○○○○の場合4
「ねえパパ、最近ね、街で怖い噂があるの」
帰って来た娘が、唐突に切り出した。
彼は首をかしげる。
「どんな噂だ?」
「森に入ると、帰ってこないっていうお話」
娘は真っ直ぐに彼を見ていた。
彼は、困ったような顔をする。
「……怖い噂だ。コレットも、気をつけるんだぞ」
「わたしがお世話になってる酒場の娘さんも、そうだったんだって」
「……」
「もう数年前だけれど、わたしぐらいの歳の娘さんが、森に薪をとりにいったら、そのあと、まったく帰ってこなかったんですって」
「……そうか」
「ねえ、パパ。その森って――ここよね」
コレットは、どこまでも真っ直ぐに、彼を見ていた。
彼は、話の流れを無視して言った。
「街に帰れ。お前は人間だ」
「パパは化け物なのよね。……あのね、ここ数年は、森に入ったって、大丈夫だったんですって。でも最近急にまた、森に入った人が帰ってこなくなったの。最近――わたしが、修行で街に入り浸るようになってから」
「……街へ、帰れ。そして、二度と、来ないでくれ。頼むから」
彼は懇願する。
――きっと、コレットはとっくに確信をしている。
懸案事項。
彼が子育てをしていく中で抱えていた、二つの大きな問題。
一つは、娘が化け物の子として迫害されてしまうかもしれないという懸念。
そしてもう一つは。
彼は、娘にだけは知られたくなかった。
それでも。
聡い子だ。
……それに、街では、色々な情報を聞く機会があるだろう。
意図的に彼が隠していた情報だって、コレットは仕入れているかも、しれない。
やめてくれと叫びたいほど恐怖して。
同時に、ようやく楽になれる、もう隠し事をしなくていいという安堵があって。
彼は黙って、コレットの言葉を待つことにした。
コレットは。
やっぱり、真っ直ぐに彼を見たまま、言う。
「パパは、人間を食べるのね」
確認というよりは。
確信という声だった。
彼は脱力感に包まれた。
娘が物心ついてからは、一切の『食事』を絶っていた。
ひょっとしたら。
自分は、人間の肉以外でも我慢できるかもしれない。
そう思って、試したけれど。
無理だった。
それでも、空腹に耐えた。
人並の倫理観を持つ彼は、娘にだけは食人の化け物であると知られたくなかったから。
日に日に娘は大きくなっていった。
日に日に肉付きがよくなっていった。
日に日に。
美味しそうに、なっていった。
「トロールっていう、食人の化け物――そう街で呼ばれてる存在が、パパよね」
彼は力なくうなずく。
でも、これだけはわかってほしかった。
「俺は、お前を食べようと思って育てては、いないんだ。お前を娘としてかわいく思っていたんだよ。これだけは、どうか、信じておくれ。俺は、お前の幸せを、それだけを本当に願っているんだよ」
愛を疑われたくはなかった。
空腹をこらえてまで貫き通した愛だった。
愛している。
だからこそ、遠ざかってほしい。
コレットが街に出て幸せに人として生きていけるなら、それが一番だと、そう思っていた。
「わかっているわ。わたしは、パパの娘だもの。パパがわたしを食べないようにがんばっていたのは、信じているし、疑ってもいないわ」
証明するように。
コレットは彼に抱きつく。
柔らかな少女の肉の感触があった。
彼は唾をのみこむ。
牙を突き立てたらどんなに幸福だろう――そう思ってしまうことは、止められない。
化け物の本能を。
ヒトの理性で押さえ込む。
理性には愛情が味方した。
そんな数年間だった。
「あのね、わたし、嬉しいの。……ようやくパパに満足してもらえそうなんだもの」
「……どうやって。俺は、人を喰うことでしか、満腹になれないのに」
「もう人を襲うことはやめて。そのうち、ばれるから。わたしがどうにかするわ」
コレットは冷静に言う。
むしろ、その申し出に彼がおどろいた。
「どうやって」
「……なんとでもなるわ。わたしは、人里に出入りできるんですもの。新鮮な死体なら、きっとパパも食べられるでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「だったら、用意できるわ。その代わりに、本当に、生きた人を襲うことだけは、もうやめてね。もしもばれて、パパが討伐されてしまったら、わたしはとっても悲しいもの」
「……コレット、お願いだ。無茶はしないでくれ」
「パパの方がよっぽど無茶をしているわ。……わたしからもお願い。信じて。わたしに任せて」
こういう時。
彼は、娘のお願いを断れたことがなかった。
だから。
「……わかった。お前に任せるよ」
彼は、彼女の言葉にゆだねた。
コレットは、力強くうなずく。
「任せて。大好きなパパ。きっと、わたしが、どうにかするから」
強く抱きつく。
想いは無垢で。
気持ちは純真で。
愛情は本物だった。
親に尽くす子という美談。
ただし。
これはおおよそ、ヒトの理解を得られる関係ではなかった。
ただそこだけが彼と彼女の間違いで。
たったそれだけが、彼と彼女の行く末を決めた。