第二十一話 Mother
――それは漆黒の『闇』だった。
何もない、何も見えない、明かりのない真夜中の暗さとは訳が違う。
虚無。
世の中から全ての物を無くしたら、行き着く先が白しかない世界なのか、黒しかない世界なのかは知らないけれど。
何も無い場所。
それが、この空間にはぴったりだと思った。
思考は至って冷静。たぶんここは夢の中だ。
けど、現実世界と全く変わりない。五感がなくなったわけではない。
確かこういうのを『覚醒夢』と言ったような気が。
まぁ皮肉なことに、俺はしょっちゅう夢を見るし、たまに現実との境も分からなくなるような夢を見る。
今回もきっとそれだろう。
それにしても俺、なんでこんなところにいるんだろ。
いくら夢でも、ここまでベタな黒一色の世界は初めてだ。お、俺ウマいこと言った?
――おかーさん。
子供の声だ。
しかも、なんか聞き覚えのある声だな……誰だっけか。
――母さん。
突如、視界が反転し真っ白になった。
今のは、俺の声?
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「母さん」
「なあに?」
トントン、とリズミカルな音をたてて、母さんは玉ねぎを切っている。
時刻は夕暮れ時。俺は台所で母さんの後ろ姿を眺めながら、冷蔵庫から出した麦茶を飲み干す。
冷え切った麦茶が火照った体に浸透していく、この感覚が好きだった。
「今日の晩ご飯なに?」
「あなたの大好きなオムレツですよ」
っしゃあ! と小さくガッツポーズ。
母さんはそんな俺を見てフフ、と笑みを零した。
「なあ母さん、涙出てこないの?」
まな板の上の細かく刻まれた玉ねぎを指差しながら、ふと疑問に思ったことを尋ねてみる。
「フフフ、全然へっちゃらよ。だって母さんは魔法使いですもの」
「またそれかよ。じゃあその魔法を俺にもかけてくれよ。こっちまで目にしみてくるんだ」
笑いながらそう言うと、母さんもまた笑い返して言った。
「だーめ。母さんそこまですごい魔法使いじゃないから、大和にもかけてあげることは出来ないの。母さん専用です」
ちぇっ、ケチな魔法だな。
あえて拗ねたような態度を取ってみても、自称魔法使いさんはニコニコと笑みを浮かべたままだった。
トントン、とまな板を叩く音が台所に響いている。
「も、もうダメだ。目が痛い。顔洗ってくる」
「はいはい。洗ってきたらちょっと手伝って頂戴」
「はいはーい」
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母さんだ。久しぶりに見た気がする。
これはいつの記憶だろう?
日常的すぎて日付なんて覚えちゃいないが。俺の声変わりも済んでいたし、それほど遠い記憶じゃない、ような気がする。
にしても夢に出てくるとは思わなかった。
そんなことを考えていると、突如パンッ、と誰かが手を叩く音と共に場面が切り替わり、今度は違う視界が広がった。
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小学校の教室。俺は窓側の後ろから二番目の席で、右隣の友だちとゲームの話で盛り上がっていた。
今日は授業参観日なのだが、もう高学年だし、授業を見に来る親も少ない。
俺の母さんも、今ごろお昼のドラマでも見ながら家でのんびりしているはずだ。
「えー、ここの問題はですね……」
担任のちえり先生の甘ったるい声が、分数の足し算の解き方を説明している。
ざっと見たところ、クラスメイトの大半が、通分のやり方が理解できなくて頭にクエスチョンマークを付けているように見える。
黒板には分母の違う分数が二つ並んでいた。
俺がなんとなく周りを眺めていると、さっきから一人でゲームの話をしていた友だちが、みんなとは違うクエスチョンマークを出して俺に質問してきた。
「なーなー、あそこのボス強くねぇ? あれどうやって倒すの?」
「バッカだなぁ。そんなに強くなかったぞ? 相手の攻撃力下げてから攻撃すれば楽勝じゃん」
「え、でもその間に攻撃した方がよくない?」
「お前、ひょっとして戦闘中攻撃魔法しか使ってないだろ」
ギクッと友だちの肩が揺れる。
「やっぱりな。お前、ひょっとしてポ○モンでも攻撃わざしか覚えさせてないだろ。しかも同じタイプのわざが二つあったりして」
「ち、ち、ち、ちげえよ! ちゃんと攻撃わざ以外にも能力アップ系とか覚えてるよ!」
「じゃあそれ普段使うのか?」
「うっ……」
あ、ヤバい。コイツ涙目になってきた。ガキかお前は。
そんな俺たちに気付いた先生が、甘ったるいままだがちょっと怒ったような声で、俺に問いかけた。
「はい、じゃあ……そこでおしゃべりしてる大和くん? この問題解いてみようか」
「ええっ! しゃべってたの俺だけじゃないですよ!?」
ふと横を見ると、さっきまで涙目だった友だちは完全に俺から目を離している。
いや、目を反らしているな。ちくしょう裏切り者め。
仕方ないので席を立つと、こちらに向かってくる視線が。
痛いくらいに視線が刺さってくるので、ふと後ろを振り返ると……俺の列の一番後ろに母さんが立っていた。
無言の微笑みと視線が怖い。纏っているオーラが怖い。
あれぇ? 家にいるんじゃなかったの?
もちろん先生の話を聞いていなかった俺が問題を解けるはずもなく、先生が「じゃあ他に解けるひとー」と呼びかけるまで、二分ぐらい黒板の前で立ち尽くしたままだった。
ものすごく恥ずかしくてじわりと涙が出た。
家に帰ると、母さんはもう怒ってなくて普段通りだった。
「た、ただいまー……」
「おかえりなさい」
けど、晩ご飯を食べた後、その日おやつが出なかったことにやっと気付いたのだった。
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「おかーさん」
「なあに大和?」
ひざまくらをしてもらいながら、小さい(たぶん筑祢ちゃんよりも小さい)俺が母さんを呼ぶ。
「おかーさんはまほーつかいなんだよね?」
「フフッ、そうよ。お母さんは魔法使いなんです」
母さんは常にニコニコ笑っている人だった。
いや、ずっと笑いっぱなしってわけじゃないんだけど、何故か母さんを思い浮かべるときはいつも笑顔の母さんが出てくる。
それと、母さんは自分のことを魔法使いだとよく言う。
けれど魔法らしい魔法を使ったところは一度だって見ていない。
確かに実年齢より外見も中身も若いけど、別にそういう人はテレビにもたくさん出てるし、珍しくもなんともない。
今は肩ぐらいの長さだが、この頃は長い髪のよく似合う、綺麗な人だった。
「じゃあね、じゃあね、まほーでおかしのいえつくってー」
「あらあら、ヘンゼルとグレーテルね」
「うん。そうー」
「でもそれだと魔法使いさん、お鍋に入れられてアッチッチよね? イタイイタイよね? お母さんやだなぁ」
「うー……じゃあね、じゃあね」
「なあに?」
「まほーつかいさんをみんなおかーさんみたいないいひとにしちゃえばいい!」
ニコッ、と天真爛漫な笑顔を浮かべ、母さんを見上げる小さい俺。
「フフフ、大和は面白い子ね。でもね、世の中はお母さんみたいないい魔法使いさんだけじゃなくて、悪い魔法使いさんもたっくさんいるのよ?」
「うー、うー……」
「さあ、どうするの?」
母さんは楽しそうに、いじわるにこう聞いてきた。
「じゃあね、じゃあね……ぼくがわるいまほーつかいさんをやっつけるの! たっくさんやっつける! んでね、いいまほーつかいさんにするの!」
「えらいえらい。大和はいい子ね。いい子にはお母さんが魔法でお菓子の家を作ってあげましょう」
「やったー! おかーさんだいすき!」
「フフ、ありがとう。お母さんも大和が大好きよ」
その日の晩、お風呂から出てくる頃には、家族全員の分お菓子の家のケーキが用意されていた。
お菓子の家は俺一人で一個は食べきれなくて、残してしまったのをよく覚えている。
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「大和、大和。起きなさい」
「……母さん?」
うっすらと目を開ける。
家の天井じゃない、寮の部屋の天井が見えた。
そう、あれは夢だ。
夢の中の回想、母さんとの思い出とも言えぬ記憶、日常。
それにしても、なんで母さんの夢ばっかりだったんだろう。
確かに俺はお母さんっ子だけど。
「大和くん、大和くん。起きなさい。遅刻しちゃいますよ。あと母さんじゃなくてアリスですよ」
「……アリス?」
上半身を起こして辺りを見回すと、部屋の扉のところにアリスが立っていた。
「おはよう、大和くん」
「おはよう、アリス」
互いに朝の挨拶。
挨拶は基本中の基本である。
「そろそろ朝食の時間だよ。一緒に食堂行こう?」
「あ、ちょ、ちょっと待って。まだ俺着替えてないし……」
「別に大丈夫だよ。結構パジャマのまんま食べる人多いし。早くしないと遅刻しちゃうよ?」
「うっ……じゃあ、せめて顔洗ってから……」
顔を洗いに洗面台へ向かう。
目覚まし代わりにバシャバシャと音をたて、豪快に水を浴びる。
よし、少しはシャキッとしたかな。
鏡の中に映る自分の姿を見つめる。
ちょっと髪が跳ねてるな。
……母さん。俺はこっちでも元気です、なんとか。
いつか必ずそっちに帰るので、それまで待ってて下さい……なーんてね。
「大和くーんまだー? あと五分ー」
「のわっ! すぐ行く!」
――いつか、必ず。
大和の回想シーン。夢の中ですけどね(笑)
これ書いてると大和がマザコンに見える……仲の良い親子なだけなんですが。
確かに、親が煩わしく感じる十代にしては珍しいでしょうけどね。
ちょっとでも日常の片鱗が書けてたらいいなぁと思います。
さて、次回は久々にあの人の登場です。
でもあえてコメディちっくに書くつもりなんで、ひょっとしたらキャラ崩壊するかも……(汗)