からない技ですから』
瞬が言うのは『旅人』の力を持っていた時に出来た技だからこそ、今は出来ないかもしれないというつもりで言っていた。
ただ、それをヴァネッサはまだ未熟であるがゆえに出来ないかもしれないという意味で受け取っていた。
あれでまだ未熟であるというのが信じられない彼女だが、一応は納得したのか瞬の前から去っていく。
その表情は悔しげでありながらもどこか楽しげである。
修練場に残された瞬は、ふと自分に集中する視線が変化しているのに気づく。
アンガスを倒した後は忌々しさや怒りの籠った嫌悪する様な視線が多かったのに対し、今はまるで怪物を見ているかのような恐怖を含んだ視線ばかりだ。
どうしたものかと悩む瞬に、また後ろから声がかかった。
『お前、姫様と引き分けるとは凄い奴だったんだな』
声に振り向いた瞬の前には殴られた個所を押さえながら立っているアンガスの姿があった。
多少の痛みはやはりあるのか、アンガスは立っているのも苦しいらしく、息も荒い。
『大丈夫ですか?』
『やった奴に心配されるとはな。俺は大丈夫だが、それよりさっき姫様が言っていた通りなら俺はお前に謝らないといけない。すまなかったな』
そう言うアンガスだが、やはり瞬はある程度しか聞き取れないため、謝られた意味もぼやけた感じに受け取っていた。
ただ、アンガスに向かって一礼すると、アンガスの肩を持ち上げて肩を組んだ。
『お前、何を?』
『手当てする場所に行きましょう』
『フン、すまんな』
それを見た兵士達は瞬へ抱いていた悪いイメージが払拭され、力のある好青年という印象に代わっていた。
とは言っても、まだ恐怖を抱いている者もいる。
アンガスを叩きのめしただけでなく、ヴァネッサと引き分け、更に最後に見せた得体の知れない技の恐怖はそう簡単に消える物ではなかった。
それは修練場を覗き見ていたエドガー達の部下も同様だった。
もしかしたら奴と戦っていたかもしれないだけに、体を襲う焦りや恐怖から来る悪寒は観戦していた兵士達の比ではない。
『お、おい、奴は本当に強いぞ!手合わせなんてしたらこっちがやられちまう!』
『・・・っく、エドガー様に報告だ。どうするかはエドガー様に判断してもらう』
『な、なぁに、いざとなったら毒でも仕込んで殺せばいいんだ』
『そ、そうだな。は、はは、は・・・』
軽口をたたいたつもりでも最後に見た構えが異様に頭の中に残り、気分はまるで良くならない。
全員が青ざめた顔をしたまま、彼らの上司であるエドガーの元へと急いで去っていった。
大量の書物がそこらじゅうに詰まれ、カビ臭い空気が漂う部屋があった。
日の光が差す窓もなく、唯一の灯りと言えばテーブルの上に置かれたランプの頼りない光のみ。
その光を頼りに1人、本を読むことに没頭している者がいた。
一言も言葉を発する事は無く、部屋の中の唯一の音はページがめくれる音だけ。
ふと、部屋の外から何かが向かってくるかのような音が聞こえ、それは不協和音の様に水滴が落ちるように規則的だったページの音を妨げる。
『やれやれ』
本を読んでいた者はしょうがないとばかりにページをめくる手を止めた。
そして、いずれ来るであろう者を待ち構えるかのように本からテーブルの向かいにあるドアへと視線を変え、程なくしてそのドアが開かれる。
『お兄様、またここでしたか』
『全く、もう少しおしとやかにする事は出来ないのか?走る音で近づいているのがすぐに分かったぞ?』
『それはその・・・、以後、気をつけます』
『まぁ、いいだろう。それで、何か言いたい事があるんだろう?』
呆れたように言うオーウェンは、ドア付近で顔を赤くする妹に対して確信的に聞く。
何か嬉しい事や楽しい事があればすぐに自分に言ってくるという癖があるのをオーウェンは把握していた。
実は嫁に行ってもおかしくないほどの年齢である彼女なのだが、そういった幼少期からの兄弟間の癖が抜けきっていないのもオーウェンの悩みの1つでもある。
その癖通りにヴァネッサは笑みを浮かべながら、楽しげに言う。
『瞬はとても強かったんですよ、お兄様!』
『ふむ、お前が強いと言うからには相当なのだな』
『はい!とても倒しがいがあります!』
『そうか・・・』
瞬を倒す事に燃えているヴァネッサだが、そんな彼女を見たオーウェンはもう少し女性らしさを出せないものかと内心で溜息をつく。
何せ、見た目は近隣諸国でも噂になるほどの美貌なのだが、中身は剣や武道の事にしか興味がなく、戦が始まれば自分から軍勢を率いて出ていきそうな程だ。
嫁に出ていけば何をしでかすか分からない。
正にお転婆姫といった所なのだが、その実態を知るのは城内部の者達だけである。
そろそろ、言わなければいけないか。
周りを他の国々に囲まれている小国のイーグランドとしては、政治的にも外交的にも彼女にはそろそろ嫁に行ってもらうべき時期なのだ。
踏ん切りをつけたオーウェンは開いていた本を閉じて言った。
『ところで、お前に縁談が来ていたな。相手は』
『お断りします』
『・・・少しは聞く気がないのか?それとも、既に意中の相手でもいるのか?』
『そ、それは・・・』
オーウェンを見るヴァネッサの頬が赤みを増していく。
それに気づいて見返したオーウェンの視線に、彼女は慌てて視線を下へと外した。
『いるのか、いないのかはっきりしなさい』
『わ、わ、私は、その、私より強い男なら・・・、あとお兄様みたいな人とか』
最後の言葉はボリュームを捻った様に小さかったため、幸いなのかオーウェンの耳には届いていなかった。
彼女の言った言葉を元に、オーウェンは少し考えてふと閃いた案を言ってみた。
『それなら、ちょうど2週間後に闘技大会が開かれるな。そこでお前を賭けて皆に戦ってもらうとしよう』
『え!?お、お兄様!?』
『勿論、お前宛てに来ていた縁談の相手で腕自慢の者を見繕って参加させる。最終的に残った者がお前を嫁にする権利を賭けてヴァネッサ自身と対決だ。どうだ、これならよかろう?』
『そ、そんな!待って!』
『今回は待たない、何度も断っていたのだからいい加減に諦めるんだな』
肩を落として落ち込むヴァネッサ。
ただ、彼女の眼は諦めてはいなかった。
『私が勝てば嫁には行かなくて済むんですね?』
『ああ、勿論だ』
『それなら私からも条件があります』
『ふむ、一体何だ?』
『瞬を、私を助けたあの旅人も参加させてください!』
その条件はオーウェンには予想外だった。
彼から見れば、ヴァネッサをもってしても強いと言わせるほどの実力者を参加させろと言っているのだ。
素性もあまり明らかではない部分も気にくわないが、オーウェンには一番そこがひっかかっていた。
『なぜ、彼を加えるんだ?お前が負ける要素が増えるだけだぞ?』
『どうせやるのであれば、全力で戦える舞台を整えてやりたいだけです。私は負ける気はありませんけどね』
自信満々に言ってみせるヴァネッサ。
とりあえず、彼女が言うからそうなのだろうとオーウェンは問題視するのを止めた。
素性の怪しい東洋から来た者であるなら、最悪、彼を国から追い出してしまい、嫁にやる事もうやむやの内に無かった事に出来る。
そうなれば痛手はなしとなるが、嫁に行く話は一旦、消えてしまうだろう。
とはいえ、これで文句もなくヴァネッサが参加してくれるのであれば大目に見ても問題は無い。
そう判断したオーウェンだったが、実際はヴァネッサにも思惑があった。
仮に瞬が優勝してしまい直接の対決となった時、あの優しい人柄の瞬であれば事情を話す事で棄権してくれるだろうと思っていたからだ。
実力はそれなりにあるため、優勝も狙えなくはない。
つまり、彼女からすれば瞬は嫁行きを妨害する刺客として参加させる気だったのだ。
さすがにそんなことまで気づいていなかったオーウェンは首を縦に振る。
『よかろう、彼の参加を認めよう』
『ありがとうございます、お兄様。それでは瞬に伝えてきますので』
そう言うと部屋から出ていったヴァネッサ。
残されたオーウェンは誰もいなくなった中で頭を抱えながら大きくため息をついた。
『・・・やれやれ、簡単に決まってくれればいいが。さて、そんな事より』
今までの問題をそんな事で片づけたオーウェンは、閉じられていた本を開くと知識をため込む作業へと戻る。
部屋の中にはまたページをめくる音だけが聞こえる時間が始まった。
「ヘックシッ!」
『おい、風邪か?』
『いや、引いてませんよ。でも、悪寒もするし、まさか』
『俺に移すなよ、いいな?』
『はいはい』
医務室へとアンガスを運ぶ同中でくしゃみに見舞われた瞬。
その数分後、彼はくしゃみと悪寒の意味をヴァネッサの一方的な説明で知る事となる。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
出来れば文法や書き方、ストーリー展開で意見を頂けるとありがたいです。
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