第十九話 ミッション・インポッシブル。
息が苦しい。
喉が渇いた。
心臓は今もばくばく弾んでいる。
「はぁ、はぁ……」
さっきから周りの景色が変わらない。
どれだけ走っているのかが全く分からない。
気付けば肺が酸素を求めているのがよく分かるくらい、それほどまでに息切れが激しくなっていた。
俺の体力も限界に差し掛かり、思わず膝に手を置き、ぜぇぜぇと荒い呼吸を必死に繰り返す。
額からは一筋の滴がつぅ、と垂れてきては、それを腕で拭う。
「くそ……引きこもりのくせに体力だけはある……」
これだけ走らされたら、悪態の一つも付きたくなる。
「はぁ、はぁ……怯助さーん! いい加減逃げないで大人しく捕まってくださいよー!」
ぐんぐん距離が離れていく中でも俺の精一杯の怒声は彼に届いたらしく、遠くから「おぉ、お断りしとくよぉお!」という情けない叫びが、迷路の中に木霊した。
「大和くん大丈夫? 少し休む?」
「そうさせてもらえると助かる……けど、そういうわけにも、いかないだろ……」
俺の後を追走していたアリスが、追いついたところで立ち止まり、優しい言葉をかけてくれた。
「大和くんは休んでていいよ。あとは他のみんなでなんとかするから」
「アリスだって走らされて疲れてるだろ? こんな罠だらけの迷路の中をさ」
「ううん。そうでもないよ? なんだかんだでアリスは、まだ一回も引っかかってないからねッ♪」
そう、怯助さんを追いかけて迷路内を走り回っている間、ものの見事に俺ばっかりが罠に引っかかり、そのたびにアリスに助けられていたのだ。
「そこには触れないでくれ……」
がくっとうなだれる。
そういや前も震子さんに助けられてばかりだったしなぁ。
……俺、情けない。
「とにかく待っててね。早く怯助さんを捕まえ――」
アリスがそう言いかけたその時、別の場所から耳をつんざく爆音と轟音が。
雷華と風太だな。
「ふはははは! とうとう追い詰めたぞ! 大悪党極悪ヘタレ! さぁさぁ観念して雷華様に跪けばいい!」
「ひいぃぃっ!」
姿はここからじゃ見えないが、雷華の無駄に偉そうな声だけはハッキリと伝わってくる。
でも、極悪ヘタレってなんか変な感じ。
即座に風太の声が聞こえてきた。
「雷華ァ、大悪党か極悪のどっちかで十分だと思うぜェ?」
「別にいいだろっ。その方が悪っぽいじゃんか!」
「そーだなァ我が妹よ。きっとどっかの誰かが今頃、お前のことをバカ可愛いと思ってるよ。あ、バカで可愛いって意味だけど」
「バカにしてんのかあああ!?」
バチバチバチと、おそらく雷華の身体が不穏な音と閃光を纏っているだろうな……と俺は呑気に考えていた。
が、ハッと、今はそれどころじゃないことを思い出し叫んだ。
「バカなのはお前ら二人だ! さっさと怯助さん捕まえろ! 逃げられるぞ!」
「もう遅いけどな」
「――なっ、いつの間に!? 早く言えよ風にぃ!」
風太の言う通り、どうやら本当に逃げられたらしい。
別の方向から「ひいいいぃぃ!」と悲鳴をあげながら、全力疾走しているであろう怯助さんの声が。
時すでに遅し。
「畜生。あんのヘタレめぇ……」
「まぁまぁ落ち着け妹よ。次また頑張ればいいじゃないか。ほら行くぞー」
兄になだめられ、再度バタバタと靴音を立てながら二人は怯助さんを追いかけたようだ。
……今のはワザとだ。絶対ワザとだ。
妹をからかいたくてワザと逃がしたな風太のヤツ。
「何やってんだあいつら……」
「ま、まぁ、いいんじゃないかな? まだ二人とも子供だし、きっと楽しんでるんだよッ」
いやいや一人確信犯いましたよ。
スッゴい白々しいヤツいましたよ。
ガキのようでまったくガキっぽくないヤツいますよ?
しかしこのままじゃ、この追いかけっこもサバイバル戦突入になるぞ。
サバイバルとなったら、地の利がある怯助さんの方が圧倒的有利。
その前になんとかして捕まえないと。
「うーん。いくら怯助さんでも、これだけ走らされたらさすがに疲れちゃうよ、ね。そこを攻め入れば――」
「駄目だ。あの人、逃げることに関してはプロだから」
アリスの言葉を遮って俺は言った。
にしても攻め入るって……時代劇とか見てたのかな。
「じゃあどうしよっかぁ。何かいい策はあるの?」
「こうなったらやむを得ない。最終手段を使うしかないだろ」
「え……で、でも、それは……」
言わんとすることは解っている。
本来、この騒動は一部の人に極秘で治めるつもりであった。
何故ならアリス達によると、どうやら俺達にも害が及ぶであろうから。
それを自らぶち壊しにしてしまうのだから最終手段なのだ。
それにあの人、ここ数日具合が悪かったみたいだし……個人的には、また結局頼りっぱなしってのもなぁ……まぁ、仕方ないか。
「あと四十五分で晩ご飯の時間になっちまう。急ぐぞ!」
とにかく、わずかに回復した体力を振り絞り、俺達は大急ぎで来た道を戻って行った。
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走り続けること十分、俺達はようやく目的の場所である部屋に辿り着いた。
扉の前に立ち、深呼吸した後、コンコン、と扉を二回ノックする。
……返事はない。
「いないのか?」
「ううん、違う。よーく耳をすましてみて」
言われた通りに耳をすませると、サーッという音と何やら水音が。
つまり、シャワー中?
そっか、病み上がりだから、久々のシャワーでも楽しんでるんかな。
「あー……どうする? てかどうすればいい?」
「ここはアリスに任せて。大和くんは……」
ハイラナイデネ、と彼女のその紅い瞳が鋭く語っていた。
全身の汗が瞬時に冷えたような感覚に襲われ、ブルッと震える俺。
「すぐ戻ってくるから、ちょっと待っててねッ♪」
たぶん遅くなるだろうなぁ。
と思った後コンマ二秒、突然「あーッ!」と叫び声。アリスだ。
「アリス! どうかしたのか?」
バンッと勢い良く扉を開け、部屋に入る。
そこには……両腕をアリスに掴まれ、押し倒されている怯助さんの姿が。
「なっ、し、失礼しまし」
「「ちちち違うからね大和くん!?」」
珍しい組み合わせの二人が見事にハモる。
いや、違うって解ってはいるけど、やはり気まずい。
直後、シャワーの音が止まり、ひんやりとした空気と共にこの部屋の主が姿を現した――
「……怯助くん? いるなら声ぐらい……かけ……」
部屋の主である震子さんは、まず寝っ転がった怯助さんを見、彼を押し倒しているアリスと目が合う。
それから入り口に突っ立っていた俺に視線を向けて、最後に、現在の自分の格好に気付く。
「………………」
全員視線を彼女に向けたまま、硬直。
ほんのり火照った白い肌。
いつもの無表情が崩れ、さらに頬の辺りが赤くなる。
ホカは、ナニも、見てマセンヨ。
あぁ……お約束ですよね。
「きゃあああぁぁああぁあああっ!!」
病み上がり、お風呂上がりにも関わらず、気温の低下具合は絶好調でした。
発生源の彼女は無自覚だけど。
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二秒でいつものセーターに着替え終えた震子さんの前に、正座で横一列に並ぶ俺達。
身体も歯もガチガチ震えている。
「寒い寒い寒い……」
「……寒い? そんなはずないわよ……夏も近いんだから……まぁ、そのせいで私は、早くも夏バテを味わっていたのだけど……ね」
すっかり元の調子に戻った震子さんは、さらっと正論を言う。
自分から冷気が出ていると気付いてないから、とはいえちょっと態度冷たい。
……あ、さっきのこと、もしかして引きずってる?
「それで、三人共、なんで私の部屋に……?」
「あー……いや、それはですね……」
気まずい空気が流れる。
やばい、口を開いてしまったのがマズかった。
アリスも喋る気はないみたいだし。
そんな中、
「ごご、ごごごっごめんっ!」
怯助さんの謝罪。
突然のことに、震子さんは(表情は変わっていないが)驚いているようだった。
「……どうしたのみんなして。怯助くんも顔を上げて……」
そう言われ、おずおずと顔を上げると、ガシッという音とヒィ、という怯助さんの悲鳴。
震子さんが彼の胸倉を掴み、
「……吐きなさい」
場の空気を凍らせるように、冷たく一言そう告げた。
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俺と同じことを考え、タイミング悪く震子さんを訪ねてしまった某兄妹も含め、俺達五人は震子さんの前に正座させられていた。
代表、というか元凶として怯助さんが説明する。
「じ、実は、この前久々に買い物に行ったとき、しし震子ちゃんにというかみんなに、ななな内緒、ななななな内緒でアイス、アイス買ったんですよ! アイスアイス! けっ結構たくさん、いやひと夏分ぐらいカナリ多めに! そっ、そう自分用に!」
今更だがその金はどこから来てるんだろう。
と、心の中で思う俺である。
「ふぅん…………で?」
「けけけっどけど、みみみんなに見つかってたみたいでして、しょしょしょ食堂の冷蔵庫からどんどんどんどん、あああアイスが無くなるもんだから、気がつッ、ついたら暗黙の了解で、はは早い者勝ちのそそそ争奪戦みたいになってたんですよ!」
その通り。
真夏日を間近に控えるこの時期、アイスというものはまさに、主婦の戦場スーパーマーケットにおけるタイムサービス並みの速度で消費される。
誰かが食べてるのを見ると、ついつい自分も手を出さずにはいられない。
やめられないとまらない。
恐るべしiceマジック。
「へぇ……だから、何……?」
珍しく棘のある口調でその先を促す無表情のその顔が、心なしかだんだん、だんだん絶対零度の微笑みを浮かべているような錯覚が見える。
……錯覚だと信じたい。
「ででであっという間に残りわずかになってたもんだから、だからつい最後の六個ぐらい、独り占めしようとしたら捕まってしまいまして、しょうがないからみみみみんなに一個ずつ分けたんです。けど、最後の一個を隠して後日食べたら、食べ終わるところを兄妹に見られてしまいまして……現在の追いかけっこに至るわけデス、スイマセンデシタタタタ」
もう怯助さんの顔面は、真っ青通り越して真っ白だ。
最後の辺りなんてロボットみたいな発音だったぞ。
「なるほど……私が寝込んで部屋に篭もってる間に、そんなことが…………ね、みんな?」
そこいらのチンピラも失禁確実の極悪な微笑を向ける震子さん。
モチロン、無料で。
「…………だぁれも、私の分を残そうだなんて、考えなかったワケ……?」
…………修羅だ。
背後に修羅がいらっしゃる。
……絶対般若の面被ってるってゼッタイ。
「ねぇ……私、実はアイス、大大大好物なのよ……怯助くんは、知ってるハズなんだけど……知らなかったとしても、普通は私の分も、残しておいてくれるわよね……ねぇ、そうよねみんな?」
全員が泣き出しそうな空気の中、追い討ちをかけるかの如く、底冷えするような声色で彼女は呟いた。
「……返事は?」
「スイマセンでしたッ!!(五人分)」
全員一斉に土下座。
「あぁ、顔はまだ上げなくていいわ……で、私の言いたいことはもう、解ったわよね……」
「な、なんでございましょうか」
「な、何なりとお申し付け下さいませ」
始めの「な」をハモらせて、兄妹がぎこちなく尋ねる。
そうね……と少しだけ間を空け、俺達全員に目配せした後、無自覚雪女様はこうおっしゃった。
「……頭文字が“ハ”で終わりが“ツ”の物を五十個、一つも溶かさず買ってきなさい……今すぐ」
「サーイェッサー!!(五人分)」
本日の気温二十八度。ミッションインポッシブル。
それから大急ぎで街に向かい、道中汗だくになりながら店をハシゴして、なんとか五十個買うことが出来た俺達だった。
しかし、買ったその日の内にペロリと十個平らげた震子さんは、なんと三日で五十個全部食べてしまったとさ。
……本当に好きだったんだな。さすがice。
最後に残ったのは、氷山の如きドライアイスの山だけとなり、もちろん、今度は俺達が夏バテして三日間寝込んだことは言うまでもない。
唯一救いがあったとすれば、筑祢ちゃんからのお咎めが今日は無かったぐらい。
晩ご飯の時間までに帰れなかったのに、だ。
なんだかんだ言って病人には甘いらしい。急遽俺達の分だけ晩ご飯のメニューを白粥にしてくれた。
まぁ、自分もアイス争奪戦にこっそり参加してたからってのが主な理由らしいが。
ほんのちょっぴり味付けされた白粥の優しい味をゆっくり味わい、そのまま深い眠りへと落ちていくのであった……。
久々のギャグオンリーです。毎度恒例ながらぐだぐだではありますが……。
今回はやや出番の少なめな怯助&震子ペアに焦点を置いてみました。
震子さんはあえてキャラを崩していくのがとても楽しい人です(笑)
きっときょーちゃんは日々、尻に敷かれまくっていることでしょう。
更新が完全に超スローペースとなっていますが連載停止はなんとか免れています。
これからも長い目でお付き合いしていただけると有難いです……(謝罪)