表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
―――俺と主任と異世界と。(偽)  作者: 北島夏生
第1章 ―――俺と主任と異世界と。
3/13

1-1 俺と奴のチキンレース

ボグッ

と、肉を殴る鈍い音に俺は顔を青くすることになった。

「やべぇ、やべぇ、やべぇぞ、こん畜生。」

俺は呟きながらジリジリと後ずさっていく。

間合いを読み違えた。

一言で言ってしまえばそれまでの話なのだが、お互い命を遣り取りしてる中で、という条件を付け加えた時にその一言が意味する状況というのが、どれだけマズいのかは察して余りあると思う。

命を遣り取りしている状況。

そう、少しの判断ミスが致命的となりかねない。

否、一撃を以って必殺の向こうと、幾らかの手傷を負わせるられるだけのこちらでは明らかに向こうに分がある。

プギィィィイイイイイイイイィィィィィィ!

明らかに怒りとわかる咆哮とともに駆け始めるイノシシ。

餌が良いのか、かなりの大物と思われる図体で、まぁ図鑑なりネットなりでお見かけするような茶色の体に立派な牙を生やした奴だ。

少なくともうり坊と呼ばれるようなちっこいのどころか、トラックに乗せられて食肉処理場にドナドナされてる豚と比べても明らかに一回りどころでなく大きく見える。

「ヒィッ。」

情けない声とともに寸でのところで脇に飛びのいてかわすと、手近な木の前に立って獣道の先をちらりと見遣る。

後、どれだけだろうか。


かなりの太さの幹を持つ、大木と言って差し支えないような樹高の木々が茂り、天を突かんばかりに高く伸びたそれに見合った枝を広げて陽の光を隠す。

(まば)らになった木々の間には落ち葉と腐葉土が敷き詰められ、羊歯(しだ)のような葉の下草が()に生える中、踏締められた獣道は黒く艶光(つやびかり)してその行く先を示す。

その150cmほどもの幅がある獣道を山の方に行った先には、大木が数本折れて道の上を跨ぎ、若木(と言ってもかなりの大きさだが)が数本生えている場所がある。

そしてそこには落とし穴が掘られており、その上にあるのはブラ下がるのに適した太枝と、それに結び付けられた目印の布。

俺の仕事というかクエストというか、やらなければならない事は、この恐ろしい移動物体を誘導しつつ、その落とし穴の上の枝に飛びつくところまでなのだが・・・。

まぁぶっちゃけて言うと、致命的な質量・速度を有する敵対的生命体「コードネーム:INOSHISHI」をトレインして落とし穴にブチ込めという話だ、忌々しいことに。

最初は猪突猛進の言葉のごとく、真っ直ぐ木に突っ込んで首の骨を折って終わるんじゃないかと思ったのだが、余裕を持ってかわした結果、急制動と方向転換で以ってこちらが間一髪の危機に陥っただけだった。

それから何度かこうしてギリギリでかわし、先ほど制動仕切れず木に突っ込んだところを手槍で切りつけたのだが、脇腹を狙ってSMAAAAAAAAAAAAAAASH!!!すればそこらやココらやアチラに臓物を撒き散らすか、そこまで行かずともそれなりの深手を負わせられる、と思われた一撃は腿肉に叩き付けられて致命傷どころか大した足止めにもならなかった。

確かに斬りつけたことで手傷を負わせることには成功したのだが、幾らかの血を流した他は怒りに我を忘れ、逃げるどころか嬉々として、いや、鬼気として俺に向かってくるようになった。

人ですら脂肪や筋を切った所で怱々死ぬものではないのだ、あれだけの図体なら必要な手傷等は推して知るべし。


クソ。こんなことなら、言われたとおり手槍にトリカブトでも塗っておけばよかった、と後悔するも時既に遅し。

素人が取り扱いに失敗して事故で死ぬのも間抜けな話だし、傷口周りは捨てることになるのだから殺したその場で解体を始めることになるのも面倒だった。

どんな獣がいるとも知れない森の中で、辺りに血の臭いを振り撒くことになるのは気が引けたのだ。

狩人なんて職業、なったことも無いからどのくらいで獣が集まってくるか分からないし、解体だってどのくらいかかるものやら。

それでも獣道が、通る動物の足の幅ほどにしかならないと考えれば、歩く際に使うのが手だろうが足だろうがその横幅が150cm・・・。

人が両手を広げたほどの横幅がある獣とか何がいるんだ?この辺りに生息するようなファンタジー的な生物なんて言ったら、俺には人の背丈の倍はありそうな、レッサードラゴンとかキラーエイプなんて名前もらっちゃうような獣なんかしか思い浮かばん。

とはいえ、そんなこと心配せんでもちょっと気を抜けばミンチになれるな。塩無しSPAMだ、ワーイ。クソッどうしてこうなった。


「どうしろってんだよ・・・。」

既に眉毛はハの字を描いているような状況で、己の頼りにする物といえば・・・。

手に持った、1m程しかない短めの槍の先を見る。

ボウジェやグレイブのような長柄武器を切り詰めた、といえばいいのだろうか。

自動車の板バネから削り出した直角三角形の斜辺を20cmほどの刃とし、樫の木から削りだした柄に取り付けて作られたそれは、森の中で使う為にそこそこ取り回しがし易く作られているが、武器として振るう分には威力に欠ける。

とはいえ、人や小動物を相手取るならば十分な威力があるし、両手剣などという物騒な代物を持たされても使いこなせないのだが。

これなら投射系遠隔攻撃手段を・・・と思わなくもないが、拳銃は無い。

ボウガンだって無い。

コンポジットボウを作ることも出来ないし、ボーラや投網、手投槍などの威力を考えれば大勢で囲まねばお話にならない。

100キロなんて優に超えるだろう体重のイノシシが、人の走るより速く突撃してくるのだ。

手槍を突き出したところで、刺さったまま押し込まれて木に叩きつけられ、押し潰されるだろう。

それはもう、口から胃の中身どころかその物まで吐き出してしまう程には。

息が上がり始めた今の状況では、最早落とし穴に落とす以外に勝機もなく。


「クソッ、来やがれこのド畜生が!生ハムにしてやんよ!」

落とし穴まで辿り着くのが先か、息が上がって牙で突き上げられるのが先か。

荒い息をつく中、悪態をつきながら気力を奮い立たせるほか為す術もない。

少し先で止まり、方向転換を終えたイノシシが再び吼える。

俺は、奴が走り始める前に獣道に出て走り始める。

プギッ!プギィイイイィィィィ!

吼えながら走り始めると、ドドド・・・という四肢が地面を叩く音を響かせて突っ込んでくる。

その音に顔をやや引き()らせながら罠に向かって走る俺。

前と後ろを交互に見ながら走るが10秒そこそこで追いつかれてしまう。

道の脇に立つ木に向かって行くと、木の前で左手を幹の右側に当て、手と足の力で右ステップから木の右を抜けて裏側に回る。

その間にもゴンッと鈍い音がして木が揺れ、隣をイノシシが駆け抜ける。

「うひっ。」

木の皮が飛んでいくのが見えた。

おそらく牙で削り取ったのであろう。

あんなものを足にくらったら―――俺の頭の中に、足の骨が折れ、肉をこそがれて跳ね飛ばされる姿が浮かんでくる。

『見せられないよ!』カンペ持った何者かが、モザイク掛かった俺の死体を隠しているのが見えた。

存外冷静なのに驚いたが、留まっていれば状況は刻一刻と悪化していくのだ、動かねば。


俺は、獣道を挟んだ反対側に抜けて、木の裏を罠の方向に向かって走ってゆく。

奴は道をしばらく行った先の獣道で止まり、こちらをにらみ付けながら四肢を開き気味にして踏ん張っている。

俺は木に隠れながら奴の先に出るために木の間を駆けてゆく。

弓なりに迂回しながら走ること10数秒、奴の先の道に出る。

その時に道の先をちらりと見ると道の色が違う部分が見えた。

しめた!おそらく道を掘り返した部分だろう。100m近く先だろうか。

自分の足なら全力で走って15秒も掛かるまい。

だがイノシシは?

今は奴から20mほど離れている。

これが50メートルも離れていれば、余計なことなど何も考えずに全力で罠に向かっていったろうが、この距離では間に合うかどうか心もとない。

或いはもう少し木々の間を縫っていけば距離を離せるかもしれない。

とはいえ、あくまでも奴には獣道を突っ走っていって罠に掛かってもらわねばならないから、あまり森の中に入ってばかりもいられないだろう。

もう1回。もう1回奴を出し抜ければ罠に手が届く。


ゼイゼイと荒い息を吐き始め、もう1回も全力で走れば、その後は碌にかわすことも出来ずに牙に突き上げられるだろう。

しかし、助かる、という思いが既に頭の中に染み渡ってしまった。

息苦しさと命のかかった緊張を強いられ続けた後に見せられた僅かな希望に、ただ苦痛から逃れたくて間に合うかどうかの判断もまともにせず、俺は不用意にも獣道を罠に向かって走り出してしまう。

途端に、やはり拙かったかと不安がよぎり、思い返すも既に走り出してしまった。

すぐに奴の足音が聞こえ始め、追ってきている事を知らせる。

「ひぃぃいいいい!マジかよぉぉぉ!」

最早、何も考えられずにただ全力疾走する。

頭の中は連続の全力疾走と、奴をかわした後の僅かな休憩とで、高校の時の運動系部活のしごきを受けた後のように鈍い痛みと酩酊感にも似たような足のフワつきを感じている。


残り50mを切ったところで枝に布が結びつけられているのを見つけた。

やった!ついに罠まで辿り着いた!

ただ只管(ひたすら)に生き残るための渇望と、何かに感謝せずにはいられないような不思議な気持ちを抱く。

一瞬のその感覚に意識を逸らされ、自らの置かれた状況を忘我の中へと追いやる。

否、手を振ってご丁寧に送り出して差し上げる。

人がヒトだった頃から、その行為が今の名前で呼ばれることになる、遥か以前から連綿と続けられてきたであろうその行為と心の動きを、今の時代の人々は・・・現実逃避、と呼ぶ。

うっ、今、何を考えていた?俺は今何をしていたんだ、クソッ!俺は今、何をするべきか~・・・じゃねぇってばよ!

今の状況にそぐわない、下らない取り留めも無いフレーズを再生して下さった偉大なる脳細胞に突っ込みを入れる。

こんなことに思考を割いている場合じゃない!

僅かな時間であるが、頭の中から一切の思考も感覚も消え去っていたことに気づき、怖気をふるいながらも後ろを振り返る。

そこには口から泡立った涎を撒き散らす奴の顔が、手槍の届くほど近くまで迫っていた。

「おっおおおお!マズいぞこんちくしょぉぉぉぉ!」

思わず叫びながら、胸の前で両手で掴んでいた手槍の左手を離し、右手を後ろに回すように振る。

と、そこで手がすっぽ抜けた。

プギィッ!

イノシシの体のどこかに当たって怯んだのか、僅かに足音が遠のく。

「糞がぁぁぁぁっ!」

と叫びながら、ただひたすらに枝を目指して走り続けていた。


怯んで速度を落としたとはいえ、いまだ双方とも走り続けていることに変わりなく、もはや形振りかまわずひたすら走る俺と怒りに我を失っているイノシシ。

一人と一匹のデッドヒートは、俺が太枝に飛びつくことで決着が付いた。

即ち、枝に飛びついた勢いで体を引き上げた俺と、落とし穴に頭から突っ込んでもがく、奴。

天と地とに分かたれた両者は、以後永遠に分かり合えることは無いだろう。分かり合いたくも無いが。

プギッ、プギッ、プギィイィィ!

俺は枝を突き放すようにして穴から出来るだけ離れた場所に下り立ち、ヨロヨロと数歩下がってその場にへたりこんで荒い息を付く。

「生ハムだゴラァ。」

汗がダラダラと流れ、張り付いたシャツの気持ち悪さに嫌気が差して、なんとも締りのない勝利宣言であった。


「よくやったぞ、北川君!」

バサバサと木の枝を揺する音がして、白い何かがパスン、と音を立てて近くの地面に下り立つ。

なんとも間の抜けた音は、素足で履いたピンクのパンプスというかサンダルでいいのか?―――の足裏の空気が抜けた音だろう。

白いのは白衣を着ているからで、ズボンではなくタイトスカートを履いているのは女装趣味ではなく、正真正銘生まれてこの方ずっと女性であったことの証左ではないか、というかそれについて継続的な確認をしたことはないのだが。

荒い息を吐きつつ地面に倒れこんでいる所に白衣の推定女性が近づいてきたので、この逃走劇の顛末に幾許かの抗議というか、この計画の実施責任者に対する僅かな悪意を抱きつつも、何か天啓というか「大いなる意思」が囁いたために生まれ出た言葉が口から漏れた。

「白、所により薄黄色でしょう。」

天気予報にも似た俺の言い草に、寝転んだ俺の頭は踏みつけられた!

あふん。白ではなかった、黒とかノワールとかブラックとかだった!


「もう一度イノシシが狩りたい。あまつさえ居るとなればクマをも超える巨大な獣を狩りたい、そう申し出るとは君も中々に見所がある中年ではないか!」

「はぁはぁ、中年とか、微妙なお年頃なんで・・・勘弁してください。はぁはぁ、白くて薄黄色なのはそのお召し物ですよっ!それと黒なのは汚れが目立たないか・・・。」

喋っている最中にもかかわらず、俺の頭は踏まれるのにも飽き足らずグリグリと、夏の或る日に靴底についたしつこいガムを地面に擦り付けて落とすかのような行為を受け入れている。

くっ、グリグリとされるほどに黒く薄い布の皺が蠢いて、見る者を狂気へと誘う。

こんな方法で俺のSAN値が下げられるとは!

レースであるが故にその生地は薄く透けており、黒よりもなお一層昏い黒(剃って・・・ないだと!?)を纏うあたりに、ジャックが持っていたとされるバットと2個のボールが無いことから、外見上は女とされる性に分類されることが分かる。

「主任、それ以上されては北川さんがパッシブスキルを獲得してしまいますよ!具体的にはM属性と言う物理無効化スキルらしいですが。」

木の上からトシが如何でもいい様な事をクソ真面目な様子で言い放つ。

そう、白い確定女性―――つまりは白衣を着込んだ主任に俺は踏みつけられていたのだ。

誰ぞある!朕を助く者はなしや。


そして神は我を見放さなかった!

そう、主任が降り立った時、それに続いてもう一人やや小柄な人物が飛び降り、これまた(しっか)りと地面に降り立っていた。

俺がそちらの方を向いたので側頭部をグリグリと踏まれる事になったのだが、その神の使者たる人物は(おもむろ)に地面にしゃがみ込んだと思ったらそのまま仰向けに寝転んで伏目がちに語る。

「主任。お怒りは御尤もですが・・・。」

そこまで語り、クワッ!と目を見開き声を大にして言い放つ。

「踏むのなら、どうぞこの私めを!」

何の脈絡も無い、そして心の底から搾り出したかのようなその叫びを聞き、主任は何とも言えない困った様な、嫌な物を目にしたかのような顔をしてジリジリと下がっていった。

あの、ネズミの解剖を見ても、その臭いを嗅いでも皺一つ寄せない主任が、だ。

主任が俺の横を抜けて、そのまま穴に落ちた奴の方に行くと、俺は寝転がったまま変態紳士(ケンタ)の方を見て右手でサムズアップする。勿論、いい笑顔は嗜みとして忘れない。

ケンタもこちらに気付いてサムズアップをするが、笑顔が黒い、様な気がする。ニヤリと笑ってるし。

なんでこんな奴が女にモテるのか。いや、まあ普段は俺たち以外の人間にこんな姿は晒さないから、背が低めなのもあってショタっ気の混じった美青年くらいにしか見えないんだが。


「こんなこと、もう二度とやりませんからね。」

俺は、穴を覗き込む主任に目で非難をしつつ上半身を起こして、穴に頭から突っ込んでもがき続ける奴を顎で指して不満を示す。

穴は長径1.5m、短径1m程の楕円で進行方向が長径になるように掘られている。その深さは2m程で底に行くに従って直径を絞ってある。

つまり、頭から落ちたらまず抜け出せない作りにしてあるということだ。

「ほっほう。流石の北川殿でも苦戦し申したでござるか!」

なんか微妙に合ってるんだか間違ってるんだか分からん芝居がかった台詞を木の上で吐いて飛び降りるトシ。

そして同時に穴の上辺りからチェーンが数本降ってくる。

トシの方は、着地と同時に動きが止まり苦痛に顔を歪ませて、ぐおおぁぁ、あ、あしがぁぁ。とか言って転げまわる。

おそらく、飛び降りようか降りまいか悩んだ挙句、そのヘタレた中途半端な状態のまま見切り発車したせいで足の衝撃を逃がし損ねたようだ。見事なまでに不憫なやつ・・・。

ケンタの方は、木の上から穴の中に垂れ下がったチェーンを引き出しつつ、

「この佐伯健太郎、感服仕りましたぞ。」

などど適当な事言ってやがるし。こっち見んな。


転げまわるトシを他所に、ゆっくりと木の幹を伝って降りようとしているソノさん。

あ、そこは・・・。

「ぉあふぅ。」

ソノさんが足をかけようとしたところには枝が折れた跡の僅かなコブしかなく、足が掛かったと思って体重をかけた瞬間、宇宙の真理に従って彼の尻と大地とが会合を果たす。

ぶっちゃけ、ずり落ちて尻打っただけなんだが。

まともに降りれないのに登るなよ、と思いつつも、その場の勢いに負けてやっぱり勢いだけで登ったんだろうな、と同情する。

締まらない、本当に締まらないが、そこには。


白衣の主任が1人、男が四人、荒ぶるイノシシが1匹という珍妙な集団が現れたのだった。


俺は俺で疲れ切ってまんじりと眺めていたが、見ていただけの彼女らは既に今宵の料理に思いを馳せているようであり、騒ぎながらも罠に落ちた「奴」の四肢にロープを掛けて吊り上げようとしている。

いや、どうやら後ろ足に4本のロープを掛け、束ねたロープを上から垂れ下がったフックに引っ掛けているようだ。

ケンタがフックに掛け終わったロープを引っ張って、外れないのを確認するとチェーンを掴んでいたトシの方を向いて頷く。

俺が走っている間に計画の変更がなければ、上にはチェーンブロックが在り、そこから下がっているチェーンを使って穴の中の獲物を引き上げる手筈になっている。

チェーンブロックから下がる3本のチェーンの内、1本は物を釣る為に、残りの2本はそれぞれ釣っている物を昇降させる為の物で、輪になっているから釣り下げ用のチェーンの長さの許す限り昇降出来る。

トシが気合を込めてチェーンを引くと、ジジジ・・・とノッチを弾く音が軽快に鳴ってフックが『降りた。』

「ぶは。」

トシが焦って残りの1本を引っ張り始める。

焦って最初から飛ばす奴があるか!と思いながらも見ていると軽快に鳴っていた音が止んでチェーンが止まり、遊びが無くなったことを示す。

トシはさっきまでの勢いとは変わって、力を込めながらも奴に掛けたロープが外れないか注意深く探るようにゆっくりと、チェーンに体重を掛けながら引く。

ゆっくりとカチカチとノッチの音を響かせながら奴が引き上げられていく。

その間にも奴はさっきまで走り回ったことも感じさせないような勢いでプギャプギャ鳴きながら暴れており、そのためか太腿の切り傷からの出血が止まっていないようだ。


「本当ならここで血抜きをして、穴にワタを捨てて埋めたいところなんだがな。」

とケンタに話しを向けると、

「いや、そうもいかないですよ。」

と苦笑しながら返す。

「まあそうなんだが。」

とこっちも困った気分になって返す。

「あー、捌かずに持って帰れば内臓も食べられるかも知れないデスよ。」

と、ソノさんは希望に腹を膨らませている様だ。

いや、胸だったなと思いつつ分けられそうな部位に思いを馳せる。

「タンとレバーとハラミは、まずほしいな。それと出来れば腸も寄生虫が少なければ。他は、まあ煮込みにでもすれば喰えるか。」

腸は割りと腐りやすい、というか死ねば他の部位より早く壊死するし自身の消化液で消化が始まる。

病院も薬も(ろく)に無いのに食中毒とか寄生虫は危険すぎる。

それに腸の内容物を誰が洗浄するのか、という話もある。罰ゲームだなこれは。

病気や怪我については過剰なくらいに気をつけたほうが無難なところだ、うむ、君子危うきに近寄らずんば虎児を得ずんば二兎を得ず。

BLOOD TYPE:BLUEな俺は箸より重い物は持たず、火中の栗は献身的な後輩が拾うべきなのだ。うむ。


俺が座り込んでソノさんと話していると、

「ううむ、少し元気が良過ぎのようだな。仕方がない、血抜きの時間は取れないが、止めを刺してくれ。」

との主任のお達し。

「トシ、頼む。」

俺は、傍に落ちている手槍を掴んで上半身の力だけで槍投げのように投げる。

うはっ、とトシは大げさに飛び退いている。お、ナイス。サクッと地面に斜めに刺さった。

「危ないですって。刺さったらマジヤバですよ。」

トシは文句を言いつつ手槍を右手に持つ。

俺は笑いながら、

「刺さったら文句を言ってくれ。」

と言って止めを刺すのを眺めることにする。

どうやら、「奴」を引き上げたはいいが、余りに暴れるので胸辺りが地面に出たところで引き上げるの止めたらしい。

中途半端なところで止まってるので、「奴」は暴れて身を(よじ)る度に穴の壁に頭をぶつけている様だ。

どうせ土なのだから、ぶつけた所で大人しくなる訳でもないので早々に止めを刺して運ぶ事にしたらしい。


俺が眺めていると、トシが手槍を両手で握って腰溜めに構えたので見て思わず叫んだ。

「おい!止めろ!そのまま刺すんじゃない。」

トシの方は勢い込んで、さあやるぞというところで止められて怪訝な顔でこちらを見る。

「腹を刺すな、腹を。中身がこぼれて喰えるもんも喰えなくなるぞ。」

と、さっき自分で腹を切りつけたようとしたのも知らぬ顔で言うと、トシはああなるほど、といった顔で手槍を両手に掴んだまま万歳をするようにして、りょーかいと答えた。

「首周りを刺せ。何回か刺せば何とかなるだろ。」

そう、態々(わざわざ)近寄って頚動脈を切るような危険を冒さずとも、何回か刺せば動脈か気管には刺さるだろうと思う。

「血は浴びるなよ。」

と更に注意を促すと、りょうかいっすーと返って来たのでまあ大丈夫だろうと思って作業を眺めることにする。

「さぁ、存分に楽しめ。」

と言ったら嫌な顔をされたが、俺がそのまま槍を付くようなジェスチャーを見せてやるとトシも覚悟を決めたか、手槍を思い切り突き出した。

「奴」は、プギィィィィイィっと哀れな鳴き声を上げながら一層激しく身を捩った。


そう、ここに病院は無い。薬も最低限の物、それだって十分な在庫が有るとは言えないのだ、病気・怪我の類は鬼門である。

ちょっと血を浴びるだけなら問題はないだろう。

確かにそうなのだが、帰るまでは洗う暇が無いし、それまでは時間が掛かるのだ。

下手をすれば、粘膜感染の病原菌を持っているかもしれないし、血を浴びたところのどこかに傷があればまず感染は確実と見た方がいい。

経口感染も考えられるしな。

まして頚動脈を探って切る様な真似をすればまず噴出した血を浴びるのは間違いない。

態々そんな危険を冒す必要も無いのだ、そう考えながら作業を見ている。

何度か突き刺しているのを見ているとトシが、おおっ、と軽く驚くような声を上げたので、おそらく動脈を刺したのだろうと思って近寄って確認することにした。

見ると予想通りの結果であり、首の辺りからピュッピュッとまあ心臓の鼓動に合わせてだろう、血が噴出しているのを確認した。


とはいえこれだけの巨体であるから怱々に死ぬとは思えず、先にリヤカーを用意することにする。

最大の奴を引っ張ってきたわけだが、載るか?

食肉用の普通の豚なら載るんだろうが。

まあ、考えても仕方がないことではある。

現物は既にここにあるんだ、獲物もリヤカーも。

「トシ。リヤカーを穴の所に持ってきてくれ。ケンタはあの木に登ってロープを掛けてくれ。ソノさんはケンタの手伝いを。」

俺が簡単に指示を出すと予め決めてあった手順で「奴」を運ぶ用意を整えてゆく。

暫くして準備が整うと主任が話しかけてきた。

「獲物の死亡を確認した。それでは計画通りに進めてくれ。」

それを聞いてちょっとおどけて返事を返す。

「りょーかい。やったねタエちゃん、今夜は焼肉だー。」

疲労からかちょっとハイになってるようだ。

それを聞いて他の野郎どもが、わー、とか言いながら手に持った道具を思い思いに打ち合わせながら(はや)す。

「さあ、さっさと掛かれ。ここに留まっていれば何が出てくるか分からん。最初に見つかった奴が囮だ、喰われている間に逃げるぞ?私はまだ死にたくはないのでな。」

主任がニヤリと笑って、冗談に混ぜてさり気なく現状の確認を促す。

そう、血は既に流された後で、まだ獲物をリヤカーに乗せてすらいないのだ。時間との勝負になるだろう。

「帰るまでが遠足って言いますからねー。」

ロープを掛け終わったケンタは、そう言ってまたもや危なげなく飛び降りてきた。


「奴」を荷台に載せる算段だが、リヤカーの車輪の幅が1mをちょっと超える程度であった事から、引き上げてから下にリヤカーを突っ込んでそのまま下ろすという訳にはいかなかった。

まずは獲物が穴に落ちなければ話にならないので、穴は出来るだけ直径を取りたかったからだ。

それで車軸の幅ギリギリの穴を掘って、いざ獲物を載せたら穴のフチが崩れてハマりました、では済ませられないからだ。

車輪が落ちないように余裕を見て掘るなら、穴の直径を60~80cmにしなければならなくなる。

なので、チェーンブロックで吊り下げられた獲物の前足か首に別のロープを巻きつけ、そのロープを別の枝に回してくる。

3人でこちらを引っ張りながら1人がチェーンブロックの方を引き出し、引っ張られた獲物は穴から少し離れた場所に置いたリヤカーの荷台に載せられる、という算段であった。

そして今、主任がリヤカーを動かしながら「奴」の重心が車軸の上に来るようにと調整しているのだが。

「クッソ重いなド畜生めが、何食ってやがんだ。」

俺が悪態を吐いていると、律儀にもソノさんが答える。

「恐らくドングリとかヤマイモの類ではないデスか。」

いや、別にそんなことが聞きたかった訳じゃないんだが。

「なんか肉も喰うらしいですね。『先輩肉』とかの味を覚えたらヤバいかも。」

ケンタが受け持ったチェーンブロックの方は、今することが無い為に余裕があるのか、ニヤリとして冗談を言っているので、、

「それはヤバいな、『ケンタ肉』とかの味を覚えたらジョーズみたいなホラー映画になるぞ、きっと。」

と俺が返す。

「イギリスの羊じゃないんですから。態々喰うために生きた人間を襲うんですかね?」

とトシが植民地支配の風刺を混ぜて聞いてくる。分かりにくいネタを振るなっての。

「その辺は全く分からんな。こっちのイノシシは人を襲って喰うのかも知れんぞ?ちょっと試して見るか、トシ。」

主任まで悪ノリしてきた。


まあ、確かに似ているとは言え、全く生態を知らない生物の事など分かるはずもない。

イノシシのくせにビックリするほど肉食系の反応だったし。俺が喰われるかと思ったわ!

常識に囚われて行動するにはちょっと特殊に過ぎるのだ、ここは。

そんな取り留めのない話をしながらエッチラオッチラ、「奴」を吊り上げているロープを引っ張ったり緩めたりして、何とかリヤカーの上で重心を調整出来た。

解いたロープで積荷をきつく縛り付けて移動準備が完了した。チェーンブロックはまた日を改めて取りに行くことにして、とにかく早くこいつを運び込まなければ。

体重のあるソノさんが前になり、俺とトシが後ろから押す。ケンタが前、主任が後ろの警戒といった具合に分かれて移動する予定だ。

「主任、おーけーでーす。」

ケンタが前に出て主任に向かって手を上げる。

主任が軽く手を上げ返したのを見て、俺はタイミングを合わせるべく気合を入れる。

「よーし、往くぜ野郎ども。ファイトォーーーーーーー!」

「いっぱぁぁああああつっ!」

気合とともにリヤカーは動き出し、一路、我が家へと突き進む!というほど速度は出ないんだが。

「クソッ、全力疾走の後にコレとかマジ勘弁。」

俺が奴隷労働の悲哀に嘆いていると、フォォォォォ!とか、そぉい!とか言いながら横で押していたトシがこっちをジト目で見てくる。

「手は抜かないでください、ほんとおねがいしますこんがんしますあいがんします。」

俺ちゃん!やめて、トシのライフはもうゼロよ!

どうやら俺だけでなくソノさんも手を抜いていたらしい。

一人トシだけが気愛入れて押していた構図だ。正直、すまんかった。

心の中でだけ謝り、俺が力を入れて押し始めると重かったリヤカーが直に軽くなった。ソノさん、あんたってヤツぁ・・・。

目的地はそれほど離れている訳ではない。

普通に歩いて30分程で着くのだから2~3km程だろう。

何より幾重にも重なる枝の、その薄いところを透かして見えているのだ。

それは小さな山の上に建つ、真っ白な城、いや白い巨塔と見えるもの。

我らが(ねぐら)、『おりがみの森遺伝子研究所』であった。

2014/01/01 ルビ、改行追加

2014/01/31 一部表現の欠落による設定破綻を修正

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ