きみヲみていた
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1.彼岸花
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彼女の髪が、今日も艶やかに、輝いていた。
毎週土曜日の昼、学校から近い図書館。彼女は鮮やかな赤色の表紙をした本を、熱心に眺めてはノートにペンを走らせていた。
僕はというと、彼女と対角になる席に座ってみたり、彼女の背後にある本棚から、バレないようにその姿を覗いていた。
熱を感じさせるその背中や瞳を、こっそりを視界に入れては、満足感に浸りながら図書館ライフを過ごしていた。
その日もいつも通り、彼女がいるはずのテーブルに足を運んだ。
でも、彼女はいなかった。
席には、彼女がいつも持っていた赤い表紙の本が、開いたページを下にして置かれていて、さらに下には、表紙に「日記」と書かれたノートが1冊あった。
彼女は、もういなくなってしまったのだろうか。
僕は薄汚れた赤い本を持ち上げて、開かれたページに目を通した。
やっぱりだ。
なんだか、笑いが込み上げてきたよ。
そのベージの1行目には
「ストーカーから身を守る方法」なんて書いてあった。
そこで確信した。
どうやら僕は、彼女にとって「ストーカー」だったらしい。彼女は、僕に見られていることに気づいていたんだね。
そして、恐怖していたはずだ。
それなのに、周囲に打ち明けることなく、毎週毎週、変わらずこの席に座っては、恐怖感にさいなまれていたのかと想像すると、彼女がとんだマゾヒストに思えてきて、気持ち悪さに笑いが込み上げてきたよ。
僕はその本と、一緒に置かれていた日記を持って、二度と踏み入ることはないであろう図書館を後にした。
その日、解放されていないはずの図書館の屋上から、1人の女子高生が消えた。
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2.キンモクセイ
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ふわっと香ったキミの髪は、柔らかいキンモクセイの匂いがした。
キミが美術室に現れた時、それまで絵の具と湿気の匂いが渦巻いていたそこが、パッと花の咲く庭園に変わったのを感じた。
キミは入部ときから謙虚で、周囲の人間は皆自分の師であるように慕って、人の美点を見つけては吸収して、高慢になるどころか「まだまだです」と言って、ひたむきに努力をし続ける、まさに人間の鏡みたいな子だった。
いつしか僕の背中を追うようになったキミに、別に悪い気はしなかったさ。
だってキミの目は僕を写していたからね。僕だけに注がれるものが、確かにあったと感じたんだ。
だからキミは、僕の誕生日に、僕の名前が彫られた筆をプレゼントしてくれたんだろう。
名前が1文字違ったのも、キミのお茶目なサプライズだったね。
キミは申し訳なさそうに、恥ずかしそうに、いつも僕に見せる笑顔を、僕だけにみせてくれた。
それなのに、どうしてかな。
キミはその笑顔を、誰にだって向けていたことに、気づいてしまった。
気づいた時には、キミの周りは満員じゃないか。
僕は、回送電車が素通りしていくホームでも、いつ来るかなんて分からない各駅停車の到着を待って、キミが心のドアを開けてくれるのを待とうって、決めたんだ。
部活帰り、駅前のファミレスに入って、しばらく空が暗くなっていくのを見送ってから店を出た。
駅で1番安い切符を買って改札機を通る。
今日も、ホームの点字ブロックより前に立つ女子高生の後ろに並んだ。
その時、偶然気づいたんだよ。その子のバックが空いていて、今にも本が落ちそうになっていることに。
僕は気になって仕方がなかったから、その子に教えてあげようって思った。
もう本が落ちそうだったから、1度それをそっと取って「落ちてました」とでもテキトーな嘘を言って渡してあげようと思った。
だって、普通に声をかけたとして、振り返った拍子に本が落ちたとしたら、僕のせいだって、この子はもっと僕を警戒するようになるかもしれない。
そうして僕はそっと本を抜き取った。
さぁ話しかけようって思ったら、遠くから電車が近づいてくる音が聞こえてきた。
だからね、声がしっかり届くように大きい声で声をかけた。
そしたらその子すごく驚いちゃって、バッと勢いよく振り返った。
ふいに振り返ってよろめいたその子に、僕は手を伸ばした。
でも、その子は拒絶した。
末に、ホームから足を踏みはずしたんだ。
振り返った瞬間に匂ったのは、初めて会った時と変わらない、柔らかいキンモクセイの香りだった。はずだった。
それは一体、誰のシャンプーの香りだ。
キミは僕の視界からゆっくりと消えていって、電車は、汽笛をうるさく響かせるのとほぼ同時に、目の前をさえぎっていった。
僕はもう話しかけるのなんてやめて、本を持ったまま改札を出た。
家に帰ってすぐ、その本と一緒に、自分ではない名前が彫られた筆を自室の押し入れの奥にしまった。
また、いらない荷物が増えたじゃないか。
明日までに、退部届を書こう。
だって、部活を続ける理由であるキミが、もう世界から消えてしまったからさ。
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3.除夜の鐘
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「夢なら早く覚めてくれ」
行き場のない懇願の声がマスクの中で響いた。
全身を締めつける痛いくらいの寒さと、神社から連なる長い行列だけで、今の僕を苛立たせるには十分だった。
早くこれを処分したい。僕は、胸の前に抱えたリュックをギュッと抱き直した。
そのリュックの中には、自分ではない名前が彫られた筆と、2冊の同じ本と、日記が入っていた。
この混雑に紛れて、焚き上げにこれを投げ込めば、心にまとわりついた執念と罪悪感も、きっと葬れるだろうと思った。
そして、長い行列は遊覧船のようにゆっくりと進み、やっと自分の番がきた。すぐ横には焚き上げの炎がパチパチと音を立てながら燃えていた。
さっさと参拝を済ませて、炎の上がる方へ歩き出した。
「執念に追われる気分は、どんなものなのでしょう」
嘲笑を含んだ冷たい声が耳に入った。思わず足が止まった。
巫女だった、巫女に話しかけられたらしい。凛とした顔立ちで、気の強そうな巫女だった。
ひとこと話しかけられただけで汗が止まらなかった。
足が地面にくっついて離れようとしなかった。
まるで断崖に立たされているような、今にも荒波に落ちてしまいそうな、そんな恐怖で息が詰まった。
「女を追った男は、念に追われて苦しむ、だなんて、面白い話ですこと。ねぇ、ストーカーさん」
低く冷たい巫女の声に、吐き気がしてきた。
いつの間にか、背中は冷や汗でぐっしょりと濡れて、いやらしく背中に張りついていた。
どんどん加速する鼓動が、耳にドクドク響いた。
逃げなきゃ、リュックなんてそのまま投げ捨てて、早くここから解放されたい。
逃げなきゃ、逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ、逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい、逃げたい......。
「パチンッ」
焚き上げの炎が大きく、一瞬だけ叫んだ。
僕は一気に空気を飲み込んで、目をバッと勢いよく見開いた。
僕の早まった鼓動とは裏腹に、そこは、しんと静まり返っていた。
真っ先に視界に飛び込んだのは、木目の天井で、自室であることに気づいてホッとした。
隣のリビングでは、テレビから大音量の、除夜の鐘が流れていた。
額も体も、冷や汗でぬめっとしていて気持ち悪かったから、シャワーに入ることにした。
部屋から出る時、ベットのすぐ横にあるローテーブルに乗ったスマホが、小さな緑色のライトを、ピカ、ピカと不規則に光らせて、メッセージの通知を知らせていたけど、僕は早くシャワーに入りたくて、その時スマホを開くことはなかったよ。
けど、朝になってスマホを開いても、メッセージなんて、1件だって来ていなかったんだ。