絆/バックグラウンド
ふたりが出逢ってから二週間が経った。
かおりはまったく知らなかったが、十和子の言っていたように龍之介は彼女の大学ではなかなかの有名人であり、かおりが恋人になったという噂はあっという間に広まった。
そのため、当初は彼とのことを随分と根掘り葉掘りきくコも多くいたが、それも一過性のもの。今は取り沙汰されることもだいぶ落ち着いた。
ただ、今まではなかったような好奇な視線や冷たい視線などに時折晒されることがあり、改めてかおりは彼の存在感に驚かされていた。
もっとも、心配された“自称・彼女”とのトラブルは今のところなく、ふたりの交際は至極順調だった。
「今日遅くなるから」
朝、寝室でそれぞれ出掛ける準備に取りかかっていると、龍之介はドレッサーに向かってメイクをしていたかおりに告げる。
ちなみに、ドレッサーはかおりのために独断で龍之介が購入したものだった。
彼女としてはそんなことをしてもらうつもりは毛頭なかったが返品する訳にもいかず、結果、今は気に入って使っている。
実家でも長崎でも、ドレッサーは狭くなるからという理由で持っていなかったが、本当はドレッサーを持っている同世代のコを羨ましく思っていたから、彼が手配してくれて実はとても嬉しかった。
しかしながら、その一方で、龍之介と付き合っているとどんどんと自分の金銭感覚が変わりそうで、彼女はそれが少し不安だった。
「わかった。じゃあバイト終わったら今日はアパートに帰るね」
彼が大学の関係で遅くなる時はかおりは自宅に帰っていた。
「うん、それなんだけどさ」
「ん?」
「色々考えたんだけど、」
「うん」
後ろに立っている龍之介と鏡の中で目が合いそのまま鏡越しに視線を合わせる。
「んっ」
そう言って勢いよく拳を突き出すため、彼女は少し後ろに体を向け首を傾げながら彼の手の下に添えるようにして手のひらを差し出した。
すると、そのひらに置かれたのは一本の鍵。
あ……。
かおりはそれが何の鍵か察し、照れくさそうに彼の顔を見る。
「合鍵デェ~スッ」
外国人の真似する変な日本人の口調でおどける龍之介。
「バ~カッ」
そう言った後に彼の顔を見てふっと笑う。
「だから、これからはオレが遅い時もウチに帰ってきて」
「んっ」
はにかみながら鍵に握り締めた。
「じゃあ、オレ下で待ってるね」
鼻唄を歌うような口調で告げると龍之介は部屋を出た。
かおりも準備を整えてからマンションの駐車場へ急いだ。
龍之介は彼女を見つけ、中から助手席のロックを解除。かおりが乗り込むと、すぐに車は出発する。
時間の合う日は、こうして龍之介の車で大学まで通っている。
かおりは送ってくれるのはマンションの最寄り駅まででいいと何度も訴えたし、実際、時間の関係でそうせざるを得ない場合もあるが、龍之介は可能な限り彼女を大学まで送り届けていた。
送ってくれるだけでも学内の女子から、好奇の目で車から出てくるのを見られて恥ずかしい。
おまけに車から降りる際キスしてくるので、誰かにその現場を目撃されていると思うといつもヒヤヒヤして大学へと入っていくのだった。
「あ、ごめん。ガソリン入れてく」
龍之介はガソリンメーターをチラリと見た。
「了解。……ねぇ、この車、高いんでしょ?」
一緒に乗っていた時に一度だけガソリンスタンドに入り、その時、この車のガソリン種がハイオクであることを思い出したかおり。
今乗っている車が外国産車であることやレギュラーガソリンに比べ、ハイオクのガソリン代が高いことから、車に詳しくない彼女は何気なく訊いてみた。
付き合い始めてから半月。その実、彼のことはほとんど知らない。
出逢った頃に見せられた彼の陰の部分が引っかかっていたから、気になることがあっても彼のプライベートに関することは自分からはあまり触れないようにしていた。
しかし、だからと言って彼のプライベートに踏み込まないことが難しいくらいの想いを龍之介には抱いていた。
「知らない」
「え? なんで?」
「だってもらっただけだし」
「はい?」
「免許取った時に父親が車買ってやるって言ってくれたけど、オレは乗れたらなんでもいいから家で余ってる車どれかちょうだいって言ったら、コレくれたし」
「はい?」
「オレも車興味ないから、これが高いかどうか知らない」
「っつか。実家に車何台あるんだよ!?」
「さぁ。……五、六台じゃない?」
かおりは口をあんぐりさせる。
この“高そう”な車ですら余っている状況や、五、六台なんて所有していてなおかつそれを把握していない家庭環境は、実家に一台の軽自動車しかないかおりには違う世界のように感じる。
「なんで?」
「なにが?」
「オレの家のこと、気になる?」
「気になるよ、そりゃあ。付き合ってるんだし、当たり前だと思うけど?」
「付き合ってるから当たり前ね。ふ~ん……」
あまりおもしろくなさそうに答える龍之介。
少しだけ重たい空気がふたりを包んだ。
「……だって、」
重い空気をなんとかして一掃したいのと自分の気持ちを伝えたいのとが入り混じった感情で、かおりはぽつりと呟く。
「龍之介のこと、もっと知りたいって思うことがそんないけないこと?」
言った後で、顔がみるみると赤くなるのを自覚するかおり。
龍之介はハッとして横目でチラリと見た。照れくさそうに他所を向いている彼女が視界の端に映り込み、思わずにんまりとする。
「いけないことないねー」
目の前の信号が赤になり車を停めると同時に彼女の右手首を掴み、自身へ引き寄せる。びっくりした彼女が振り向くと、そのまま軽くキスをした。そして、何事もなかったかのように彼女を離す。
「イミわかんないしっ」
あっけにとられて目をパチクリとさせながら体を元の位置に戻し、前方を見る。
「急にかおりにキスしたくなった」
かおりは顔を赤くしながら呆れ顔で「なにそれ、なにそれ、なにそれー」と呟いた。
「……かおりにはさ、ちゃんと話してくから」
横をチラリと見ると、真顔で前を見据える彼がいた。
「んっ」
かおりは小さく頷いた。
話していくと言ったものの、もちろんすぐには切り出すはずもなく、自然とふたりは黙った。
でも……。
かおりは自分に置き換える。
かおり自身、大事な内容でも大切な人にだってすぐには言わないことはある。別に隠すつもりではなく、自分の気持ちの整理がついてから伝えようと思う性分だったからだ。
きっと龍之介も同じだと思った。そして、彼が自分から話したくなる時期が来るまで静かに待つことに決めた。
「――……今晩さー、なにがいい? 今日早いし、カレーにしようか、リュウの好きなサラサラ系のカレー」
かおりは気分をかえようと明るい口調で話す。
彼女は“龍之介”と言うのがまどろっこしいらしく、早口で話す時には彼のことを“リュウ”と呼ぶことが多い。また彼の雰囲気から龍之介よりもリュウのほうがしっくりくるような気がしていた。
龍之介はかおりの発言に表情を緩め、「うん、カレーいいね」と応える。
「じゃあ、夏野菜のカレーにするね」
「おまかせ~」
そんな話をしながら、ふたりの通学デートは幕を閉じた。