聖女とは名ばかりでした。
決して細いとは言えない腰にしがみ付く、凡庸な少年をそのままに、ともすれば射殺されそうな視線の数々を一身に受ける私は、呆然と立ち尽くした。
ぱっかりと開けた口は閉じる事を忘れ、半ば無意識に己が出す事の出来る唯一の言葉を吐き出した。
「……なんですと?」
他には何も思いつかなかった。
異世界召喚。
のめり込むほどでは無いものの、それなりに手にした事がある小説の中では、テンプレートと呼ばれる位には、ありふれた出来事。しかしそれはあくまで小説の中での話。
それに巻き込まれたのなら、これもまた良くある話。但し小説の中で。
そう、常にそれは但し小説に限るのだ。その注釈がつくはずなのだ。
だと言うのに、これは何の悪夢なのか。
私は召喚された。異世界に。
但し紛う事なき現実で。
注釈おかしい。注釈おかしいよね。
なんて嘆いたところで現状は変わらず、私はしっかり異世界の大地に足を付けている。
事の始まりは、そう、学校帰りだ。マンホールに落ちた時の様な感覚を、あろう事かコーヒーショップを出た瞬間に感じた。
えーー
何かを頭に過ぎらせる暇もなく、私は胃の腑が浮くような感覚に襲われながら、重力に従って一気に落下した。
咄嗟に握ってしまったらしいカフェラテの容器が拉げ、蓋とストローと共に、茶色の液体が上へとぶちまけられる。
愕然とそれを視界に収めながら、何故こんな所に穴が、と漸く思考が働いた。
働いた途端、私は猛烈に慌てた。
膝を曲げたのは無意識だ。
なに、何が起こった。何故私は落ちている。ああまだ一口も飲んでないのに。穴だ。穴が。いやいや穴って。こんな所にマンホールなんて無かった。落とし穴か。まさかそんな。そんな暇人が。いや無い無い。それはないって。えっまじで? ちょっと弁償してよまだ飲んでなかったのに! と言うか何日中堂々と落とし穴なんか作ってんの責任者出て来い。それともマンホールが? ほんとに? いやでも記憶では。あ、人の記憶はあてにならないとかそう言えば誰かが言っていたような。なるほど、私の記憶がポンコツだったと。まあそれはどうでもいいからコーヒー代を返せ。責任者コーヒー代を返せ。
実に無駄で無益なようで割と切実な事も含んでいる思考を繰り広げていた私は、そこでふと思う。
ーー長くね?
恐らく、私は大変に混乱していた。
なのに急に我に返ってしまったのは、別に私が意外と土壇場に強いとか、普段から冷静沈着なのが効いたとかでは無く、単に時間経過による混乱の沈静化だ。
相当に焦っていたから、どれだけ落下したのか判らない。だが、それなりに経っている気がする。
いつの間にか縮こまっていた手足を更に縮こませ、ゆるりと上空を見上げる。真っ暗だった。
落ちる瞬間は手元が見えていたのに、今は何も見えない。それでも、左手の中、ぎゅうぎゅうと力任せに握っていたプラスチック容器の感触はある。
肩にあったスクールバッグがずり落ちて、曲がった右肘に掛かっているのが判る。
そして、それ以外何も判らない。
視界は真っ暗闇。
これはいくら何でもおかしいと、只の女子高生である私でも気付く。
そもそも、これ、本当に落ちてるのか?
そんな疑問さえ浮かんでくる。
何しろ本当に何も見えないのだ。身体が重力を受け続けている感じもしない。
じわじわと、足元から這うように迫ってくるのは、恐怖。
喉からせり上がってくるのは、悲鳴。
目元は熱を持ち出し、指先が僅かに震え出す。
もう後三秒もあれば、私は悲鳴を上げ泣き出したかもしれない。
しかし私の悲鳴も涙も、突然光り出した視界によって、引っ込んだ。
突然白く輝き出した視界は、あっという間に眩さを増し、視界一面白で覆い尽くされたと思えば、ドスンと尻を強打した。
それはそれは強かに打ち付けて、暫く蹲って動けないほどだったよ。
せっかく引っ込んだ涙が生理的な物として、目尻を伝うが、何とか尻を押さえながら顔を上げて、私は呆然となった。
痛みも忘れるほど、いや痛かったけど、それを後回しにできるほどには、衝撃的な光景だった。
一言で言うなら、遺跡。
見るからに朽ち果てた壁や柱に囲まれていた。元は白かったらしい石造の壁や柱は、ひび割れ、煤け、蔦のような物が這っている。
私の他には誰も居ないようで、静寂に包まれていた。空気も冷たい。
何の気配も無いというのは、不気味だ。
そう、私は、たった一人で、とても辺鄙な場所に、落とされたのだった。
後にそこは古い神殿で、大昔に召喚の儀を行っていた場所だったと判ったのだが、そんなこと当時の私が知る由も無い。
もうね、本当にね、思い返すと不憫でならないよ当時の私。
恐慌状態に陥った私を、彼女が見つけてくれなかったら、異世界初日にして死んでたかもしれない。
まあ、なんやかんやあって、何とか生計を立てられるまでになったけれど。それも私の拾い主のおかげであると断言する。
勿論苦労もしたし、努力もした。
今の生活を得るまですんなりと行く訳もなく、私なりに沢山のモノを積み重ねて最近漸く自信も出てきたところなのだ。
それがどうだ。
いきなり中央の騎士だか神官だかがゾロゾロやって来て、探していただとか迎えに来ただとかヅラヅラ並べて、否応無しに連れ去られ、やたら豪華な部屋に押し込まれ。
挙句他人に身体を磨かれ高級感溢れまくりのドレスなんぞ着せられた日には、私の目も死ぬってもんですよ。
そして極め付けがコレ。
「貴女様は、勇者様の御為、呼び出されし聖女様であらせられる。
勇者様は貴女様を待ち侘びておいででした」
さあ、と押し出された先。
私にとって懐かしくも親しみある、日本人丸出しの少年が、目を瞠っていた。
私だって驚いた顔をしていたであろう。
訳の判らない人達の言う事は訳が判らなくて、勇者とか聖女とかオイオイまじかと冷や汗を掻いていたところに、同じ日本人顏の登場である。
彼が、勇者か。そう理解するのは容易かった。
つまり、だ。
私と、目の前の少年は、こいつらに召喚されたってこと?
唖然とした私は、ゆっくりと振り返った。私の背後には、先程私を押し出した男が居る。
二十代半ば頃に見える男は、やたらとキラキラしく恐ろしく美しい。
銀の長い髪は絹糸さながらに艶やかだし、知性を湛える紫の瞳を見れば肌が泡立つ。顔のパーツ一つ取っても完璧なのに、それが完璧な配置で男の顔を形取っているのだ。こういうのを神に愛されたとか言うのだな。
男はにっこりと笑みを浮かべ、薄くも厚くもない唇を動かした。
「勇者様は、貴女を必要としておられます」
「え……それは、ぐふうっ!?」
突然腹に突進された。
目を白黒させ見下ろせば、此方では珍しい黒髪が、腹に顔を埋めんばかりにぎゅうぎゅう腰を締め付けていた。
完全に意識してなかった少年の愚行に慌てるも、ふと目に入ったのは、彼がやって来た方向に立つ、色彩豊かな女の子達。
美少女に美女が五人程。
私の視野はさっきまで狭まっていたようで、少年の後ろに控えていたらしかった彼女達は、一様に凄まじい眼つきで私を睨んでいた。えええ?
俄かに狼狽えた私の背後で、朗々と声が上がる。
「支えを必要とした勇者様の御為に、儀式を遂行いたしましたが、何の手違いか貴女様は別の場所に召喚されてしまった。迎えが遅れてしまった事、深くお詫び申し上げます」
全然悪いと思っていない声を聞きながら、私の思考は停止した。
「……なんですと?」
私の耳が一時おかしくなったのだと、思いたかった。
この世界の髪と瞳の色は、自己主張も甚だしい。
ピンクのツインテール。黄金のポニーテール。真っ赤な三つ編みに、水色のボブカット。濃紺のロングストレートはその中にあると地味に見えて、その長さが足首に届かんばかりなので、全然引けを取らない。
瞳の色も千差万別。
共通点と言えばどの子もとっても造形美が整っている事だろう。
金髪なんて何あの豊かな二つの山は。なんて言うマウンテン。
背の高い赤三つ編みさんなんて、あんな素敵なおみ足を惜しげも無く晒してらっしゃる。
ピンクツインテールと濃紺超ロングストレートの美少女加減なんて、アイドルも真っ青である。
優しげな垂れ目の水色ボブも、気品が天まで登りそう。姫か。姫なのか。
なんて私が現実逃避を計っている間も、美形女子の眼力はグッサグッサ刺さっている。
そうか、お約束の勇者ハーレム
……。
口元が引きつる。
もしやと思うが、この腰に引っ付いてる勇者くんは、チート能力とか保持しているのだろうか。
私には全く無かったそれ。
せめて言語翻訳能力だけでもあればと何度思ったか数知れない。
しかし確か、私が聖女だとかのたまっていたような。でも私には、それらしい能力は無い。
どういう事だろう。
改めて腰を見下ろす。
男子に抱き着かれるなんて初めての経験である。
腹から顔を上げない彼の姿を見ていると、何だかやる気とか気力とかを一切削がれる気がする。
私はそっと溜め息を吐き出して、腰に巻き付く腕をポンポンと軽く叩いた。
びくりと揺れる少年の肩。
「私の名前は紗枝。三上紗枝だよ」
君の名前はなんて言うの?
きっと耐えられなかったのだと、それは判るから。きっと怖かったのだと、同じ私だけが判るから。
何かを話そうにも、名前を知らない事には始まらない。
だから名前を教えてよ。
理不尽に潰される前に。