2.ここは鬼の国?
まぶしい光を感じ、笛姫は顔をしかめた。
(朝…?)
うっすらと目を開けると、ぼんやりと景色が目に入ってくる。
起き上がろうとして、笛姫はその体が横たわっているのがいつもの褥ではないことに気が付いた。
柔らかな褥ではなく、どうやら地面の上に寝転んでいるらしい。
(どうしてこんなところに…)
首を傾げたその瞬間、崖から落ちたことを思い出した。
(そうだわ!姫は崖から落ちたのよ。でも…生きてる)
てっきり死んだと、そう思ったのに、生きている!
恐る恐る体を動かすが、どうやら大きな怪我はしていないようだ。
右腕、左腕、右足、左足。
(うん。どこも痛くないわ)
ほっと胸をなでおろし、ゆっくりと立ち上がった。
土にまみれた着物を見下ろし、ため息をつく。
(タエたちに叱られてしまうわ)
履いていたはずの履物は崖から落ちる際になくなってしまったらしい。
白い足袋のみになってしまった。
着物は汚れてしまったものの、破けてしまったところはどうやらないようなのがせめてもの救いか…。
周囲を見回すと、相変わらず深い森の中。
どうやったら城に戻ることができるのか、とんと見当がつかない。
(困ったわ…)
右も左も分からない。笛姫は森の中に一人ぼっちだ。
急に怖くなり、じわりと景色がゆがんだ。
「タエ!タエ!」
泣きながら乳母の名を呼ぶが、当然答えるものはいない。
「父さま!母さま!」
笛姫の声はただ、周囲にこだまするのみ。
ヒックヒックと泣きじゃくりながら、笛姫は歩き始めた。
どのくらい歩いただろうか。
笛姫の耳にざわめきが聞こえてきた。
どうやら人がいるらしい。
里に出たのだろう。高取の笛姫だと言えば、きっと城に連絡を入れてくれるはずだ。
笛姫は繁みから足を踏み出した。
(…これは人なの?)
果たして笛姫の前に現れたのは、思い描いていた里の人々ではなかった。
勿論見慣れた城の者たちとも違う。
こちらを怪訝な顔で見つめるのは数人の男達。
父さまや兄さまのような大人の男の人。
でもその姿かたちは笛姫にとって異形の者であった。
なかでも先頭に立っている男の異形たるや。
見上げるような大きな姿、見慣れぬ不思議な形の衣、そしてその金の髪――。
(…鬼…?)
それは戯れに侍女が話してくれた鬼の姿を彷彿とさせた。
山奥に住む鬼は、金の髪をしていて、そして人を喰らうのだ。
悲鳴を上げようとした笛姫だが、喉が貼りついて声がでない。
カタカタとその身を震わせ、ぽろぽろと涙が零れる。
(姫はきっと食べられてしまうのだわ。…父さま!母さま!タエ!姫を助けて!!)
余りの恐怖に、笛姫は再び気を失ったのであった。
*
温かい手がそっと笛姫の額に触れた。
幼い頃、よく乳母のタエは笛姫の小さなその額を優しく撫でてくれた。
高貴な女性は手ずから子育てなどしないものであり、高取家の正室である母もそうであった。
代わりに笛姫を幼い頃から育ててくれたのは乳母のタエである。
ふっくらとしたタエは、いくつになっても美しい母とは全く似ていない。
笛姫は母を敬愛していたが、慕うのは乳母のタエであった。
抱きしめてくれたその暖かな胸。撫でてくれた皺のある手。
全てが優しく笛姫を慈しんでくれた。
「…タエ…?」
目覚めたときの常のように、笛姫はタエを呼んだ。
いつもそばに控えているタエは、笛姫が呼べばすぐに飛んできてくれるのだ。
ところが、いつまでたってもタエがやってこない。
(ご不浄かしら…?)
笛姫は仕方なく自らその身を起こした。
どうやら見慣れない場所に寝ているようだ。
褥の周りを囲うように、ひだのある布がつりさげられている。
衝立のようであるが、それは褥の四方に取り付けられた木の柱からつりさげられているらしい。見慣れぬ布に笛姫はそっと触れた。
ひだを少しめくれば、布に遮られて薄暗かった褥にさっと光が差し込んだ。
そこは何とも奇妙な場所であった。
広いその空間には、椅子…であろうか、不思議な形の布張りの物が置かれ、その前には丸い卓子がある。
窓には障子がはめ込まれるでもなく、こちらもひだのたっぷり取られた布がつりさげられていた。
床は木張りで珍妙なものではなかったが、その上に敷かれた敷物がやけにふわふわとしている。
白く塗られた箪笥のようなものが壁際に置かれており、その上には見慣れぬ姿の人形のようなものあった。
その人形は白い肌を持ち、そして金の髪をしていた。
(…鬼!)
そうだ、どうして忘れていたのだろう。
ここは鬼の棲み処なのだ。
あの時に見た恐ろしい姿を思い出し、笛姫は体を震わせた。
どうやらひと思いに殺されなかったようだ。
苦しむくらいならいっそ気を失ったまま食われた方がよっぽどよかった。
笛姫が恐怖に身を震わせたその時、木の壁を叩く音がして、扉が開いた。