花の雨
パン! と音が響いたのに顔をあげると、クレス様が花吹雪のなかにいた。
さらさらと白い花弁が舞い散って、クレス様の背中を包む。それはとてもとてもきれいで、わたしは思わず目を丸くしてその光景をながめてしまった。
はらはらと、やわらかな風にのって散っていく、花びら。
「いやだわ。どうして、あなたが先に入ってくるのかしら」
驚きに足を止めたのは、わたしだけではない。クレス様も予測していなかったようで、青い瞳を丸めて立ち尽くしていた。そこにため息まじりの声がかけられ、ようやくわたしたちは花弁から目をあげる。
クレス様のお母様が、頬に手をあててわずかに眉をよせていた。
「フィオーラのために用意したのに、気の利かない息子ねえ」
はあぁ。悲しげな表情で、これみよがしなため息である。
クレス様は慣れているのか、お母様の言葉にもとくに反論もしなかった。あいさつの言葉を探していたわたしをさえぎって、ほんのりと苦笑をこぼす。
「ただいま、戻りました」
「はい、お帰りなさい。フィオーラも、いらっしゃい」
花に呆気を取られたおかげで、わたしだけまだ一歩外にいる。クレス様が振り返って手をとり、邸のなかへと迎えてくれた。
ようやくふたりで並んで立つと、クレス様のお母様はにっこりと笑みを浮かべた。絵にかいたような貴婦人で、立っている姿勢がうつくしかった。
「お久しぶりでございます。本日は、お招きありがとうございます」
わたしはそれを見本に、きれいなお辞儀を頭のなかに思いえがく。粗雑にならないよう気をつけながら腰を折ると、やさしく瞳を細めてくれた。それにこっそりほっとする。
すでに両家であいさつはすませ、先日婚約式も挙げたが、そういった行事以外でわたしがロッシュ家を訪ねるのは初めてになる。実は今日は朝から緊張していた。このままいくと、お姑さんになる人である。なるべくいい関係を作りたいので、なんだこいつと思われないようにしなければ。ここからは気を引き締めなければならない。
さあどうぞ、と奥へととおされ、日当たりのよいバルコニーに案内された。クレス様が椅子を引いて座らせてくれるのに、お礼を言って腰かけるとうれしそうに微笑んでくれる。
本当にきれいな顔をしているなあと会うたびに思ってしまう。だいたいはにかんだように笑うから、よけいにずるいのです。これだけ身分も容姿もよければ、もっと性格がひねくれそうなのに。彼はどこまでもおっとりした天然さんであった。
「鍛冶屋に依頼して、作ってもらったのよ」
クレス様のお母様が手ずから紅茶をいれながら、出し抜けにそう言う。
よい香りがふんわりと鼻腔をくすぐるのに感心したわたしは、首をかしげて続きを待った。
「ロッチェの花びらは、メイドたちが早咲きを集めてくれて。道具を玄関にくくりつけたのは執事。満を持して紐を引いたのは、私だったけれど。少し早かったわね。もっとよく見てやればよかったわ」
ロッチェとは国花のことだ。初夏から秋にかけて木々に咲き誇る白い花は、ふわふわした花びらが幾重にもなっている。国のいたるところに植えられているから、白い花が街を彩ると夏が来たなあと思う。このお邸の庭にも、大きなロッチェの木があるそうだ。あとでクレス様が案内してくれると言っていた。
頬をふくらませる勢いで不満をもらしたクレス様のお母様。花の雨を浴びたのがクレス様だったということが、ずいぶんとお気に召さないらしい。紅茶をかたむけながら反省している姿は、年齢を感じさせないかわいらしさがあった。
つまり、あれか。クレス様が浴びた花びらの仕掛けは、わざわざ鍛冶屋に作らせて、家の人たちで分担して決行されたということだ。
もっと言うと、どうやら、わたしの歓迎であったらしい。
「まさか、このようにお迎えしていただけるとは思っておりませんでしたから、本当にびっくりしました」
自然と顔がほころんでしまう。
そんなわたしに、クレス様のお母様は拗ねたように口をすぼませた。
「いやだわ、フィオーラ。もっとびっくりしてもらうはずだったのよ。クレスに浴びせたってなんの面白味がないじゃない」
「でも、とってもきれいでしたよ? なにより、わたしはそんな準備をしてくださったお気持ちがうれしいです」
歓迎してくれている。それがわかるだけで、どれだけ心が軽くなるか。
いくらわたしとはいえ、婚約者の家を訪ねるのは緊張する。そこで相手のご両親に会うなんて、回数を重ねればともかく、まだ片手でも指があまるほど。慣れるなんてまだ無理だ。
ましてここは、貴族の世界である。失態は許されないし、わたしの中身はどうであれ、ウェンズウッド家の娘というだけで気に入られないことだってある。
肩の力が、多少抜けた。思わず笑みをこぼしてしまったわたしに、クレス様のお母様はぱっと瞳を輝かせた。
「聞いた? クレスフォード。フィオーラはかわいいわねえ」
クレス様によく似たきれいな顔がうれしそうにほほえむと、わたしの隣でもうひとりのきれいな顔もおおきくうなずく。
「ええ。私もそう思います」
ぐふっ。咽喉が変な音を立てた。
危ない、思わず紅茶を吹き出すところだった。淑女たるもの、そんな失態をするわけにはいかない。むせそうになるのも根性で乗り越えた。
ええ、ってなんですかクレス様。褒められるのはうれしいけれど、そんなあっさり、朗らかにうなずかれてしまうと背中がむずむずする。……うん、まあ、クレス様だしなあ。本当に思ってくれているんでしょうし、いいことにしよう。気にしたほうが負けだ。
「そうそう、ロッチェの仕掛けだったわね」
内心で必死に戦っているわたしに気づくことなく、クレス様のお母様は歓迎の演出の話に戻る。
「鍛冶屋の夫人がとってもおもしろい人で。驚かせたい人がいるって話したら、意気投合してしまったのよ」
どういった経緯で、クレス様のお母様が鍛冶屋に足を運んだのか気になるところだけど。鍛冶屋も鍛冶屋で、そんな提案をしてしまうのか。わたしのなかで鍛冶屋とは、武器や防具を作るイメージだったから、考えを改めたほうがよさそうだ。
「何度も練習もしたのに、本番でうっかりするなんて。私もまだまだね」
物憂げにため息をこぼしたクレス様のお母様だが、視線で執事へ紅茶のおかわりをうながすと、もうこの話は終いでよいのかあっさりとクレス様を振り返る。
「クレスフォード、あなたはいつもフィオーラを独り占めしているのだから、今日くらいはお母様に譲ってくださらない? 女同士でゆっくりお茶をしたいのだけれど」
クレス様のお母様と、ふたりで、お茶ですって?
わたしの体が思いっきり固まってしまったのは、もうしょうがないことだと思う。新しいポットとカップを持って現れた執事も、きっとこの流れを予測していたのだろう。きちんとわたしの分のカップまで手にしていた。
満面の笑みを浮かべて小首をかしげるお母様に、クレス様でも逆らうことは難しいらしい。
わたしの顔をそっとうかがい見てから、クレス様は困ったように笑った。
「あまりフィオーラをいじめないでくださいね」
「人聞きの悪いことを言わないの。ほら、フィオーラが身構えてしまうでしょう」
早く行きなさい、なんてあしらわれて、クレス様は席を立つ。
大丈夫ですよ。ちいさくわたしの耳元でそう微笑んだのに、わたしは膝の上でぎゅっと手を握った。
新しい紅茶。皿に並んだクッキーとマドレーヌ、色とりどりのマカロン。
改めて整えられたテーブルは、ずいぶんと華やかなものであった。
紅茶をひと口楽しんだクレス様のお母様は、静かにカップを戻すとまっすぐとわたしを見つめた。
「フィオーラ。ロッシュ家は、――いえ、私たちはあなたを歓迎しますよ」
姿勢を正したまま、わたしは言葉をなくす。
なにを言われるのか考えを巡らせていたわたしだが、向けられた言葉は、思い浮かんだもののどれにも当てはまらなかった。
まなざしを受け止めることしかできないわたしへ、クレス様のお母様は続ける。
「長いこと浮いた話がなくて、すすめたご令嬢とも婚約するには至らずに終わってしまうし。ずっと心配していたら、実は気になる女性がいるなんて言うから。どこのどなたかと思えば、ウェンズウッド家のご令嬢だなんて。本当にうれしくて」
ふふ、と笑うお母様は言葉どおり、本当にうれしそうだった。
家柄に問題がなくて、よかった。それはきっと、わたしだけではなくて、わたしの家族もクレス様のご家族も、みんなが思ったことだろう。貴族だから。対立している相手でも、身分がない相手でもだめ。それだけのことで、話にもならない。
こんな局面で、家柄に感謝することになるなんて、わたしは思ってもいなかった。それと同時に、自分にも驚く。結婚について淡白なつもりだったが、思いのほか、この結婚を受け入れていたのか。クレス様と結婚するということを、望んでいたのか。
いまさら気づいたことが恥ずかしくもあり、照れくさくて勝手に顔が赤くなってしまった。
クレス様のお母様は、そんなわたしを見てにっこり笑った。
「見た目に反して抜けているところがあるし、女性の扱いなんてうまくできないでしょうから、気が利かないし。それに、あなたも知っているでしょうけれど、道によく迷うのよ」
……話の方向が、思わぬところへ移りましたね。
わたしの表情から、お母様は肯定と受け取ったようだった。大きくうなずいて、真剣に語り続ける。
「今は子どものころより、よくなっているみたいだけれど。本当に、クレスフォードはよく迷子になったわ。ひとりで出かけさせなかったのに、出先ではぐれてしまうの。だからね、鈴をつけたの」
「え?」
驚いて声をこぼしたわたしに、クレス様のお母様は真面目な顔で繰り返した。
「鈴よ。ちりんちりん鳴るじゃない」
「は、はい。鳴りますね」
「首から下げさせたの。クレスに。そうすれば、音でどこにいるかわかると思って。とってもいい案でしょ?」
首から、鈴。
唖然としたわたしをよそに、クレス様のお母様はここでもため息をこぼした。
「でも、いざやってみたら駄目だったわ。そりゃあそうよね。離れたところでは鈴の音なんて聞こえないもの。隣を歩いているときに鳴ったって、迷子になったときにはまったく役に立たなかったわ。あれは本当に名案だと思ったのに」
はあぁ。悲しげにため息をつくその表情は、この日出迎えてくれたときと重なる。
ロッチェの花びらが降りそそいだ、あのうつくしい光景。目を丸くして立ち尽くしたクレス様の背中。悲しげな、クレス様のお母様。
「それは……大変だったのですね」
こらえきれずに、わたしはくすくす笑ってしまった。
そうよ、大変だったのよ! なんてクレス様のお母様もうなずいて、あれやこれやと当時の出来事を話してくれる。
変わった人だなあ。さすが、クレス様のお母様という感じだ。
邸のなかでは毛糸を結び付けていた、なんてまた笑いとの戦いをしなければならない話を聞きながら、わたしはちいさなクレス様を思い浮かべる。
わたしが街で助けたとき、クレス様はかわいらしいお人形のような子どもだった。その首に、鈴。彼の方向音痴は相当なものなので、お母様もずいぶん手を焼いたのだろう。その結果が、鈴。そして毛糸。……だめだ、笑ってしまう。
どこまでも真剣なところに、ますます笑いの発作が起こりやすくなっている。わたしは、今まで培ってきた淑女スキルを総動員して笑いを引っ込めた。淑女とは、吹き出したり、腹を抱えた爆笑したりしてはいけないのである。危ない。本当に危ない。くすくす笑いならまだ許されるから、必死に笑いを収める努力をしている。
クレス様のお母様とゆっくり話すのは、今回が初めてだった。
絵に描いたような貴婦人で、たおやかなのに、芯がしっかりしている方だと思っている。家を切り盛りする手腕も大変すばらしいとの評判だから、ぜひとも参考にさせてもらいたい。素敵なご婦人なのである。
それは今話してみても変わらないけれど、やっぱりというか、ちょっとずれた一面もお持ちのようだった。礼儀作法や所作に厳しいような方じゃなくてよかった。よく聞く嫁姑問題には、今のところならないだろう。
むしろクレス様のお母様の情熱の方向が、貴族の奥様とは思えないところへ注がれているところが大変興味深い。あの花吹雪の準備や、クレス様の鈴の件がいい例だ。きっと、今までにいろんな事例があったに違いない。
「フィオーラは、ちいさなときからしっかりしていたと聞いていたけれど。クレスと会ったことがあったそうね?」
「はい。一度だけですが、街で」
仕立て屋からの帰り道で、途方に暮れていたクレス様。今ならその顔がはっきりと思い出せる。
「私もちいさなあなたと会ってみたかったわ。たしかに、こうして話してしっかりしているとも思うけれど、ただ素直なのね。意外ととっつきやすくて安心したわ」
「素直、ですか?」
それはクレス様のような人を言うのだと思うけれど。
そっとカップをソーサーに置くと、クレス様のお母様がおかわりをついでくれる。
「あなた、面倒くさいことが嫌いでしょう」
ずばっと指摘されて、思わず動きが止まってしまった。図星である。図星なんだけど、こんなにはっきりと言われることに驚いた。貴族というものは、大変面倒なことに歪曲した表現を好むのである。
「だからどうすれば問題にならないか、先を見越して動いているからしっかりしていると周りは思うし、たしかにしっかり者ね。でも、頭が固いのではないから視野も広いし、そのぶん寛容だわ。……だからこうして私ともお茶ができるのよ。普通のお嬢様だったら、怒って席を立っていてもおかしくないじゃない」
私の言動は失礼と言われるものだったのに。にっこりと笑う相手に、わたしはなんと返してよいのか言葉につまる。
「よかったわ、本当に。なるべくよい関係ではいたいから、気が合わなかったら上辺だけですませるつもりではいたけれど。私、娘がほしかったのよ」
「そうなのですか」
かろうじてそう相槌を打ったわたしに、クレス様のお母様は大きくうなずく。
「息子も結局ひとりだけだし、やっぱり家はにぎやかなほうがいいわね。結婚したら邸は別になりますけど、いつでも遊びにいらっしゃい。クレスフォードの同伴なんてなくていいわ」
マカロンを食べ終えた手をナプキンで拭いてから、うっとりするほどきれいな笑みをわたしへと向ける。
その姿は本当に貴族令嬢のお手本ともいえるのに、こぼれる言葉がことごとく貴族離れしているように思えた。わたしの驚きなんて気にもしないで、クレス様のお母様はマイペースに話を続ける。
「息子と食事やお茶なんてつまらないですから。お買い物なんかもいいわねえ。結婚式の準備もあるし、息抜きに今度行きましょう。新しくできた、焼き菓子のお店を知っている? 評判だときいて先日取り寄せたら、とってもおいしかったのよ。あなたが来るときに合わせて用意して――」
「母上、それくらいになさってください」
延々と続くと思わせるお母様をさえぎったのは、つまらないと評されたご子息であった。
クレス様の登場に、お母様はさして驚いたふうでもなく少女のように首をかしげてみせる。
「あら、もう戻ってきてしまったの?」
「私もそろそろフィオーラと話をしたいので」
さらりと蜜語をはいたクレス様に、お母様は瞳をやわらかに細めた。ふうと息をついて、空になったカップをテーブルへと戻す。
「まったく耐え性のない子ねえ。フィオーラ、ごめんなさいね。またゆっくりお茶をしましょう。今度はクレスフォードのお願いをきいてあげてちょうだい」
「ええ。もちろんです」
こころよくうなずいたわたしに、クレス様もほほえみ返した。
それにほっとしてしまったのは内緒だ。もしかしたら、ほんのちょっとだけ顔が赤くなっちゃったかもしれないけど、たぶん大丈夫。クレス様は気づいていないはず。
クレス様のお母様とこうして話せたことは本当によかった。この先のことも、少しだけ心配がやわらいだ。でもまだ、やっぱり気を張っているんだろう。クレス様の顔を見て、そう実感してしまったわたしはまだまだ貴族令嬢として未熟である。
椅子を引いてくれたクレス様に、自然と笑みが浮かんだ。
差し伸べられた手が、わたしの手をくいと引く。そのまま流れる動作で腕につかまるよう促され、青い瞳がやさしく見下ろす。
夕食までには戻りなさいと送り出す声に返事をして、白い花が咲き誇る庭先へと導かれたのだった。