trois
「私のことは、どうかクレスと。――フィオーラと、お呼びしても?」
庭に入って、先ず初めに言うことがこれである。
驚きすぎて固まりたいのに、淑女スキルがそれをうまくごまかした。不自然ではない笑みでうなずく。
「ええ、もちろんかまいません」
その場をしのいだのはいいけれど。クレス様――この際、お言葉にあまえて呼んでしまおう――がわたしに声をかけてくることも、兄がわたしを守る言動をしたことも、すべてが想定外のことでわたしは内心で大いに戸惑っていた。
兄は昔から今まで、ずっとわたしの前では困った兄。あんな頼もしく、大人の顔をした兄なんて知らなかった。
驚きが治まらないままのわたしは、ゆっくりとした歩調で夜の庭を進んでいく。すごしやすい秋の季節。王宮の庭には秋薔薇が咲き乱れていた。春よりは落ち着いた色が多いけれど、白を基調とした薔薇がきれいに整えてある。あまいにおいがあたりに広がっていて、ほんの少し肩の力が抜けた。
「ルパート殿とのお話を邪魔して、申し訳ありませんでした」
月あかりに照らされた薔薇を眺めているわたしに、そっとクレス様が口を開く。青い瞳は、からかいの色もなくまっすぐとそそがれる。薔薇がよく似合った。
これだけの男性なのだから、女性の扱いにもなれていて自分の感情を隠している、なんてことだったらわたしはお手上げだけれど。本当の十六才ではないから、真に受けずに言葉だけは受け取っておこう。
わたしはそう思って、やんわりと首を振る。
「いいえ、兄とはいつでも話せますので、お気になさらないでください」
「本当に仲がよろしいのですね。私には兄弟がいないから、とてもうらやましいです」
目元を和ませ、紡ぐ声はどこまでもやさしい。イケメンの笑みを目の当たりにするのは心臓に悪くて、わたしは慌てて薔薇へと視線を移した。
「クレス様は」
「はい」
なにか会話を、と口を開いたわたしに、彼はひと言も聞き逃すまいという具合に体ごとこちらをうかがう。どうしよう、たいした話じゃないのに。
「ダンスがとてもお上手でいらっしゃいますね」
当たり障りなさすぎてすみません。
それなのに、とてもとてもうれしそうに笑うから、わたしはまた困ってしまう。
「ありがとうございます。もしかしたら、あなたと踊ることができるかもしれないと思っていましたから。粗相のないよう、練習いたしました」
あまり得意ではないのです、と恥ずかしそうにはにかむのもやめてください。な、なんなんですか、このあざといイケメンは。
思わずつま先が地面につっかかってしまった。大丈夫ですかと支えてくれるとか、余計にどきどきさせてきて困る。本当に困る。勘違いしたくなってしまうじゃないか。
この話題はやめよう。わたしは自分の身を守るため、すぐさま話を変えることにした。
「このお庭にもお詳しいのですか?」
「何度も来ておりますので。今はこのとおり、薔薇が見ごろです。一番奥には小さな噴水があるので、そちらまでお連れいたしましょう」
「ありがとうございます」
薔薇が似合うなんて普通だったら嫌味っぽいのに。クレス様はそんな気を起こさせないから不思議だ。自分の魅力を鼻にかけていないというか、そもそも魅力に気づいているのかどうなのか。
周りからの評判はよい。こうして接してみても、それが噂だけではないと思える。だからこそ、余計にわからない。どうしてこうなっているんだろう。
「レディ・フィオーラ」
フィオーラと呼んでも、なんて言ったのにクレス様は丁寧な言葉をくずさなかった。背筋を伸ばして視線を向けると、やっぱりあの青い瞳がまっすぐとそそがれている。
「もし、ほかに踊りたい相手がいたとしたら、無理に誘って申し訳ありませんでした。ですが、どうしても、私はあなたと話したかったのです」
な、なんでですか、面識ないはずですよね? でもでも、この感じはやっぱりわたしがド忘れしているのかなあ。さすがに、初対面でこんなにぐいぐい来ないだろう。それとも、どこかで変な前評判でも飛び交ってしまっているのか?
この流れなら、さすがに聞いてもそれほど失礼にならないはず。わたしは意を決して口を開いた。
「あの、失礼を承知でおたずねするのですが」
「ええ、どうぞ。私に答えられることでしたら、なんでもお聞きください」
にこやかにうなずいたクレス様。うっとりするくらいにあまく、やさしい声だ。うっと言葉を詰まらせたわたしは、それでも動揺をひた隠しにして続ける。
「わたくしと、クレス様は、その、今までにお会いしたことがございましたか?」
首をかしげ、できるだけ不躾にならないようにうかがうと、クレス様はかすかに苦笑を浮かべて足を止めた。
「あなたは、覚えていらっしゃらないかとは思いますが、一度だけ。私が見かけるだけなら何度か」
「えっ」
「ずいぶん前のことですから、忘れてしまうのもしかたがありません。それに、ウェンズウッド伯爵の御子息、ご令嬢のことはよく噂になります。此度はおふたりのデビューということで、注目している人も多かったようです」
噂! どんなものだろう。家同士で交流のある人たちからの評判は悪くない。けれども社交界でどういう立場にいるのか、家からあまり出る機会がなかった今まででは把握しづらかった。
不安が顔に出ていたのか、クレス様がくすりと笑みをこぼして言葉を続ける。
「しなやかで強く、切れ者のルパート殿。博識で冷静、若いのに決断力にも優れたユーグ殿。そのふたりが大事にしているレディ・フィオーラは、穏やかで思慮深く、花のように愛らしい、と」
……なに、それ。弟はさておき、兄とわたしへのその評価はどういうことなの。切れ者? あの兄が? あのお馬鹿な兄が? そして穏やかで思慮深いとか、精神年齢のおかげで余裕ぶっこいているだけじゃないか。えええええ。ちょっと待って。もう、この一時間あまりで驚くことが多すぎてついてゆけない。
ぽかんとしたわたしを、クレス様の手がそっと庭の奥へとうながした。水の音が聞こえると思うが早く、薔薇の生垣から抜けて、目の前に石造りの噴水が現れた。
「わあ、すごい」
薔薇のかおりたつ庭で、月の光を受けて水がきらきらと輝く。それはとてもきれいな光景だった。
素直に口をついた言葉に、クレス様がうれしそうにわたしを振り返る。ここまでゆっくりとした歩みでわたしに合わせ、庭を隅々まで見せ、噴水へと案内した彼の仕草はどれもやさしいものだった。とろけるような笑みに、わたしの心臓がこっそりと跳ねた。
「気に入っていただけたなら、よかった」
手を引いて、噴水の縁までつれてきてくれる。そして、わたしの顔を覗き込んだ。
「寒くはありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
「ですが、冷えるのはいけませんね。サイズは合いませんが、少しの間、これを羽織ってください」
秋とはいえ、夜は涼しくなってきた。水が近くにあればなおのことだ。ドレスは肩がむき出しだから、たしかに長時間ここにいたら風邪をひいてしまうかもしれない。そういう配慮なのだろう。クレス様は自分の上着をふわりとわたしの肩にかけた。
顔が赤くなってしまって、とっさにわたしはうつむく。ちょ、ちょっと待って。こういう気づかいはうれしいが、ここまで少女漫画のセオリーどおりになってしまうと、うれしさよりも恥ずかしさが増す。純粋な少女だったらここでときめくはずなのに。蚊の鳴く声でありがとうございますと言うのが精いっぱいだった。
クレス様の上着は、わたしの膝裏まであった。そのまま腰かけるように言われ、噴水の縁にふたりで並ぶ。そこで他愛のない話――お城のなかの様子とか、兄の働きっぷりとか、夏至にあった祭りのこととか、とにかく深くはないけれどお互いのことをちょこちょこと出し合い、和んだところでそろそろ広間へ戻ろうということになった。
長い時間いないと、さすがにわたしの家族もいい顔をしないだろう。それにクレス様のファンに殺されてしまうかもしれない。
わたしの手を取って立たせてくれたクレス様は、来たときと同じようにわたしの歩調に合わせて薔薇の生垣のなかを進んでいく。わたしは来た道と、左右に首をめぐらせて、クレス様を見上げる。
いや、でも、ああでも、やっぱり、と口を開こうかどうしようか迷って、迷うことを三回繰り返したところで、おそるおそる、隣をうかがった。
「あの、クレス様」
「どうかしましたか」
相変わらず、にこやか。だからこそ、違うのだと言い聞かせていたのだわたしは。けれども、もうさすがに思い違いではなさそうで、たまらず言葉を続ける。
「もう、会場へ戻るのですよね?」
「ええ。あまり長い時間、あなたを夜風にさらしたくはありませんから」
「お気づかい、ありがとうございます。でしたら、あの……会場はこちらから反対方向になりますが」
ぴたり、とクレス様の歩みがとまった。目の前に続いている道と、左右を見比べてから、ふうとため息をこぼした。
「……やはり、あなたにはかなわないな」
困ったような、笑み。悪戯がばれてしまった子どもみたいに、きまり悪く頬をかく。そしてやっぱり困った笑みをわたしに向けた。
「どうやら、私は方向感覚がおかしいようで。幼いころ、あなたに助けてもらってから、いつかその礼とともにどこかを案内したいと思っていて」
わたしははっと息をのんだ。あの、路地で途方に暮れていた男の子。真っ青な瞳、さらさらな金髪。整った顔立ちが、おぼろげな記憶と重なる。
美少年はすっかり美青年へと成長して、ひたむきにわたしを見つめていた。
「あのときは、あなたに引いてもらった手を、私は忘れたことがありません。今度は、私が引いてさしあげたい。そう思って、ずっとこの日を夢見ていました」
あんな一瞬みたいな出会いを、大事に大事に思ってくれていたのか。
「けれども、まだまだ未熟なようです。またあなたに手を引いてもらうとは」
「さきほどまで、わたしの手を引いてくださっていたではありませんか」
苦笑をこぼすクレス様に、わたしは笑いながら首を振った。
今思うと、あれも実は迷っていたのかもしれない。そういえば、ずいぶんと庭の端まで行くんだなあと思ったけれど、案内してくれるということだったので気にしていなかったのだ。
本当は迷っていたとしても、それでもしっかりとわたしをエスコートしてくれたクレス様。きれいな噴水を見せてくれた、すてきなこの人は、わずかに腰をかがめてわたしを上目にうかがう。
「また、お会いしてくれますか?」
「クレス様」
吐息みたいな声がこぼれた。自分が、まさか、こんな少女のような声を出してしまうなんて。
顔が熱い。今すぐ、どこかに隠れてしまいたい。
そんなわたしの気持ちはちっとも察してくれずに、クレス様は容赦なく先を続けた。
「あなたの兄上たちには、私はまだまだ認めていただけないでしょう。ですが、ようやくあなたに会えた。私は、この一度きりであなたとの関係を終わらせたくはありません」
やさしく引き寄せたわたしの手に、形のよい唇がそっと口づけを落とす。
ぎゅっと握られた手。
まっすぐ見つめる青い瞳。
月夜に照らされた薔薇に囲まれた、王宮の回廊。
そこにいるだけで、物語のお姫様になった気持ちだ。年甲斐もなく真っ赤になってしまったわたしは、なんだかもう、降参! と手を上げたくなってしまった。どうしてこんなにまっすぐなんだ、この人は。
ひたむきで、一直線。ある意味で不器用だけれど、それさえも魅力にしてしまっているこの男性に、わたしは惹かれ始めてしまっていると自覚する。ああ、困った。困ったけれど、この人が迷ってしまわないようにしたいなと思ってしまった。
ため息をこぼす。するとほんのわずか、私の手を握っているそれがゆれた。海みたいに青い目を見上げて、わたしはほほえむ。
「こんな不束者ですが。よろしくお願いいたします」
肩から力が抜けた、そんな笑みになってしまったけれど。お辞儀をしたわたしを、目元を赤らめたクレス様がじっと見つめる。じっと見つめて、はっとしたように息をのんで、はああと大きな息をつく。
ああ、よかった。
ぽろりとこぼれたその言葉に、彼がずっと緊張していたのだとようやく気づいた。
それからわたしを家族のもとに送り届けてくれたクレス様は、たくさんの視線が向けられていることには気づいた様子もなく、ご丁寧にも父と母にあいさつすると、ちゃっかり後日家に来る約束までして去っていった。
仏頂面をした男三人を母となだめる羽目になったのは予想外で、なんだかんだとクレス様と婚約する運びとなった未来なんて、もちろんこのときのわたしは思い浮かべてもいなかった。
約束どおり我が家を訪ねた彼が、フィオーラ、と恥ずかしそうに呼ぶ声に、わたしはほほえんで手を伸べるのだった。