ある一日
布団から身を起こして、枕元に置いてある携帯電話を取ったとき、何か大切なことを忘れているような気がした。だが、寝ぼけた頭ではろくに思考もできず、思い出せない。顔を洗い、歯を磨き、寝ている両親を起こさぬように娘を静かにゆすって、テレビを付けてニュースを流しながら妻が寝る前に作ってくれた冷えたスクランブルエッグを温めなおさないまま食べていると、はっと昨晩にかかってきた電話のことを思い出した。
どうやら三井は今日にも自殺をするらしい。
深夜にかかってきた電話で彼が断言した。有言実行を絵にかいたような生き方をしている奴だから、宣言したからには本当に死ぬのだろう。そういえば、数週間前から睡眠導入剤を毎回のように買っていた。あれはこのための布石だったのだと今になってようやく感づいた。
私は机に置いてある猫型の時計を見た。いつもより三十分起きるのが早い。まだ三井は起きているだろう。今から彼の家に行き、しつこく説得すれば、数時間後には強情な彼でも翻意してくれるかもしれない。しかし、そうする気が全く湧かなかった。頭では説得の言葉を思案しているのだが、心の底では毎朝訪れる職場に向かう前の億劫さをしっかり意識していた。友人を助ける、という休むための格好のお題目が目の前にぶら下がっていても、この十数年で染みついた社会人精神がルーティンを崩すことを頑なに拒否していた。いや、本当は選択肢にすら入っていない。一時間後には、いつも通り娘を送り出した後職場に向かって自転車を漕ぎ出す私の姿があるはずだ。
良い泣き落としの台詞が天啓のようにパっとひらめいたと同時に、スクランブルエッグを食べ終わった。食器を水の張ったシンクに浸し、再度テーブルに腰掛けたところで、先ほど思いついた言葉がきれいに消えた。これはきっと三井を説得するなという神様のお告げだな、と無宗教者らしからぬ結論で友人を説得することを完全に放棄した私は、対面で半分船を漕いだ状態でスプーンを持つ、キャラクター物のパジャマを着た娘に意識を移した。再度時計を見ると、身支度をするにも娘を送り出すにも、まだ余裕がある。さて、なにをしようか。昨晩の野球の結果を伝えるアナウンサーの言葉を聞きながら何の気なしにテーブルに置いていた携帯電話を取り、開いた。するとフッと脳裏に昨晩の事が蘇った。
頭の傍で起こったピピピという異音とチカッと瞼の後ろに走った光で意識がいきなり蘇った。はっきりしない頭でなぜか夢を見ていなかったな、と考えた。最近夢を見ていない。疲労が抜け切れていないのだろうか。布団から手だけだし手探りで枕元にある携帯電話を手繰り寄せ、相手を確認しないまま通話ボタンを押した。
「死ね、ボケナス」
開口一番に罵倒が飛んできた。予想していた事なので、別段腹は立たなかった。ただ、純粋に睡眠を邪魔されたことは不快だったので、無駄だと思いつつも口に出した。
「夜中に電話かけてくるなって、いつも言ってるだろ。お前と違って明日早いんだよ」
「うるさい黙ってろ、クズ」
この態度には少しむっとした。携帯電話を耳から放し、時間を確認すると午前の三時四十分だった。そろそろ妻がビル清掃のパートから帰ってくる時間だ。
「用事ないなら切るぞ」
面倒くさくなったので、ぞんざいに言い放つ。すると電話の向こうで、ドガッという大きな物音が聞こえた。おそらく電話主が椅子か何かを蹴っ飛ばしたのだろう。これもまた、いつものように。
「人が喋ってんのに電話切ろうとしてんじゃねえよ、アホ」
「はいはい。僕が悪かったからそんなに怒るなよ、三井」
「誰のせいだと思ってんだ、マヌケ」
適当な謝罪に三井は再度声を荒げた。三井は癇癪持ちで、自分の会話が聞き流されたり、聞いてはいても口を挟まれたりしたら途端に不機嫌になる。また、すぐ物や人に当たり散らす癖もあった。机や箪笥を蹴っ飛ばすならまだいい方、いつかマウスを床に叩きつけて壊してしまい私のマウスを貸すように電話してきたことがあった。今日のような真夜中に。
三井が今日電話してきたのも、彼がまた負けたから、その八つ当たりを私にするためである。
「やっぱ虎はダメだ、欠陥がある。あんなの使ってたら、いつまでたっても最善手なんて見つからない」
三井は吐き捨てるように、いつか聞いたかのような罵声を吐いた。ただ前回は虎ではなく牛だったと記憶しているが。その前は鼠だった。
鼠、牛、虎に一つ加えて兎。これらの動物の類似点は知らない人が聞けば、干支の事だと勘違いしそうである。しかし、そうではない。しかしそうではない。誰でも知っているあるゲームに、ちょっと人並み以上に精通している人間が聞けば、即座に何のことか気付くであろう。
これらはオセロの四大定石の名称である。
三井は重度のオセラーだ。彼は日がな一日オセロに精を出している。起きてはパソコンを立ち上げ、オセロのソフトを起動し、戦っては負ける。そして連敗がかさむと、今みたいに私に電話し、鬱憤を晴らす。
電話がかかってくるのは平均して週に三日くらい。とはいっても間隔は不規則で、一週間全くベルが鳴らないときもあれば、八夜連続でかかってくるときもある。確かな事は、夜も更けた時間帯にかかってくる、という点だけである。
私は三井のためだけに、妻や娘と寝室を別にしている。三井の電話のせいで家族にまで迷惑をかけるわけにはいかないからだ。娘は妻が夜勤を始めた幼稚園年長組のころから、一人で布団についている。甘えたい盛りの心中を思えば申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうになる。だが、三井の電話を取らないわけにはいかない。
「おい、カス! お前聞いてないだろ。おいっ」
「聞いてるよ」
この電話が初めてかかってきたのは高校二年の秋、三井が高校に来なくなってから、ひと月ほど経った時である。それから十五年間、私たちの夜の会話は定例行為となった。初めのころは深夜の電話で睡眠不足に悩まされ授業中に居眠りを繰り返していたが、次第に体が慣れてきて、高校三年には大学に入れるくらいの勉強ができるくらいには、日常生活に差支えなくなった。しかし、この電話をやめてほしいと考えたことはもちろんある。しかし電波の先にいる男は、私が電話に出ないことを許さないのだ。
一番強く拒否したのは、妻が働き始めた時だった。それまでは妻が娘とともに寝ていたのだが、夜勤のせいで、それができなくなってしまった。かといって幼稚園年少の甘えたい盛りの娘を、親から離して寝かせるのは気が引ける。だから私は決心し三井に夜中に電話をかけてくるなと言った。そして実際に携帯電話の電源を落とし、彼の電話お完全に拒否した。
すると三井はとんでもない行動に出た。まず固定電話にかけてきて、それも断線すると、今度は直接家まで押しかけてきた。チャイムを何度も何度も鳴らし、玄関前で女性器の俗称など卑猥な言葉を叫び続けた。こうなるとあきらめざるを得ず、娘は父と母に寝かしつけてもらうようにした。その件があってから、私は三井の電話は必ず出るようにしている。
電話の向こうでは、三井が未だに喋りつづけていた。こうして話を聞いているだけで、彼が及ぼす実害は最小限に食い止めることができる。
「気が付いたんだ」
三井が受話器の向こうで突然そう断言した。
「何に?」
頭が回っておらず、内容は全くつかめていなかったが、長年の経験で口が勝手に開いた。
「俺は甘かった」
案の定、三井は私が全く話を聞いていなかったことに気が付いていなかった。もし目の前にいれば、どんなにうまく頷きながら聞いている体制を装ってもすぐに見破られるが、さすがに信号を通した会話でそれに感づくのは不可能のようだった。
「脳の退化は二十代で始まる。マインドスポーツの世界では、トップでも三十代でその座から降ろされる。俺たちはもう三十二だ。思考力はとっくに下り坂に来てる」
三井はとうとうと話し続ける。
「だけど毎日こうして生きていると、危機意識がなくなり焦燥感が薄れる。毎日毎日負けても、また次があると考える。猶予は刻一刻となくなっているのに」
いや、もしかしたら三井は私が聞いていないことを察しているかもしれない。彼にとっては相手が自分の話す内容を理解いているのかなんて重要ではないのかもしれない。ただはけ口として、聞き手がいる、というのが最も重要なのだろう。
ノンレム睡眠に入りかかった頭の意識の表層で、そんな推論が生まれ、すぐさま霧散した。
「俺は明日死ぬ。明日あと一局、死の瀬戸際で一局打つ。この十数年で真理への土台は十分作ったはずだ。あとはそれを爆発させればいいんだ。自信はある」
すでに睡魔は限界だった。
「ああそう」
これだけ返答して、私の意識はブラックコーヒーのような深い黒の中に沈んでいく。遠くから聞こえる三井の声がぽたぽた落ちるミルクのように意識の中に浮かんでは溶けた。
そのあともやはり夢は見なかった。
娘を見送った後、妻と父母が起きてすぐ食べられるように簡単なサンドイッチを作り家を出た。自転車で十分ほど市街地を駆け抜け、駅前にある薬局で自転車を停める。私は毎日ここで働いている。裏口から店内に入りタイムカードを押して、エプロンをつける。小さい薬局は薬の名状しがたい匂いが充満していたりするが、私の働くところは大手のチェーン店なので、そういう独特の空気はない。
薬局で働いているが私は薬剤師ではない。出身は私学の経済学部だ。明確な就職動機もあったわけでもない。しいて言えば、ご縁があったから、である。
私は出世とは無縁だった。なんの資格も持ってないし、店長などのポストもすでに埋まっている。昔店長に、出世したいのなら本社もあり店舗数が多い東京に行くべきだ、とアドバイスされたが、結局そうはせず、今も平社員のままある。
給料も既婚者としては心許ない額だ。それでも割といい職業先だと今でも思っている。実家暮らしだったので独り身でも心配なかったし、結婚後は妻が私の両親との同居を了承してくれたので、子どもの心配も不要。妻も働いていたので、家計は厳しくない。それに残業がないのも魅力だった。かつて過労死で亡くなった社員が出て、それ以来残業は厳禁となったそうだ。そのため親子で共に過ごす時間を十分に取れる。
「お前は馬鹿だなぁ」
そんな私の現状を指して、いつか三井はこう評した。
「人生を浪費してる」
三井はいわゆるニートである。毎日働きもせずに、オセロ盤とパソコン画面とにらめっこしている。ただ部屋にこもりっきりというわけではなく、たまに私の職場に高校のジャージ姿でやってくる。だが、それもオセロをやるのに集中するために必要な食事や食料や薬を買うためで、めったなことでは表に出ない。
「技術が進歩して人手がどんどん不要になっているのに、働いてなんになる。人生においてもっとも大切なのは何を目標として、それをどう成すかだ。いつまで旧石器時代の生き方してるんだ」
三井にとっては、それがオセロの最善手を知ることであるらしかった。
「記憶や閃き、そういう人間の認識力の限界を探る実験なんだよ」
いわく、そういうことらしい。
三井がオセロにここまで執着しだした原因は私にある。高校のころ、三井とオセロを打ったのだ。
三井は優れた頭脳を持っていた。校内ではトップクラスの成績を維持し、どんなゲームをやらせてもたちどころにコツを掴み、誰よりも強くなった。
それでも当時はオセロだけでは三井にも勝つ自信があった。私は他人よりオセロが得意だった。小さなころから父とよく打っていたし、小学校のころも一時期は休み時間のたびに友達と打っていた。中割といった手筋や定石も知っていた。
いくら明晰な頭脳があろうとも経験の差は簡単には埋められない。事実当時初心者に毛が生えた三井のレベルでは私の相手ではなかった。普段マインドゲームでは絶対に勝てない三井に土をつけ、いい気になった私は、調子に乗って彼をからかった。すると彼は顔を真っ赤にして教室を飛び出していった。そのまま帰らず翌日、彼は学校に来てすぐ私に再戦を申し込んできた。その日、三井は私には想像もつかないような手を打ってきた。
初めは変哲のない牛定石だと思ったのだが、なんと五手目にX打ちを敢行してきたのだ。
Xとは、いわゆる角の斜め前の地点で、ちょっとオセロをやれば誰でも打ってはならない場所だと気付く所だ。だが、三井はそんな理屈など知る物かとばかりに平然とそこに石を置いた。まるで三井の意地がそのまま表れたかのような手だった。
結局その対局は私が負けた。
三井は学校を飛び出した後、百円ショップでリバーシ盤を買い、近所の図書館や本屋を巡りオセロの本をかき集め、一日中研究していた。私は目の前で当然の結果だと言わんばかりに平然としている友人の頭脳と勝ちへの執念にただただ驚愕するばかりだった。
そこで三井の興味が終わるかと思っていた。しかし違った。
「十の六十乗」
次の日オセロ盤を見ていた三井がポツリと呟いた。
「なんだよ、いきなり」
「チェスはコンピュータの方が強い」
私の言葉には答えず、とうとうと三井は続けた。
「俺たちがガキの頃にディープブルーっていうスーパーコンピュータが世界チャンピオンに勝った」
「それが?」
「チェスは十の百二十乗だ」
「なにが?」
そこで三井は初めて私の方を見た。眉根には皺が刻まれていて、その眼は小学校の頃なかなか九九を覚えられなかった私に対して教師が向けてきた物にそっくりだった。
「場合の数に決まってんだろ、アホ」
苛立ちを含めた嘆息ともに、再度三井はオセロ盤に視線を落とした。
「ならオセロもコンピュータの方が強いはずだよな」
「そうなんじゃないの」
「でも三目並べは人とコンピュータが対等だ。最善手がお互いに見えるから」
「そりゃそうだ」
「じゃあオセロも人と対等になれる可能性、あると思わないか。人間の能力は、オセロ盤を見て全局面を予測できなくても、最善手までの道程がはっきり見る事ができるのかって話だ。もし可能なら、オセロにおいて人は神と盤を挟めることになる」
「無理だろ」
軽々しい私の言葉に、再度三井は目線をよこした。そこには先ほどまで雄弁に熱演していた人間と同じだと思えないほど冷めた目があり、瞳の奥には明確な軽蔑がはっきりとにじんでいた。
その日を境に三井は高校に来なくなった。連絡は取れるのだが、一切学校には顔を出す様子は見せなかった。中間考査も期末考査も休み、留年が決定した段階で、三井は正式に退学届けを出した。
三井はずっとオセロをやっていた。そのためには不要な物は全て捨て、反対にためになるものなら、ほんのわずかでささやかな物にも全力で取りかかった。
その一つがプログラミングだった。
「最善を追及するためには、最善に近しい実力を持つ者が必要だ。それは人よりコンピュータの方が近いはずだ」
ある時珍しく自発的に外に出てきた三井にオセロの大会まで引っ張られたことがあった。私はあっさりと敗れたが、三井は順調に勝ち進み、全国大会への切符を手にした。しかし参加する前に顔を輝かせていた三井だったが、大会後にはいつもの仏頂面に戻り、再度大会のために外に出ることなかった。
「あいつらと対局しても無駄だ。強い奴の戦術が二種類しかない。コンピュータが解析した譜面を外さないようにするか、逆に無茶苦茶に難解にして相手の間違いを期待するかのどっちかだ」
それから三井はあらゆるプログラミングを学習し、最強のオセロソフトの制作に取り掛かった。例えば将棋のボナンザメソッドや、囲碁のモンテカルロシュミレーションなども参考にしながら、最善のソースコードを書いていった。
「マシンスペックにものを言わせるやり方じゃ、最新のスパコンでも完全解明は不可能だ。それに俺が使うのは、それよりはるかに劣る一世代前のノーパソ。クラスタリングも不可能。ならアルゴリズムに手間暇を惜しんじゃいけない」
そして三井は宣言通り、入手できるどのソフトよりも強い最強のアルゴリズムを生みだした。そして、それに挑んでは負けた。
なぜ、オセロなのか。もしあのまま普通に過ごしていれば、あるいは将棋や囲碁、チェス。あるいはテキサス・ホールデムのように一定の評価を受けている不完全情報ゲームなどを三井が選択していれば、彼の人生はもっと日が照る場所を進んでいただろう。オセロなどという児戯と変わらない評価しか与えられていない物を選んだせいで、三井の行く先は荒廃した砂漠に決定してしまった。
それは間違いなくあの時私が三井に勝ってしまった事に起因するのだろう。その罪悪感を確かに感じているから私は三井との縁を切れない。
深夜の電話だって止めさせようとしたら、止めさせれるのだ。裁判所に訴え出ればいい。そうすれば私は娘と同じ布団で寝られた。
だが、私はそれを実行に移すことができなかったのだ。
シフトの整理や店内商品配置、ポップの制作などを終え、品出しに移る。冷凍室から段ボール箱を持ってきて、店内の冷蔵棚にカップアイスを入れていく。
三井はこの薬局に来るたびに、このカップアイスを籠いっぱいに買う。
このアイスを見ていると、自然にある事件を思い出した。
三年ほど前、三井は自宅で倒れ病院に運ばれた。オセロの盤面が移るパソコンのキーボードに突っ伏し、彼の周りには溶けたこのカップアイスが散乱していたらしい。
彼は極度の飢餓状態に陥っていたらしい。
「大げさなんだよ、お前もお袋も。負けが込んで熱くなりすぎただけだ」
後日話した時、三井は死にかけた人間とは思えないほどカラカラした様子で心配する私を一蹴した。
もし、当時彼女の母がすでに亡くなっていたら、もし、生きていても偶然三井の部屋に入ろうと思わなければ、三井はもう生きてはいなかった。彼は彼が望む生死の瀬戸際に、あの時すでにいた。
しかし不思議と私には彼が死んだ世界が想像できなかった。どんな状況に陥っても、彼ならケロッと生還して見せるような気がした。実際のところ、私は三井自身が自殺すると宣告した今でも、彼が死ぬ未来を想像できない。
三井は不規則で偏った食生活をしている。体はやせ細り、クマが浮いた顔は彼を年齢以上に老け込んで見せた。髪の毛は高校時代からは想像できないくらい抜け落ちて、後頭部に残った伸びっぱなしのそれは、落ち武者を連想させた。だが彼の瞳はあのころと変わらず、負けん気に支えられた生気に溢れていた。
「お前最近やつれてるよな」
反対に妻と交代で作る栄養バランスのとれた食事を摂っている私が、三井にそう指摘された。
「そんなことはない」
私の返答に、三井は失笑するばかりだった。
「自分を客観視してみろよ」
高校時代と変わらない声色で三井が息を継ぐ。
「お前物事に対する感度が悪すぎるんだ。昔っからそうだけど、最近ますます酷くなってるんじゃないか。きっとあんな病人の集まる空気の悪いとこで働いてるからだ」
「そんなことないだろ。俺の職場なんてスーパーと変わらない」
「馬鹿言うなよ。あんなクッサイ場所がスーパーと同じなもんか。お前最近自分の顔見てるか? 妙に青白くなってるぞ」
「……お前に顔についてとやかく言われたくない」
私が苦し紛れに言った嫌味に、三井はすぐさま反応し、それから小一時間耳元で怒鳴り続けた。
その間、私はハンドミラーで自分の顔をまじまじとみたが、三井の言う変化はついにわからなかった。
夕方になり、学生のバイトがシフトで入ってきた。彼らとの会話は、昔の私自身を思い出させてくれる。もう二年働いているある青年は、私を慕ってくれて悩みをよく打ち明けてくれる。目下の不安は就活のことらしい。彼も大学三回生となり、将来が不安なのだ。
アドバイスを送りつつ私にもそんな時期があったなと思う。反面、いつまでたっても心中にはなにかしらの不安が消えずに残っている。私は進学、就職、結婚、といくつもの不安を振り切ってきたが、今も娘の進学のこと、両親の介護のこと、私たち自身の老後のこと、またいつかリストラにあうかもしれないということ、様々な恐怖がしこりとなって胸中に張り付いている。常に胸に巣食うこの気持ちは、おそらく一生消えることはないだろう。
「不安? そりゃああるよ。このまま一生、オセロの最善手に気付かないまま死ぬのは、たまらなく怖い」
三井の現状に不安がないのか尋ねた時、彼はそう断言した。彼の不安はとても単純な物だった。
三井には兄がいて、その人は弟のように道を外すことなく、頭脳に見合った学力を維持し続け東大に進学した。その話を聞き感心した私は、当時まだ在学していた三井に、彼の兄に対する惜しみない称賛を送った。しかしそれを受けた三井は不思議そうに首を傾げたあと、「ああ、馬鹿だから」、とつまらなそうに言った。その言葉の意味が解らなかったが、今にして思えば、それは三井が私の生活を侮蔑することと同じ意味なのかもしれない。
三井の兄に最後に会ったのは、彼らの母親の葬式の時だった。三井の兄は喪主を務めており、顔に色濃く疲労の色が見えたが、それでも内在する理知の色は曇っていなかった。三井の兄は、筑波の大学病院で医師として勤務していたが、結婚を機に主夫になったそうである。彼の奥さんは同じ地で研究員として勤務していた。本人も将来を渇望されていたが、仕事を続けたい奥さんの代わりに、身を引いたそうだ。しかしようやく歩き始めたばかりだという息子の頭をなでる彼の顔には充足感が満ちていた。
「あいつらはどうしようもない馬鹿だ。本当にどうしようもない」
三井はあきれた様子で言った。彼は葬式に出ていなかった。通夜の時も葬式の時も彼は自室でいつものように六十一の升の中にいた。
「あんなもん、なんの意味があるんだ」
理由を聞いた時の、電話越しからもはっきりわかる鼻にかかった嘲笑を私は今も覚えている。
「クソ高い金払って、戒名もらってなんになる。阿呆かしらん。俺は密葬でいいよ」
「死後のことなんかわからんだろ。もしかしたらあの世があるかもしれない。やらずに不幸になう可能性があるなら、やってた方がましだ」
「バカかお前。よしんばあの世があったとしても、そんなのが人間の作った作法に準じているって考えるほうがどうかしてる」
「……それに送り出すことによって、生きてる人に踏ん切りがつくってこともあるだろ」
「やってもやらなくても、踏ん切り付く人はいつかつくし、つかない人は何やってもつかないよ」
三井は言い終えると珍しく自分から通話を切った。
定時にきっかりタイムカードを押して家に帰ると、居間で娘がノートを広げていた。学校の宿題だろう。娘は私の帰宅に気が付くと、ノートをほっぽりだしてオセロ盤を持ってきた。
娘はオセロが強い。私が父にそうされてきたように、小さいころから私と打ってきたのだから、当然と言えば当然なのだが。やはり強いと継続するようになるのだろう、娘は毎日のようにオセロを打つようにせがんでくる。盤の前に座り込む娘のうなじを見ていると、そこに三井の姿が一瞬重なり、ドキリとした。
偶に考えることがある。もしかしたらこの娘は三井と同じ茨の道に進もうとしているのではないかと。そしてまたしても私は知らない間にその背中を押してしまっているのではないかと。
私がこまごまとよそ事を考えながら石を置いていっていると、娘が強手に出た。三十九手目にX打ちをしてきたのだ。一瞬呆気にとられる。焦ったように私が打つと、彼女は再度Xに打ってきた。その打ち筋は高校時代の三井を否が応でも連想させ、先ほどの疑念も相まって背中に嫌な汗が流れた。
このままでは昔と同じようになる。そう感じた私は、状況をなんとか好転させようと頭を必死に回転させるが、全く良い図が見えず、脂汗が全身から流れ出るのを止められなかった。
不意に娘が無邪気な声で笑い出した
してやったりという気持ちを抑えきれないように。そこには三井の姿はもうなかった。
平凡なコンピュータでも終盤二十手を読み切ることができる。ならばこのX打ちを当たり前の手として打つか、馬鹿な手として冷酷に咎めることができる。だから三井はこの程度では決して喜ばない。相手の弱さから得る勝利に何の価値も見出さない、オセロを複雑な数式として捉えているからだ。一方この娘は相手のミスを喜ぶ。それはきっとどちらがうまく事を運ぶか、コミュニュケーションとしてオセロをとらえているからだ。三井と娘は違う。
私は改めて盤を見返した。良い手だった。娘の放った好手には、一人のオセラーとして感動を禁じ得なかった。
コンピュータは感動などしない。それにひたすら向かう三井も、おそらく感動などしない。私は人間で、手は全然見えないし終盤の十手も読み切る事にふらふらする。しかし、だからこそ、妙手に感動するのだと思う。
なぜ三井はその事に気が付かないのだろう。失敗から生まれる奇跡に心を揺さぶることを知らないのだろう。妥協ができず、ごくありふれた幸福に身を任せることができないのだろう。それがどうしようもなく哀れに思えた。
妻が夜勤に出かけ、娘が父母の寝室に入ったあと、私はいつも通り一人で布団にもぐった。枕元に携帯電話を置いて。私は多分今日の明晩に、この携帯電話が鳴っても、何の疑いもせず相手を確認しないままいつものように通話ボタンを押すだろう。そんな事を考えながら、意識は船に乗り、暗い海の中を漕ぎ出した。
その晩、久しぶりに夢を見た。