風鈴
まだ時代は昭和のこと。
とある田舎の村での出来事。
真夏の太陽が容赦なく照りつけ、私の体力を奪っていく。
『バス停はどこだったっけ?』
半ば意識が朦朧としてきている。最後に水を口に含んだのは、1時間も前になるだろうか。
自分の田舎に帰ってきたのに道に迷うなんて、私もいかれちまったのかな。
周りには何も目印はなく、ただ林が延々と続いているだけ。
頬から顎にかけて滴り落ちていた汗も、出切ってしまったようだ。
カラッカラ...
そんな表現が一番しっくりくる。
ぼんやりと辺りを見回すが、人っ子一人いない。人家も見られない。
ただ地平線まで長く長く続く一本道が、希望とか期待とか言う言葉を根こそぎ引っこ抜いていく。
黒いTシャツが、汗の塩で真っ白に変わっていた。
『とにかく何か飲みたい...。』
親父の13回忌で帰ってきたのに私が仏になっちゃうのかな。
せめて赤電話でもあれば連絡取れるのにな。
お袋ごめんな。家につけないよ。
そんなことを考えつつ、最後の力を振り絞り、足をずるずると引きずりながら前へと進んでいく。戻ってみてもどうしようもないことは分かっている。
年老いたお袋の顔が浮かんできた。
母ちゃん、ずいぶん腰も曲がってきたもんな。
私が帰るの楽しみにしていたのにな...
もう足が動かない...
そう感じた時、私は干涸びた土の道に倒れこんだ。そしてそのまま気を失ってしまったようだ。
どれくらいの時間がたったのだろう。
私はぼんやりと目を開けた。
天井がぐるぐる回っている。
えっ?天井?家の中?私は生きているのか?
慌てて身体を起こそうとすると、頭がズキンと響き、額の上から濡れた手拭いがバサリと落ちてきた。
身体は全く言う事を聞かず、起き上がる事はできなかった。
『まだ起きちゃダメですよ...』
横から声が聞こえてきた。
なかなか動かない頭をゆっくりと、その声の聞こえる方へ傾けた。
『気がついたのですね。』
その声の主は、着物を上品に纏った女性だった。
40代くらいだろうか。
ニッコリと微笑み、竹でできたウチワでゆっくりと扇いでくれている。
私の口元は水分で潤っていた。
枕元には透明のガラス製の吸い口があり、その中には緑茶が入っていた。
意識のない私の口に、この女性がお茶を含ませてくれたのであろう。
『私は一体どうしたのでしょうか?』
『私のお店の前で倒れていたのですよ。
まぁゆっくりお茶でも飲んでいきなさい。』
そう言って女性は、冷たい緑茶が注がれた湯呑を乗せた、丸いお盆を差し出した。
ようやく起き上がった私は、湯呑を両手で受け取った。
白地に水玉の、とても清涼感のある湯呑は、私の手のひらに心地よく納まった。
私は彼女に深々と頭を下げ、お茶を一気に喉に流し込んだ。
『ふふふ。お茶は逃げませんよ。』
気品のある女性は、私の手の中にある、空になった湯呑に冷茶を注いでくれた。
『ありがとうございました。生き返りました。』
私が倒れたとき、周りに家なんかあったかな。
きっと疲れきっていて、気づかなかったのだろう。
『少し休んでいったらいかがですか?』
『お心遣いありがとうございます。少し急いでいまして。
実は親父の13回忌で、実家に向かっていたのです。』
『あなたのお家はすぐそこですよ。忠さん。』
『えっ?なんで私の名前を?』
『あなたのお父様のことは、良く存じ上げていますから。ふふふ...』
そう言って女性は口元を隠しながら笑った。
私は冴えない頭を動かし、今の状況を把握しようと周りを見渡した。
柱にある古い振り子式の時計が時を刻み、緑の蚊帳が私と女性をぼんやりと纏っている。
その時計が午後6時を知らせた。
左手に見える玄関から察すると、どうやらお茶屋さんらしい。
外の方から、風鈴の音が聞こえてくる。
『あなたは2時間ほどお休みになってたのですよ。』
『そんなにお世話に。何かお礼をさせてください。
あとお名前を教えていただけませんか。』
『いえいえ。お礼にはおよびません。
名前は「あき」と申します。
「あき」と言えば、あなたのお母様はわかると思いますよ。』
『あきさんですね!
私の実家はここから近いのですよね?
一度実家に帰ります。
またここに改めてお礼に参ります!』
『あなたがそうおっしゃるなら...そうね。そうしてください。
そうそう、お母様にこれを渡してくださいね。』
そう言って女性は一つの紙袋を私に手渡した。
『あなたのお父様が大好きなものですよ。』
『あっ、ありがとうございます!きっと死んだ親父も喜びます!』
『あなたのお家は、ここを出てまっすぐ行けばつきますよ。』
女性は店先まで私を送ってくださった。
お店には『宮野茶屋』とこじんまり書かれたちっぽけな看板が立っていて、看板のむこうには大きな立派なケヤキが立っていた。
私は彼女に深々と頭を下げ、大急ぎで実家に向かった。
実家には、ものの3分くらいで到着した。
こんな近くで倒れたのか。ちょっと恥ずかしい。
それに何回も実家には帰っているのに、なんでこんな近くのお茶屋さんに気付かなかったのだろう。
『ただいま!』
『忠かい?遅かったね。』
立付けの悪い引き戸を開けると、腰の曲がったお袋がよぼよぼと迎えてくれた。
『実はね...』
私はそれまでの経緯を母親に全て話した。
自分が倒れてしまった事、近くの茶屋で助けてもらった事。
『あっ。そうだ!これもらったよ!』
私は母親に、さきほど頂いた紙袋を渡した。
手元がおぼつかない母だったが、ようやく開けたその中には「羊羹」が一つ入っていた。
『おや。懐かしい羊羹だね。
お父さんが大好きだったんだよ。
それにしても、お茶屋さんなんてこの近くにあったかな。
お前寝ぼけたんじゃないかい?』
『そんなことないよ。助けて頂いた女性から実際この手で頂いたのだから。
俺もびっくりさ。こんな近くにお茶屋さんがあったなんてね。』
『なんて言うお店だい?』
『あっ。ごめん。言い忘れた。
宮野茶屋さんだよ。』
『宮野茶屋?』
『そう。宮野茶屋。すぐそこだよ。ケヤキが立っているところ。
俺、今からお礼に行って来るよ!』
『本当に宮野さんだったのかい?』
『看板にそう書いてあったもの。上品に着物を着た女性だったよ。
そうそう、髪を後ろに束ねてたっけ。』
私が言うと、お袋は震える両手を合わせてお経をあげ始めた。
涙をこぼしながらお経をあげていた。
『母ちゃん。どうしたの?泣かないでよ!』
『お前、有り難いね。助けて頂いて...』
母親の話はこうだった。
お袋がこの地に嫁いだ当時、私の実家はとても貧しかったそうだ。
宮野さんの家も言うほど裕福ではなかったが、昔から交流のあった我が家をとても大切にしてくださり、お互い助け合って生きてきたとのことだ。
そして親父の大好物がこの羊羹だったそうである。
『ふうん...そうなんだ。
あっそうそう。俺の会った女性は40歳くらいだったよ。
名前は「あきさん」って言って、お袋にそう言えば分かるって言ってたよ。』
『ほう「あきちゃん」か...』
『うん。あきさん。
やっぱり母ちゃん知ってたんだ!
とてもきれいな方だったよ。今からお礼に行ってくるよ。』
『行っても会えないだろうけどね...』
『何言ってんの。母ちゃん。そうだ、母ちゃんも一緒に行こう。』
『行っても会えないけどね...』
『えっ?』
お袋はこう続けた。
『あきちゃんはずっと独り身でな。
おじいさんが始めた茶屋を、あきちゃんが引き継いだんだよ。
旦那さんがいれば、また人生が違ったんだろうけどね。
冬だったかな。
もう30年は経つかもな。
夜中に消防車が何台もせわしなく走ってな。
お茶屋の方から煙があがってるって、近所の人たちが大騒ぎさ。
なんか嫌な予感はしたんだよ。
父ちゃんと一緒にあきちゃんちに行ったら、もう火の海。
あきちゃんは逃げ遅れてな...』
『そんな馬鹿な!!
あのお茶屋さんは、もうないってこと?
じゃあ俺を助けてくれたあの女性は誰なんだよ?』
『あきちゃんかもな...
私にはわかんね...』
『......』
次の日に私は、お袋と一緒にお線香とお水を持って、宮野茶屋があった場所に出かけることにした。
私が先導して行ったのだが、案の定宮野茶屋は見つからなかった。
『確かここだったんだけど...』
『うん、確かにここだったね。お茶屋さんがあった所は。』
私とお袋が見つめている場所は、雑草が生えているただの空き地だった。
その空き地の片隅にケヤキの木が一本、寂しそうに立っている。
ケヤキに近づくと、可愛らしいお地蔵さんがひっそりと佇んでいた。
お地蔵さんの前には、白地に水玉の湯呑がコロンと転がっている。
『お線香あげようか。母ちゃん。』
『そうだね。あきちゃん、ありがとうな...』
『あきさん。ありがとうございました...』
静かに線香に火を灯し、湯呑にお水を入れ、私とお袋は手を合わせた。
柔らかな風が吹き、濡れていた私の頬を優しく撫でていった。
どこかで風鈴が、嬉しそうに、そして少し寂しそうに音を奏でていた。