6.絶食(ハンガーストライキ)は諦めました
結論から言うと、そういうことだった。
幼い笛姫には絶食など到底困難なことであり、鬼に食べられる前に危うく死ぬところだった。
しぶしぶではあるが、笛姫も己の作戦の失敗を悟り、以降出されたものを少しだけ食べることにした。
ただし、あくまでも少しだけである。
ふくふくと肥えるようなことがあってはならない。
あの大きな逞しい鬼の前では笛姫は無力だ。とても逃げられそうもない。
やはりできるだけまずそうに見えるのが己を守る術なのだ。
笛姫が匙に口を付けたときの女の喜びようといったらなかった。
以来、雛の嘴にせっせとエサを突っ込む親鳥のように、あれもこれもと笛姫に食べさせようとする。
笛姫はとうに女に心を許していた。
そういえば名前も知らないこの女は、笛姫によく仕えてくれている。
「あの…名前は?」
おずおずと笛姫は女に声を掛け、そういえば言葉が通じないのだったと思い至った。
(言葉が通じないってなんて不便なのかしら。困ったわ)
女は首を傾げ、にっこりと笑って匙を差し出した。
「そうじゃなくて、名前よ名前」
笛姫も困惑して繰り返す。
「私は笛姫。ふえひめ、よ」
『フェーメ…さま?』
何度か名前を繰り返すと、ようやく笛姫が名前を聞いていると分かったらしい。
「ふぇーめ、じゃなくて、ふ・え・ひ・め」
『フエーメさま』
どうやら笛姫の名前を発音するのは鬼たちにとって困難なことらしい。
笛姫はフェーメと呼ばれることになってしまった。
「あなたは?」
女を指差すと、女は笑顔で答えた。
『マリー』
「まり?」
笛姫の脳裏に幼い頃から大事にしていた手毬が思い浮かんだ。
ふっくらとした女はまさに「毬」にそっくりだ。
思わず笛姫の顔に笑みがこぼれる。
『まあ!お嬢様が初めてお笑いになったわ!!』
マリーが何事か呟いている。どうやら喜んでいるらしい。
「まり、あの、しばらく宜しくね…」
*
取っ手のついた湯呑に、茶色の液体が注がれるのを笛姫はじっと見つめた。
この不思議な形の湯呑は「カップ」というらしい。
カップに注がれた茶色の茶はほんの少し花の香りがして、笛姫のお気に入りだ。
「さあどうぞ、フェーメ様。熱いですからお気をつけてくださいね」
熱々のカップを手に取り、思わずふうっと息を吹きかけそうになり、危うく思いとどまった。これはひどく行儀の悪いことらしい。
熱くても息で冷ましたり、すすったりしてはいけない。
(鬼は猫舌じゃないのかしら?)
猫舌の笛姫には厳しい作法である。
熱い茶が冷めるのを自然に待つことにした笛姫は、茶うけの菓子を手に取った。
今日は南蛮菓子のような焼き菓子だ。
皿から手でつまみあげ、口に運ぶ。
サクっと口の中で砕けた菓子から上品な甘みが伝わってくる。
『おいしい!』
笛姫は思わず笑顔になり、はっと気が付くと顔をしかめた。
美味しいものを食べることにひどく後ろめたい気分になるのだ。
領主の末姫として大事に育てられていた笛姫とはいえ、甘味はとても貴重なものである。日常的に口に入るわけではなかった。しかも南蛮菓子など、父さまが仕えるお館様からご褒美として稀に頂戴した時にしか口に入る機会はなかったのだ。
(姫を油断させてふくふく肥えさせる作戦なのよ!だから食べちゃ駄目!…でも、あと1枚だけ…)
もう一枚だけ、と心に決めて菓子をつまむ。
冷めてきた茶を作法に気を付けてこくりと喉に流す。
(はぁ。なんて幸せなのかしら…)
午後のお茶の時間は笛姫にとって至福の時であった。
笛姫にとって喜びの時間でもあり、己の欲望との戦いという試練の時間が終わると、午後の手習いの時間である。
手習い、絶望的なこの響き。
笛姫は筆を取るのがとても苦手である。ふっくらとした女らしい手蹟はこの時代の女性にとって必須のもの。加えて和歌や歌をたしなんだり、茶をたてたりと、高貴な女性にとっては大切な数々を笛姫は苦手としていた。
とはいえ、まずは言葉が通じないことには手習いも何もはじまらない。
今笛姫は毎日何刻もかけて言葉のお勉強中である。
この鬼の城に来てから幾日が過ぎたのか正確なところは分からないが、おそらく幾月かすぎたのだろう。
ようやく笛姫は相手が何を言っているのかなんとなくわかり始めていた。
しかしまだまだ意思の疎通には程遠いものだ。
笛姫が覚えた言葉といえば、まずは挨拶。
「おはよう」から「おやすみなさい」まで。
「ご飯」「お茶」「おやつ」「ご不浄」という生活に必須なもの。
数人の侍女の名前と、簡単な身の回りの単語。
周りの者たちは根気強く、覚えの悪い笛姫の語彙力を増やそうと努力していた。
『もうだめーーー』
頭に詰め込めるだけ詰め込んだ言葉の数々だが、ちょっと頭をゆすれば漏れてしまいそうだ。元来笛姫は末姫らしくこらえ性がない。ほんの一時ほどで根を上げてしまった。
「まり、ごはん、じかん」
夕餉の時刻になれば手習いの時間は終わりである。
日も沈むころだし、そろそろではないか、とマリーに切り出す。
「まだですよ。フェーメ様」
メっとマリーは笛姫の要求を却下する。
こういうところはマリーとタエは似ていない。タエはどこまでも笛姫には甘かったというのに、マリーは厳しいのだ。
しょんぼり、と肩を下ろす笛姫を見て、マリーも少し哀れと思ったのか、
「このページまで終わったらお仕舞にしましょう」
開いている頁の最後を指差し、笛姫を励ます。
「はぁい」
こうして、笛姫の日々は過ぎて行った。