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あの馬鹿兄、迷うくせにどうしてじっとしていないんだ。
わたしは自分が幼女ということを忘れて舌打ちをした。たくさんの人でごった返した街は、ちいさな子どもがひとりで出歩くのに向いていない。まして、貴族の子どもとなると、身の危険まで発生する。
王様が治めるこの国で、父親は伯爵。つまり、わたしも兄も貴族というものに分類されている。だから、身分がばれないよう簡素な服を選んで外で遊んでいたのだけれど。
三歳の誕生日を迎えたばかりのわたしは、さっきまで隣にいたはずの兄が忽然と消えたことに気づいてため息をこぼした。
もうすぐ六歳になる兄は、絵にかいたような活発で向こう見ずな男の子である。そして、ものすごい方向音痴である。目的地に自分で着けたためしがない。それなのに、気になったものには駆け寄るし、知らない道でもどんどん進んでしまう馬鹿である。
わたしがしっかりと服の裾を握っていたはずなのに。つい今しがた、猫がかわいいと一緒になでていただろう。どうしてこうなるんだ。わあ~かわいい~、じゃないだろう三秒前のわたし。兄から一瞬でも目を離すんじゃなかった。
迷った兄を探すのは、いつもわたしの役だ。兄の方がわたしを見つけてくれたことなんて一度もない。
わたしは三歳である。これでも三歳。誰がどう言おうと、ここで生を受けて三年しか経っていない。そんな鼻たれが兄の面倒をみるなんて間違っていると思う。
けれども、わたししか兄を探せないのだからしょうがない。地球という星の、日本という国で生活していた記憶のあるわたしは、道を覚えることがすごく得意になってここへと生まれ直してしまった。なんだろうその特技。職場がカーナビを開発する会社だったからだろうか。……まさかな。
三歳なのに大人の思考を持っているわたしを、周りの人たちはちょっとおとなしい子どもとして認識している。ぼろが出ないようにひっそりしているせいだ。むしろ、落ち着きのない兄を毎回家まで連れ帰るため、大変ありがたがられている。上々の立ち位置だ。
猫を気がすむまでなでくり回してから、わたしはあたりを見回す。
ここは街の大通りから一本入った路地。コの字に戻ればすぐに大通りに出られるところにいるのだけれど、あの兄が素直にそちらへ行ったとは思えない。わたしは迷わずに入り組んだ住宅街へと駆けた。
表通りに店が多い分、その裏手には庶民の家が並ぶ。貴族の家はだいたい集落を外れた奥の奥か、王宮に続く通り沿いにあるから、この辺は普通の人の家ばかりだ。
ここから、なにが兄のアンテナに引っかかったのだろうか。
ぐるりとあたりを見渡して、わたしは二軒の家を過ぎ、そこを左に曲がってまた三軒先の隙間を駆けた。突き当りにある、庭が見事な家では大きな犬を飼っていたはずだ。さしずめ、その声でも拾ってしまったのだろう。勝手に予測する。もし違ったとしても、そのうちなんらかの反応があるはずなので、わたしはまったく慌てていなかった。
のに、わたしは目を丸くして立ち止まることになる。
もう突き当りの壁が見えているところで、石段に座り込んでいる男の子がひとり。途方に暮れているその表情は覚えのあるもの。
わたしの軽い足音に、彼はこちらを振り返った。真っ青な瞳を丸くして、驚きをあらわにする。わたしはほんの少し逡巡してから首をかしげた。
「おにーちゃん、なにしてるの?」
さらさらの金髪に、くっきりとした目元、高い鼻。身なりはシャツにベスト、茶色いズボンと簡素だけれど質がよく、貴族の子どもだとすぐにわかった。兄よりもいくらか年上だろう。こんな場所には不釣り合いなその子は、舌足らずなわたしの声に困ったように眉をさげた。
「家の者とはぐれてしまった」
うん、そうでしょうとも。迷子の顔をしていたからね。迷ったときの兄と同じだ。
「どこまでいっしょだったの?」
「仕立て屋にいった帰りに、いつの間にか……」
しょんぼりと肩を落とす。これは、絶対方向音痴だ。いつの間にかってあたりがとくに。迷っている自覚がないのがやばいです。
「ここ、みつけてもらえないよ。おーどおり、いく?」
「でも、もう、ずいぶん長い時間歩いたから、遠くまで来てしまっていると思う」
いやいや。大通りはすぐそこだから。どれだけぐるぐるさまよったんだろうこの子。道に迷うことのないわたしの前に、道に迷った子がいる。これはもう、そういうことですよね。
「おーどおり、いけるよ」
ぱっとあげられた顔に、わたしはちいさな手をさしだす。
「いっしょにいこ」
ふにふにしたわたしの手。それとわたしの顔とを交互に見た相手は、きゅっと唇を結んで大きくうなずく。つなぎなれた兄の手よりもちょっとだけ大きなそれが、しっかりとわたしの手を取った。
大通りまで、子どもの足でも五分とかからない。
何度も言うがすぐそこなので、わたしはとことこ歩きながら見目麗しい少年の手を引く。角を曲がって、猫がいた家の前もとおって、元来た道をたどるとすぐに人で賑わう大通りへ出た。
隣を見上げると、唖然と目を見開く彼。
「きみは、魔法使いか?」
思わず吹き出してしまいそうになるのをこらえた。わたしは三歳の少女。きょとんとして首をかしげるだけにとどめる。
あとはどうしたらいいのかな。お供の人に引き合わせるにしても、どこにいるやら。家の名前を聞いて、送り届ける方が早そうだけれど。いかにしてもわたしは三歳。この体、意外とすぐに疲れてしまう。
人がたくさんとおりすぎている様子を眺めていると、隣ではっと息をのむ気配がした。どうしたのかと声をかける前に、坊ちゃま! と切羽づまった男の人が駆けてくるのが見える。ああ、よかった。あちらから見つけてくれたようだ。
ほっとしてつないでいた手を離す。しょんぼりしていたのが嘘のように、彼はもうすっと背筋を伸ばしていた。これなら大丈夫だろう。
そうなれば、わたしは本来の目的を――
「フィー!」
どこからともなく兄の叫び声が聞こえて、わたしは心のなかで盛大にため息をついた。
***
結局、推測どおり犬のところにいたらしい兄は、そこからまたずいぶんと奥に進んだ路地でわたしの名前を叫んだのだった。声をもとに駆けつけたわたしに、はぐれちゃだめだろ、なんて唇をとがらせてきたので殴ってやりたい。
今度はしっかりと手を握って、わたしは兄とふたりで家に帰った。今日も兄のせいで疲れた。疲労困憊でくったりしたわたしと、犬と戯れて服を汚した兄はもちろん家の者にすぐに見つかり、外に出ていたこともばれてしまった。乳母にも親にもこっぴどく怒られ、それなのにけろりとしている兄の図太さにがっくりしてしまう。
兄に振り回されながら過ごせば、ひとつ下の弟もずいぶんと活発になってきて、毎日毎日ドタバタと慌ただしい。あっという間にわたしも年を重ねて、淑女たる者こうであると教育を受けながら、なんとか伯爵家の長女という役目を務めている。
兄は十歳になったときに騎士団へ入団していった。
方向音痴は相変わらずで、そんな彼が万が一戦場に出ることになったら致命的だと、家族みんなで反対したのだけれど。騎士イコールかっこいい、というものすごく不純な動機を主張する兄は絶対に譲らなかった。
弟はそんな兄にはちっとも似ずに馬と本を愛していて、父についてよく外の領地にも行っているから、兄が騎士になっても家のことはまあなんとかなる。けれども、兄は長男で、弟は次男なのだ。そういうことにここはとてもうるさい。が、そんなことを兄はかまわない。少しはかまえ。
どんな説得にも応じなかった兄は、行ってきます! と元気よく騎士団へ入団し、そんな兄に弟がひと言。
「破門されたら勘当だから。死ぬ気で騎士になれよバーカ」
……おまえに勘当の権限はないだろう。仮にも兄へのこの態度もどうなの。わたしは両親と並んでため息をこぼしてしまった。
この世界において大人の仲間入りとされる社交界デビューは、十六才前後ですることが一般的だ。とにかく女性の結婚は早く、二十歳をすぎれば行おくれとされてしまう。
わたしは今その十六才になるわけだけれど、日本では三十二才まで記憶があるから、もうね……自分の親よりも精神年齢が高いなんてなんの冗談だろうか。晩婚化と言われた時代でアラサーだったわたしは、仕事に明け暮れて結婚なんてしていなかった。
まあ、そろそろしないと危ないなとは思っていたけれど、ずるずる年を重ねていたのだから、十六のときなんて結婚のけの字も意識していなかったと思う。
そんなわたしが今、十六才。結婚適齢期で、相手にはどこの家がよいなどと考えられるかというと、もちろんそんなわけはない。貴族の友人や噂話では、誰々が婚約しただの、お茶会に招待するだの、一番人気が誰それでアタックする方法がどうのこうのとか、ものすごく婚活が盛んだ。貴族だし。結婚も仕事の内と考えられているから、当然ながらみんなの意識は高いわけで。
周りが結婚を現実的に考えてガンガン婚活しているなかで、そんなガツガツする気になれないわたしは、周りから見るとものすごくまったりおっとりしているらしい。いやだって、十六で結婚とか早すぎじゃないですか。周りの雰囲気はもう婚活モードなんだけど、いまいち乗り切れずに他人事に思えてしまう。わたしのデビューに気合いを入れまくっている両親には悪いが、ここでも行おくれの太鼓判を押されると思う。
そんなわたしが、である。
デビューとされていた舞踏会で、やたらきらめいた男性に声をかけられたのだから、世の中よくわからない。
その相手が、この国の宰相補佐で、年頃の女性の視線を一斉にかっさらっていくくらいの優良物件なのだから、本当にわからない。なんでだ。