○○○○の場合2
子育ては、人里離れた森の奥地で行なわれた。
彼は化け物で、人のいる場所に近寄れなかったのだ。
子育てというのは、彼にとって初めての経験だった。
難しく、つらい。
まずは食料。
これも大人と子供では、当然違う。
まして、彼と人間の少女では、当たり前のように、まったく違った。
夜泣き。
原因がわかればいいが、わからないと大変なものだ。
眠れやしないが、放っておくこともできない。
睡眠を阻害されて苛立つ。
でも、彼は、ちょっとしたはずみで子供程度なら殺してしまう腕力があった。
だから常に冷静で、慎重であることを要求された。
そして、排泄の世話。
これが、彼にとってはもっとも大変だった。
やったことがない。
おまけに、この世界には、彼が長い間を過ごしてきた世界のようなオムツがない。
布の腰巻きを、洗濯し、繰り返し使用するのだ。
排泄物の世話は辛く、慣れるまで時間が必要だった。
なんで拾ってしまったんだろうと、後悔することもあった。
けれど彼は、辛抱強く子育てを続ける。
奇跡的な偶然にも助けられたのだろう。
その子は、だんだんと、無事に成長していく。
乳児が幼児になり。
幼児が児童になり。
児童が少女になった。
言葉を理解し、知識を吸収していった。
わがままもあったけれど、聞き分けの良い子だ。
なにより、頭がいい。
彼女は色々な知識をたやすく吸収した。
様々な考え方を簡単に理解した。
育ての親と、彼女は、違う生き物である。
彼女はその事実を受け入れ、認めた。
そして違うなりの共存の道を模索した。
「パパはあんまり、人里に降りられないから、わたしが人里に降りるわ。それで働いて、食べ物とかをもらうの。どう? べんりな方法じゃない?」
その提案に彼はうなる。
……娘は気付いていたのだ。
彼が、いつだって空腹であることに。
ともすれば発狂しかねない飢餓を、いつだって抱えていると。
「パパは体がとても大きいものね。支えるには、たくさんの食べ物が必要だわ。それに――狩りでとる獲物も、ほとんどわたしにくれるもの。きっと、口に合わないのよね。待っていて。きっとパパを満腹にさせてみせるから」
彼は、愛しい娘が人里に降りることを、不安がった。
だから、娘の名を呼び、止める。
「コレット。お前が働かなくっても、いいんだ。今までみたいに、狩りをしたり、木の実をとったりして、生きていこう。パパは人里に近寄らない暮らしは、もう慣れたよ」
「でも、パパはたまに人里をうらやましそうにながめているでしょ?」
彼は黙りこくってしまう。
娘の観察眼と聡さは、彼の予想をはるかに越えていた。
「大丈夫よ。安心して。うまくやるわ。パパはすごく頭がよくって、わたしも、色んなことを教えてもらえたもの。人里でも、うまくできるわよ」
彼は21世紀相当の日本の教育を受けていた。
だから、娘にも、自分が受けた教育を、覚えているかぎりほどこした。
……この世界は、どうにも、彼の元いた世界から見れば、文明の度合いが五百年ほど前にあたるようだ。
だから、彼が娘にほどこした教育は、この世界基準で『革新的な』ものだろう。
きっと、娘の能力は、この世界の誰よりも優れているだろう。
親のひいき目もあるかもしれないが、彼はそう考えていた。
だから、不安は二つ。
「……もし、人里でいじめられたりしたら、どうするんだ」
化け物の娘。
彼女の人生に、そのような傷をつけてしまったことを、彼はひどく気に病んでいた。
「大丈夫よ。パパの子供だっていうことは、隠すわ。それに、もしわたしが『実は魔獣に育てられたんです』って明かしたって、誰も信じないわ。魔獣は理性も教養もない、人を襲うだけの化け物だって、みんな思っているもの。子育てなんかできるはずないっていうのが、常識よ」
どうやら『世間』というものを、この娘はいつの間にかリサーチしていたらしい。
舌を巻く。
これだけ賢い女の子なら、たしかに、人里でもやっていけるかもしれない。
だから彼は、降参した。
「わかったよコレット。お前に全部任せる」
「やったあ! パパ、大好き!」
コレットは彼に抱きつく。
小さな体。
彼から見れば、相対的に、小さすぎる体。
でも、赤ん坊のころから育てていた彼には、充分に成長していることがわかった。
日に日に体は大きくなって。
日に日に、肉付きはよくなっている。
「……でもねコレット、パパのことは、気にしなくてもいいんだよ」
彼は言う。
二つある懸案事項のうち、一つが頭にあった。
「もし人里で暮らせるようなら、暮らしてしまいなさい。パパは魔獣だから、きっとお前を幸せにできない。もしうまくやれそうだったら、パパのことは忘れて、幸せに暮らしなさい」
「いやよ。大きくって、賢いのに、こんなに頼りないパパだもの。放っておけないわ」
「……コレット」
「大丈夫よ。うまくやるけど、帰ってくるわ。パパがなんだって、わたしはパパの娘だもの」
最後にぎゅっと抱きついて、コレットは離れる。
彼は、惜しいという気持ちがあったけれど、グッとこらえて、コレットを追わない。
「……辛いことがあったら、帰っておいで。幸せなら、帰ってこなくても、大丈夫だからな」
最後にもう一度言い添える。
けれど、コレットは聞いてくれない。
しっかりとした考えをもっている子だ。
彼女には幸せになってほしいと、彼は思う。
だからこそ。
二度と帰ってきてほしくないと。
彼は強く祈りながら、翌日、街へ行く娘を見送った。