魔法をもう一度
ちいさな女の子の背中を、私は引き留めることができなかった。待って、と声をかけたつもりだったが、素早く身をひるがえして駆けたその子は、あっという間に住家の隙間に消えてしまう。
フィー、というのが彼女の名前なのだろう。
絶対に忘れないようにしなければ。ピンクブロンドのふわふわした髪も、真ん丸な碧色の瞳も、何度も何度も思い描いて記憶を刻む。
私を一時間さまよわせたあの路地は、彼女が相手となると悔しいことに大変素直だった。突然現れて、救ってくれた彼女には感謝してもしきれない。自分だけでは家に帰ることはおろか、見つけた相手によっては事件に巻き込まれてしまっていたかもしれない。命の恩人である。
それからというもの、私は仕立て屋をはじめとする大通りの店へ出向くときには、注意して周りを観察するようにした。
幸いなことに、彼女の髪色はそれほど多くはない。ただ、人の多い街で見える範囲だけを探すのでは、見つけることは難しいと思っていた。
案の定、求めていた髪色を見かけたのは、彼女に会ってからふた月も経ってからだった。彼女より少し年嵩の男の子が、全力で駆けていたのである。よく似たピンクブロンドはくしゃくしゃだった。瞳を楽しげに輝かせて通りを横切り、パン屋の横の路地へと身を滑らす。あまりの勢いで声はかけられず、驚いている私を母が行きますよと促した。
ようやく彼女の姿を見つけられたのは、それからまたひと月後。あの男の子の手をぐいぐいと引いて通りを歩いていた。おそらく、兄妹なのだろう。
フィー、あっちからいいにおいがする!
おにーさま、かえるから、だめ!
きょろきょろと首をめぐらせている兄に、かわいらしい声がはっきりと答える。唇をとがらせた兄の手をしっかりと引いて、街の雑踏にまぎれていった。
お兄様、と言っているあたり、やはり彼女たちも貴族なのだと思う。
すぐに私はウェンズウッド家の兄妹を思い浮かべた。子どもたちはみんなピンクブロンドを受け継いだと言われている伯爵家。それが彼女たちならば、彼女の下には弟もいるはずだ。
しかし、残念ながら宰相を務める父と、伯爵とは私的な交流はない。共通の親しい家があっただろうか。せめて誕生パーティーなどでかかわることができたらよいのだけれど。まだお互いにデビュー前であり、そうなると家ぐるみでかかわりがないと会うことは難しい。
悶々と悩むだけで月日が流れ、結局会えるような関係は築けず、数年を重ねて私の社交界デビューとなった。
父の立場のおかげで周りから注目されてしまったが、粗相もなくこなせたと思う。ここにレディ・フィオーラがいてくれたらよいのにと思うが、彼女がデビューするのはあと七年ほど先だ。
昔から家同士で交流のあった幼馴染と一曲だけ踊って、私は他のダンスは断ってしまった。思うのは、レディ・フィオーラのことばかり。幼く愛らしかった彼女は、今では花がほころぶようにうつくしくなっていっていると聞く。
街におりるときは彼女の姿を探すことが当たり前になってしまい、そうして意識しているから、噂話も自然に耳に入ってくる。あちらは私のことなど知らないだろうに、なんとも奇妙なことだ。早く知り合いたい。会って、目を見て、話したい。
強くなる思いとは裏腹に、一向にその機会には恵まれなかった。気持ちは空回るばかり。
二年前に、彼女の兄にあたるルパート殿が騎士団に入団して、王宮で見かけるようにはなった。
親しくなれないかと話しかけてみたところ、そつのない返答で一線を越えさせず、警戒心をゆるめてもらえなかった。たしかに、次期宰相と言われてしまっている私が、いきなり話しかければ不審だっただろう。
街で見かけたときの彼からは想像ができない、貴族然とした顔。きっと、あの楽しげな表情は、レディ・フィオーラたちだけにしか見せないのだと思う。騎士団でも彼は頭角を現していると聞いている。私も気を引き締めなければなるまい。
日々精進と言い聞かせ、レディ・フィオーラと会う機会をうかがっていたが、ルパート殿がデビューする年になっても、果たされることはなかった。もしかしたらと思ったレディ・フィオーラは、彼に同伴していなかった。まだ会えないのかと落胆してしまう。
ひと言だけでもと、ルパート殿にはデビューの祝いと今後に期待していると言葉をかけたけれど、隙のない笑みと礼を返されるだけだった。歩み寄るとはむずかしい。
周りへ挨拶をすませ、多少の酒だけを含んだところで私は会場を見渡すだけ。噂話に耳をかたむけながら着飾った人々をながめていると、女性から声をかけられることも多かった。基本的には幼馴染が私に寄り添うように立ち、数人が少し離れたところでこちらをうかがうことが多い。
私のデビューのときから、幼馴染がべったりと張り付いてしきりにダンスへ誘ってきたが、まったく気乗りがしないために断った。彼女は私に付き合って踊らないことが多かったため、構わず好きな男性のところへ行くように勧めたところ、ひどい癇癪を起されて驚いてしまう。けれども、私がここでなだめるために踊っても、今後同じことが繰り返されると目に見えている。はっきりとしなければ互いのためにならないと、丁重にお断りをする。
数年前に彼女の家から婚約の打診があったが、そのつもりはないと回答していた。それをわかった上で交流しているのだから、幼馴染のよしみで私のことを気にかけてくれているのだと思っていた。まさか彼女が特別な感情を抱いていて、未だに婚約を希望していたとは気づいておらず、今思えばもっと早くはっきりした態度を示すべきだったと反省する。
幼馴染が走り去ると、今度は違うご令嬢に声をかけられたが、それも同じ理由で断る。広間にいてもそればかりで、そそくさと逃げ出し、目の前にあった庭園に駆け込んでしまった。なんとも情けないことである。
いつまで経っても道を覚えることが苦手な私は、それから数時間庭園をさまようことになったが、なんとか回廊へとたどり着いたときには舞踏会も終わっていて人目もない。ほっと息をついて帰路をたどる。この庭園も、レディ・フィオーラがいればまたたく間に抜け出すことができたのだろうか。彼女の使う魔法を、もう一度見たいと思った。
それからまた三年。
待ちに待った、レディ・フィオーラの社交界デビューである。
もう私も二十三歳になってしまい、周りが結婚のことを口うるさく言ってくるが、婚約者もないまま今に至る。勧められた相手と何度か会うこともしたけれど、やはり決定的な女性はおらず、私は相変わらずレディ・フィオーラのことを気にしてしまう日々だ。
ついには母親に、誰か心に決めている人でもいるのかと尋ねられ、気になる方がいると渋々白状する事態となった。誰だどんな人だと大騒ぎする家族たちを必死に言い包め、レディ・フィオーラのことは黙秘した日からひと月と経っていない。
今宵、レディ・フィオーラは、どんなドレスを着ているだろう。きっとよく似合い、髪もきれいに結って、可憐な姿なのだろう。
年甲斐もなく弾む胸をなだめ、今か今かと到着を待つ。入場する人たちをながめることしばらく、両親と弟であるユーグ殿に付き添われた、待ち望んだ姿がそこにあった。
ピンク色のふわふわとしたドレスに、国花の胸飾り。あのピンクブロンドの髪は複雑に編みこまれてリボンが結んであった。ごくたまに、街で彼女を見かけることがあったけれど、着飾ってたたずむ姿はとてもうつくしく、愛らしい。
少し緊張したように口を引き結んでいた彼女は、ユーグ殿とひと言ふた言交わすと、ふわりと花がほころぶようにほほえんだ。
ああ、とため息がこぼれる。やっと会える。やっと。
王妃様への挨拶をすませた彼女の、すぐ近くへと移動する。そんな私へ声をかけてくる女性がいたが、丁重に断りながら歩いている間に、ダンスの曲が奏でられてしまった。思いのほか、足止めが多かった。
一曲目は親しい相手と踊ることが多い。彼女に婚約者はいないはずだが、誰が相手を務めるのかと焦りが募る。ユーグ殿が寄り添っている姿が見えると、思わず安堵の息をついてしまった。
この曲が終わったら。あの手を取ることができる。ようやく、向き合うことができる。
似合いのドレスをひらひらさせて踊る彼女を、自然と目が追い続ける。
ここにはない姿を待ち焦がれるだけだった舞踏会。初めて胸が高鳴るのを感じる。
曲が終わり、ステップもやんで、ゆっくりとふたりが人の輪から離れたところを逃してはいけない。タイが曲がっていないか、髪が乱れていないか、今さら気になるそれらを素早く整えてから、私はこほんとちいさく咳払いをする。うまくいきますように。祈りながら、私は足を踏み出すのだった。