トラサカキツトの場合2
「世界は今、かつてないほど魔獣があふれかえっています。ですから、我々は強い力と正義の心をもった勇者様を異世界より召喚し、それら魔獣と、魔獣を統べる王である魔王を倒していただこうとしているのです。わたくしはディーネ。この国を治める王の一人娘にして、勇者に捧げられし巫女です。どうぞわたくしの願いを聞き届けてはいただけませんでしょうか? 国から……いえ、大陸、世界から、悪い者たちをなくす、正義の味方となってはいただけませんでしょうか?」
彼女は語る。
彼にとってその話は新鮮なものだった。
同時に、疑わしいものでもあった。
人並の常識と、現代人なりの科学知識を持っている。
異世界召喚。
勇者。
魔王。
ありえない単語ばかりが並ぶその話を信じ切るのは、彼にとっては難しい。
だけれど、彼は、そのあり得ない話を語る少女を一目で気に入ってしまった。
美しい容姿に惹かれたのも、あるだろう。
だが、一番の理由は、言葉から、嘘くささを感じ取ることがなかった事だった。
彼女の言葉は真摯であり、懇願のようにさえ聞こえた。
彼女は自分を騙そうとはしていない。
直感的に信じることができた。
それに。
困っている人を助けるというのも、彼にとっては気の進むところだった。
正義の味方と呼ばれたいわけではないが。
正義の味方には、なりたかった。
彼は悪を倒すことに躊躇するような人格の持ち主ではない。
だから、『人々を困らせる魔王を倒す』という目的は、彼にとって非常にわかりやすく、やる気の出るものであった。
「わかった。君の語る正義に従おう」
ほとんど二つ返事で彼は承諾する。
ディーネは輝くような美しい笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます。これで、私の国も救われることでしょう」
悲願が叶ったかのように。
その笑顔には、涙すら浮かんでいた。
――もしも、この場に、誰か第三者が存在したならば。
事態の異常性に気付いただろう。
あまりに順調に事が進みすぎている。
疑い、戸惑い、迷い、弱音……そういった人間ならば当然抱くべき感情が、この二人の会話からは抜け落ちていると。
誰か、少しでも普通の心の弱さを持った人間がこの場にいたら気付いたことだろう。
だが、この場にいたのは二人だけだった。
魔獣により存亡の危機を迎えた国家に生まれ、臣民の安寧をただただ願う、高潔で心優しい勇者の巫女。
そして――彼。
「勇者様、お名前を教えていただけますか?」
ディーネが問いかける。
彼は答えた。
「トラサカキツト」
特段、隠すような名前だと、彼は思っていなかったから。
ディーネは少々戸惑ったような顔をする。
「やはり、異世界の方は変わったお名前ですのね」
それでも笑った。
むしろ変わった名前に感じるからこそ、勇者召喚が成功した確信を得たとでも言うように。
こうして勇者の冒険は始まる。
悪を倒すまで終わらない、正義の味方の冒険が。