出逢い/呼び捨て
翌朝。
なに?
「ハラ減った~」
「お腹減ったって私に言われても」
揺さぶられているのを感じたかおりが目を覚めすと、子供みたいに甘えて抱きつく龍之介。
おもはゆい様子で彼から視線を逸らすが、すがるように見つめる龍之介の視線を強く感じ、かおりは見返した。
「私に作れって?」
「ご名答~」
嬉しそうに大きく頷く龍之介。
性欲満たしたら、次は食欲か。お前はっ!
「……バスタオル取って」
かおりは苦笑いを浮かべ、小さく息を吐いた。
「その前に、」
口を差し出す龍之介。
もしかして……。
「なに?」
「おはようのチュッ」
言わんとすることはわかったけれど、わざとつっけんどんに返すかおりに対し、彼女の対応などまったくもってこたえていない様子の龍之介。
「バカ」
そんな彼がかわいく思え、だけれども、素直にそれを表せない彼女は憎まれ口を叩きながら軽く唇を合わせた。
満足気にニヤッと笑い彼女から離れると、近くにあったバスタオルを渡す。
かおりは体を起こし、掛けていたタオルケットで胸を隠しながらそれを受け取ると巻きつけて、ベッドからズルズルと起き出した。
「シャワー借りるね」
「いーよ。あ、洗濯物、脱衣所に置いてるよ」
「うん?」
んんん?
ふと、昨日身につけていた衣服は洗濯だけして乾かすのを忘れていたことに思い出したかおり。
「ちょっ、ちょっと待って。もしかして乾燥機かけた?」
「うん。畳んでるよ」
「はい~!?」
それって下着も見られたよね!? 恥ずかしい!!
顔を赤くするかおりは龍之介を凝視する。
「そのままにしててよかったのに」
「なんでー。かわいかった、下着」
かおりの言動を察した龍之介はニヤニヤと笑う。
「バカじゃないっ」
「今度は服を脱がすところからじっくりシたいかな~」
「バーーカッ」
顔を真っ赤にしたままかおりは意地の悪そうな表情を龍之介に見せて急いで部屋を出る。
龍之介のヒャッヒャッと笑う声がドアのこちらまで聞こえた。
SなのかMなのか、ホントよくわかんないっ!
龍之介の言う通り、洗濯機の上にかおりの衣類が置かれている。やはり几帳面な彼らしく、シワをできるだけ伸ばしたり肩を合わせたりした畳み方をしていた。
ホッントきれいに畳むしっっ!
おおざっぱなかおりは顔をしかめた。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、龍之介はソファを背もたれにしてラグの上に座り、文庫本を読んでいた。彼女に気づき、顔を上げる。
「あ、シャワーありがと」
「いいえーどういたしまして~。今度は一緒に浴びようね」
かおりは鼻で笑った後、「ハイハイ」と受け流しながらキッチンへ向かう。
シンクはきれいだった。キッチンはどう考えてもあまり使っている風ではない。
もしかして……。やっぱり!
冷蔵庫を開け、かおりの勘は確信に変わる。
独り暮らしにはもったいないほどの立派な冷蔵庫の中は飲み物が少し入っている程度で、食材らしきものは一切なかった。
これでどういう料理をしろと?
眉間に皺を寄せた彼女が冷蔵庫を閉めた時、龍之介が後ろから抱きついた。
「料理しようにも食材がないんだけど」
彼の余りある愛情表現にかおりも慣れた様子。特に抵抗することもなく訊く。
「あ、そうだよね~。だよね~、だよね~。うん、買い物行こうか~」
そうして、ふたりは近所のスーパーに繰り出した。
「なに食べたい? お米はあるよね? さすがに」
「ないよ~」
「えぇ!? マジで!? あんだけ掃除とかちゃんしてるのに。料理はやってないのはよくわかったけど。ご飯も炊かないの?」
呆れ果て首を傾げるかおり。
「別に、」
次の瞬間、彼女を見つめる龍之介のその表情と冷淡な口調にハッとして息を飲む。
「できないワケじゃない。自分のために作るのがイヤなだけ」
「………」
(まただ)と龍之介の少し冷めたような表情に“金持ち”発言をした時のことを思い起こすかおり。
龍之介はそんな彼女の様子に気づいてか、すぐに表情を緩めた。
「でも、今度からはウチでかおりちゃんと食事する機会も増えるから、色々調味料とかも買おうか」
「な、なんで、私と一緒に食事する機会が増えるのっ」
かおりは機微に動揺しながらも、それを悟られないように彼に合わせ意地悪くそう言うと、龍之介はクスッと笑う。
「当たり前でしょ。付き合ってんだから」
瞬時にかおりの顔が赤く染まった。
「そーなんだ、知らなかったー。私たち付き合ってたんだ? ほぉ~」
「あれ~。かおりちゃんは好きでもないオトコと一緒に朝を迎えて、それで終わりにするようなかるーいコなんですか~?」
「さ~ぁね~」
「あれ~。オレ、悪いオンナにひっかかっちゃった~?」
ニヤリとする龍之介。
「バーカ」
かおりはそう言った後こちらもニヤリ。
ふたりは顔を見合わせ、ふんわりと笑った。
買い物の最中、ほんの少し手前を歩き、購入品をカゴに入れていく彼の背中を見つめながら、(ひっかかったのは私のほうだし……)と心の中で呟いた。
調味料の類はもちろん、ありとあらゆる調理器具なども買い込んだ。
それでもかおりにとっては十分とはいえなかったが、とりあえず当面要りそうな物だけを購入することができた。
ふたりは両手いっぱいに買物袋を提げて、マンションに帰ってきた。
かおりは共働きの両親・兄と弟の五人家族。必然的に料理をするようになっていた。
そのため、非常に手際よく、短時間で汁物を入れて三品のおかずを用意した。卵焼き・筑前煮・具だくさんの味噌汁。卵焼きは龍之介の希望により甘めで。
「うおー! チョーうまそうなんですけどーっっ」
「うまそうじゃなくてうまいしっ」
目の前に並んだ品々を眺め、歓喜の雄たけびを上げる龍之介に対し、照れくささを押し隠すようにぶっきらぼうに返すかおり。
「そだね」
彼女の性格を早くも把握しつつある彼がニッコリと笑い返すので、かおりは顔を赤くし、うつむいた。
龍之介は顔の前で手を合わせる。
「ほら、かおりちゃんも」
「あ! あ~ぁ、うんっ」
龍之介を見たかおりは慌てて手を合わせた。
「いただき~?」
「ますっ!」
視線を向ける龍之介とそれに応えるかおり。
「いただきますっ」
もう一度きちんと言うと、龍之介は味噌汁碗を左手に持ち、すする。
「うまいっ!!」
口角を思い切り上げてかおりを見た。
「でしょ~! だから言ったでしょう」
料理の腕にはそこそこ自信はあったものの、やはり言われると嬉しいワケで。
だけれども素直になれないかおりは冗談っぽく返す。
そんな彼女を見ながら、彼も嬉しそうに何度も頷いた。
まだ味が充分に染み込んでおらず、かおり的には不満足な出来の筑前煮はもちろん、卵焼きや味噌汁をひたすら「うまい」「うまい」と食べる龍之介。
大学生になってからこんなふうに家で誰かと一緒に食事をするということがほとんどなかったため、かおりは今とても満たされていた。
まだ出逢って二十四時間も経過していないのに、かおりの脳裏には彼との将来―彼と自分と、そして子供がいる。平凡だけれども楽しい日々―がふんわりと浮かんできた。
はっ!?
その世界にすっかり浸っていた彼女だったが、自分の想像に驚き、慌てて頭を振った。
だけれども、彼と一緒に過ごすのはかおりにとって至極自然なのは否定できず、まるで以前からずっと彼とは恋人同士だったかのような錯覚にすら陥るのだった。
ブランチの後片付けの後、身支度を整え終えたかおりはソワソワし出していた。
今日は土曜日でバイトのシフトが入っている。そろそろここを出ないといけない時間になった。
だけど、なんとなく名残惜しく、別れを告げるのがさみしかった。
今まで彼氏は何人か出来たが、あんまりベタベタとするのも好きではなかったし、何よりもこんなにも一緒に過ごしてそれでも時間が足りなく思ったことはほとんどなかった。
改めて彼のことを好きだと実感するかおり。
その気持ちがこそばゆくて、彼のほうをほとんど見ることができなかった。
「どうしたの?」
さっきからソファーにも腰掛けず、床に座ってバッグの持ち手をいじっている落ち着きのないかおりを見て、龍之介は不思議そうに訊く。
「あ、うん。もうそろそろ出ないとバイトの時間になるから」
「え? バイト? そうなんだ。じゃあ送るよ」
深く腰を下ろしていた龍之介は勢いをつけてから立ち上がる。
かおりもそれに続くように慌てて立ち上がり、「あー、いい、いいよっ」と若干戸惑った様子で手を左右に振る。
「えー。ダメ! 送るっ」
言うこともきかず、龍之介は出かける準備をするため寝室へ向かった。
断りきれなかったかおりは吐息を洩らした。
送ることを断ったものの、本音は送ってほしかった。また、龍之介がそう言ってくれることはなんとなくわかっていたけれど、内心すんなり引き下がったらショックだった。
矛盾してるなぁ。こんなに自分の気持ちがコントロールできないのは初めてかも。
しかし、決してこんな自分が嫌いじゃないと思う彼女がいた。
諏訪神社に程近いところに、かおりのバイト先のコンビニはある。
諏訪神社は市民に親しみをこめて「おすわさん」と呼ばれている。この地でおこなわれる長崎くんちは日本三大祭のひとつであり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
長崎くんちは毎年十月七~九日までおこなわれる。
「龍踊」「鯨の潮吹き」「太鼓山」「阿蘭陀万才」「御朱印船」など、ポルトガルやオランダ、中国など南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、特に傘鉾、曳物(山車・壇尻)、太鼓山など、京都や堺の影響が窺える。(Wikipediaより)
店には駐車スペースがないため、龍之介は近くの路肩に車を停めた。
「帰り連絡して」
「へ? なんで?」
ごく当たり前のように言う龍之介に、かおりは驚いた表情を浮かべ、彼の横顔を見る。
「迎えに来るから。今日も一緒に過ごそう?」
甘えるようなその表情に、かおりはキスをしたい衝動に駆られるがここは外。ましてやバイト先とは目と鼻の先。こんなところではとてもできない。
理性が勝った。
ふぅ~、危ない。私。
「うん、ありがと」
若干顔を赤らめているかおりはふと肝心なことに気づいた。
「ねぇ、うちら連絡先知らなくない?」
「あ、ホントだ」
そんな初歩的なことすら交わさないうちに事に及んだ自分に驚きつつも、かおりはトートバッグからスマホを取り出す。
彼がクックッと笑いながらスマホをドアポケットから取り出し、いじると電源が入る際の音が流れ、すぐさま電話やメールの着信を知らせる音が鳴った。
「電源切れてたの?」
「いや。切ってた」
ん? 切ってた?
かおりは女の勘で、故意に切ったのは女の影があるからではないかと思う。眉間に皺を寄せ、「……いつから?」と訊く。
「昨日合コンに行った時から?」
かおりがなにかを感じ取ったことを雰囲気で察したが、のんきに返す。
「なにそれ。あー、私といる時に他の女からかかってきた電話とりたくないもんねー」
かおりが嫌味っぽく言うと、龍之介は「うん」と悪びれる様子もさらさらなく、いまだにスマホの画面を見ながらいじっている。
このオトコはホントに!
かおりは怒りをおさえるように溜め息をついた。
「……いい、迎えに来なくて」
そして低い声で告げると、急いでスマホを再びバッグにしまってドアを開けるかおり。
「なんでよー」
彼女の心境などわからない龍之介はきょとんとして彼女の腕を取る。
「今日は私以外の女と仲良くすればよくない?」
もうイヤ。
冗談っぽく言っているつもりだったが、声が震える自分が情けなく感じる。
「やだね」
握っていた手首に力を入れ、反対側の腕を伸ばし、勢いよくドアを閉めた。そして、かおりを自分の体に引き寄せると強引にキスをする。
「ん!! ん~!」
もうっ!! キスでごまかすってサイテー!
最初は抵抗していたかおりも力を抜き、彼のなすがままになる。
惚れた弱みか……。
かおりは泣きたくなる気持ちを必死にこらえた。
「仲良くしたいオンナなんてかおり以外いないから」
唇が離れ、沈黙が続いたのち、龍之介は少し低い声で囁く。
そして、かおりから離れると、「かおり以外いらないもーん」とたった今の言動はなんだったのかと思うほどコロッと態度をかえ、無邪気そうに彼女に笑いかける。
「アンタね~っ」
振り回されっぱなしのかおりは渋い顔で龍之介を見た。
「あ、ねぇ」
なにかに気づいたように、かおりの顔を見つめる龍之介。
「かおりさー、オレのこと、まだ名前で呼んだことなくない?」
言われてみれば……。
もともと「アンタ」や「ねぇ」などと相手に呼びかけることが多いかおりだったが、無意識のうちに龍之介のことを名前で呼んでいなかった。
「っていうか、アンタは私のこともう呼び捨てだしね」
「だって、ちゃんづけキャラじゃなくない?」
「それはそう」
あまりちゃんづけで呼ばれたことのないかおりは呼び捨てで呼ばれるほうが自分らしい気がし、なにより彼が自分のことをそう呼ぶほうが自然な気がした。
「ねぇ、呼んで」
「なんて?」
「龍之介でも。長いのが呼びにくいならリュウでもいいよ」
「わかった」
「わかったじゃなくて、呼んで」
改めて催促されると呼びにくくなるものである。かおりは困ってしまい、口を尖らせる。
「はい、せーの」
「りゅ、りゅうの、すけ」
「もっと、ちゃんとー!」
「ハイハイ」
かおりは観念する。
「……龍之介」
「うぃー」
ニッコリと笑う龍之介。そんな彼の顔を見ると、かおりは照れくさそうにしながらも笑顔になるのだった。
そうしてふたりは連絡先を交換し、いったん分かれた。




