無限回想
いざ麗しの、まどろみのなかへ飛び込もう。
そこに苦しみなど、あるはずがない。なぜならそこは、理想で充ちているから。多少の不条理も、理想に魅せられた者にとっては、ちょっときつめの香辛料でしかないのだ。すべては、自らの望んだものの一部。それに臨み、受け入れる覚悟はできている。
あるいは、すべてを放棄することで理想を達成する者もいる。私は、どちらかといえばこちら側の理想を求める人間である。私は、夢を追いかけ理想を求めている。そして私の友であるS氏は、積極的に行動して夢を追いかけている。彼には、それに伴う苦労や葛藤も、すべてプラスのエネルギーに変換されて、脳に送り込まれているらしい。先日彼と話したときには、夢を追いかけている上での苦労話を、たいへんオーバーな抑揚をつけて、非常にいきいきと語ってもらえた。とんだ変わり者である。
そういえば、もともとS氏と私は同じ夢を追いかけていた。
私たちは、小説で飯を食っていくことを共に夢見ていた。
今よりもずっと幼かった日々には、私たちは本気でこんなことを話し合っていた。どちらかの著書が発売された暁には、もう片方がコメントを寄稿しよう。できたら解説文も書こう。あとがきに片割れをゲストとして呼んで、対談形式にすることはできるんだろうか。それが可能なら、お前のことをけちょんけちょんに褒めちぎってやる。
そして、そこから遠くない将来、大物作家になったふたりは、それぞれ親友のことを書いた自伝的な本を出版するんだ。結婚相手が決まったら、まず第一にお前に報告しよう。そして相手の両親を説得する手伝いをしてもらうよ。そんな馬鹿げた話を大真面目にしながら、私たち、主に私は執筆に没頭した。後味の悪い話や、流行のさわやか系を狙ってみた話、後味の非常に悪い話、ダークファンタジーと言えなくもない不気味な話、さらにはこの上なく後味の悪い話など、いろいろな物語を紡いでいった。あるときはS氏と共作にも励んでみた。ただし、お互いの方向性が違いすぎてあっという間に破綻した。
果たして、私とS氏には、いったいどこで差がついたのだろうか?
S氏は、スローペースながら執筆を続け、今日も今日とて希望に燃えている。一方で私は、すっかり何かを使い果たしてしまった感じだ。S氏の才能の芽はなかなか出ない。正直、私の方がうまい文を作れると思う。しかし、私にはもう書けないのだ。彼のような、きらきら輝く瞳では。
そこで私は、理想をネガティブな方向に求めた。
私の理想、イコール、悩まなくてもいい状況。
そうだ、何も、しなければ、いい。何もしなければ、私は悩まなくても済む。虚ろな瞳で、心にぽっかり空いた大穴を隠しながら、私はS氏の夢語りに応じてやればいいのだ。ただし、決して彼の話を馬鹿にしてはならない。彼は本気で夢に向かい、なおかつ私を最良の理解者として認識している。私たちは方向こそ違えたが、何も関係を壊す必要はないのだ。
しかし、穴を隠しているのは案外つらい。S氏の話を聞いていると、まるでまだ固まらない傷口に、石鹸をきつく塗り込まれているような気分になった。しかし彼はそれに気付かないのか、毎度変わらない、きらきらとした宝石のような瞳で私を見続けた。しかし、S氏は悪くない。悪いのは、あくまで私なのだ。夢を追わなくなった私に非があるのは、自明である。そこで私は、決して誰も―もちろん自分も含めて―触れられない夢の中に、自らの理想を求めはじめた。
ある日、私は異常に深い眠りの中で、素晴らしいひとに出会った。そのひとは美しく、甘くやさしい声で私に囁いた。私は夢の中で何回も何回もそのひとに会ったが、いつもそのひとはそこそこ立派な桜の木の下に佇んでいた。桜の木は、どこかで見たことのあるような、よくあるそれには違いなかった。例えば、小学校の校庭の端にあるような、そこそこ大きい木。そんな感じだ。ただし木は、どこか窮屈そうなたたずまいをしていた。そこで私は、そのひとのそばにある桜の木を見上げながら考えた。ところがしばらく木を見ていたところで、ふいに桜が散り始めたのだ。風は吹いていない。しかし桜は、どんどん慎ましやかなその花を散らしていく。
一体どうしたのだろうと、私はひどくうろたえた。そのときの私はもはや、そこが自分の夢の中であることを忘れていたのだと思う。何が何だかわからないほどに悲しくなって、考えるより前に走りだしていた。私は泣きべそをかいたひどい顔で、必死で桜の太い幹にすがりついた。しかし桜は、散ることを止めてくれなかった。私が大声をあげて泣き叫び、願い請うている間に、桜はすっかり散ってしまっていた。私は唇を噛みしめ、涙も拭わないままで、幹と枝のみになってしまった桜の木を見上げた。いつの間にか、木の下にいたはずのあのひともいなくなっていた。
そして私は、桜から感じていた違和感、窮屈さの正体に気づくことになる。桜の木は、のびのびと横に広がっていたはずの枝を落とされていたのだ。
桜の木は、ただ上にだけ向かって伸びていた。いいや、上に伸びることしか許されていなかったのだ。桜が美しかったころは、花々が必死に木を大きく見せようともがいていたらしい。そこそこ立派に見えたのは、小さな花びらたちが、大きすぎる傷口と、失った手足を、存在のすべてをかけて隠し通していたからに違いなかった。
しかし、一体どうなっているのだろう、この木は。桜の花は、枝から生まれるはずなのに。枝々を失ったこの木が、どうやってこんなにもたくさんの花を咲かせていたのだろうか?私は、涙でかすんだ視界の中で、みじめな姿の木を見上げた。しかし、涙のせいなのかよく見えない。私はそこでようやく涙を拭ったが、それでも視界は晴れなかった。
その日の夢は、そこで終わった。紐ををぶつりと切られた根付のように、唐突に先の方が無くなってしまったのだった。さて、話をS氏とのことに戻そうと思う。相変わらずS氏は、特徴的なきらきらした瞳で私に夢を語り続けた。ある日のS氏は、いつにも増してえらく上機嫌だった。どうかしたのか、何かおかしなものにでも食らい付いたのかと尋ねたところ、彼は私に大きな茶封筒に入った紙の束を私に差しだした。それは大量の原稿用紙であり、まぎれもないS氏の新作であった。
私はまたいつものごとく、渡されるがままにぱらぱらとそれを読んだ。自分でも、えらく冷たい眼で紙の上に踊る下手な手書き文字をみつめているのが判る。ぱらぱら、ぱらぱらと。相変わらずS氏は、文章が下手だ。何と言うか、言い回しがくどくて長ったらしい。誤字も、昔から変わらずに多い。しかも、今日のはとりわけひどかった。本来は「慣れる」と書くべきところを、「並れる」と書いてあるのだ。国語が苦手な小学生か、お前は。これではせっかく良いところを探そうと思っても、実行前に気を削がれてしまう。こんなことは今に始まったことではないから(さすがに程度がひどいけれども)私はどうにか誤字を受け流し、黙々と紙をめくり続けた。
S氏の新作は、孤独な身の上の少年が、ひょんなきっかけから自分のルーツを捜しに行くという内容だった。しばしば寂しげな少年の様子を覗かせながらも、物語は一貫して優しいにおいに包まれて展開していった。しかし、S氏の新作には、最終章がどこにもなかった。S氏いわく、どうにも上手く書けなかったから保留にしているのだとか。私に未完成の物語を読ませた上で、何か指針を得たかったのだと、S氏は笑顔で言った。
私は思わず面喰ってしまった。何せ、こんなことは初めてだったからだ。いつもS氏は、きらきらとした瞳と、溢れんばかりのアイディアだけで小説を書きあげていた―そのせいでひどく荒っぽい仕上がりでもあったのだが。私は、S氏が遅筆なのは、文章を書くこと自体が苦手だからであって、アイディアに詰まっているわけではないことをよく知っていた。一方で私は、とてもアイディアに詰まりやすい人間だった。だから私は、S氏のことをとても羨ましく思っていた。そんなS氏が、自分と同じ悩みなど抱えそうになかった彼が――何だかとても近くに来たような気がして、私はとても嬉しくなった。そして私は、久しく忘れていた瞳を輝かせる方法を思い出して、S氏にあれこれと感想を述べたり、偉そうにアドバイスをしてやったりした。ちなみに例の誤字のことは、やんわりと伝えてあげることにした。
ところでS氏は、女性のキャラクターを動かすことが苦手だった。彼の書く女性は、妙にふわふわしてしまっているというか、現実的ではないのだ。そのことについてS氏は、自分は女性と接する機会が少ないから、自分が生み出した彼女たちのこともよく解っていないのだと言っていた。
私は、S氏が手元に降りて来た喜びから、うきうきした気分で家に帰った。そしてベッドに入ってから、もはやS氏と同じ夢を追わなくなった自分が、実は彼と悩みを共有できていないことに気が付いた。気が付いて、絶句した。そうだ、S氏と同じ意味での文章を書かなくなった私には、もはやアイディア不足で悩む余地などなかったのだ。
そうだ、すっかり忘れていたが、そういえば私は逃げ出したんだった。一体、何を浮かれていたのだろう。
その晩私は、また桜の木の夢を見た。その美しいひとも変わらずそこにいた。枝のない桜の木は、相変わらず裸のままだった。しかしよく見ると、ほんのわずかだが、花びらが木に残っている。私はその美しいひとを尻目に、桜の木に近づいて行った。私はそのひとと会話を持ったことどころか、きちんと目を合わせたことさえなかった。そのひとがあまりにも魅力的だから、恥ずかしくて見ていられなかったのかもしれない。あるいはそのひとが誰かに似ていたから、なんとなく避けてしまっていたのかもしれない。
桜の木には枝がなかった。花を生み出すつぼみも、つぼみの跡さえもなかった。わずかに残った花びらは、木に直接張り付いていたのだった。そんなわずかな花びらも、私が木を見つめているうちに剥がれ落ちてしまった。もう、限界だ。君には付き合っていられない――花びらが、散り際にそんなことを喋ったような気がした。今度こそ木は丸裸になってしまい、そこには幹だけの桜と、地面に降り積もった大量の花びらだけが残った。私は、花びらの苦労を思ってそっと涙をこぼした。寄り添うべきつぼみさえ持たなかった花びらが、この哀れな木を満開の桜のように見せていただなんて。なんて悲しい努力だったのだろう。――そういえば、いつの間にか美しいひとはいなくなっていた。もしかしたら、この木の哀れな姿に絶望して、どこかに去っていってしまったのかもしれない。
それからしばらくして、私はまたS氏に呼び出された。彼は再び私に分厚い紙の束を手渡すと、自信ありげな顔でこちらを見た。それは、私の至極どうでもいいアドバイスを反映させた、修正版の新作だった。私はまた、無表情で原稿を読み始めた。
修正版では、あのひどすぎる誤字も直っていた。字も多少丁寧になっていたし、私のアドバイスもそこそこ取り入れられていた。ヒロインと少年の、不自然すぎるほどの歯がゆい会話も多少まともになっていた。しかし、最終章はまだなかった。不思議に思った私がS氏に問いかけると、S氏は逆に私を問い詰めた。そのときの彼の表情は、怒っているというよりは心配している種類のそれだった。
そう、とうとうS氏に私の秘密がばれてしまったのだ。S氏は言った。お前は最近無理をしているんじゃないか。本当は、俺の話に飽き飽きしているんじゃないのか、と。
私の視界が闇に覆われた。目の前は真っ暗で、何も見えない。今が昼なのか夜なのかさえ、にわかに判然としなくなってしまった。ただ、私をやさしく問い詰めるS氏の声だけが世界に響いた。この状態がどれくらい続いたのだろう。一瞬だった気もするし、ひどく長かったような気持ちもした。ただ明確なことは、私を闇に突き落とすのがS氏ならば、その闇を晴らすのもまた彼だということである。
S氏は私の肩を掴んだ。私はその力の強さに、ついびくりと肩をすくめてしまった。そしておそるおそるS氏の方を伺うと、なんとS氏はぼろぼろと泣いていた。私はわけが判らなくて、今度は頭が真っ白になった。やはり、今が昼なのか夜なのか判らなくなってしまった。そして、何もかも――見たいような見たくないようなS氏の顔も見えなくなった。私も、S氏につられてか、いつの間にやらぽろぽろと泣いてしまっていた。
私はすっかり何が何だか判らなくなって、その場から逃げだした。逃げ出して、夕方の道を走っては自宅に飛び込み、勢いよく自分のベッドにもぐりこんだ。そしてしばらくそのまま、怯えきった仔犬のように、ひざを抱えて丸くなっていた。果たして、どれくらい泣き過ごしたのだろうか。ほんの少しだけ冷静になった私は、自分が知らず知らずのうちに彼の原稿を持ってきてしまっていたことに気が付いた。私は、考えるより前にその手書き原稿に手を伸ばしていた。あれほど読んでいることがつらくて、それをごまかすために必死で無表情を装っていたにもかかわらず――今はそれを、この上なく読みたいと感じていた。
その物語は愛しくすらあった。温かい、とはこういうことを言うのだろか。主人公の少年は、S氏そのものであるように思えた。もちろんS氏にはちゃんとした家族がいるし、作中そのままに彼がある日いきなり旅に出るなんてこともありえないだろう、多分。そもそもこれはファンタジー作品だ。S氏に異能力は使えない。周りにもそんな人間はいない。だが少年からは、うまく表せないがS氏のにおいがした。そのほかの登場人物からも、彼の知り合いの雰囲気が伝わってきた。そしてそれらの人物からも、ほのかではあるがあまねくS氏のにおいがした。彼の考え方や言動、良いところも悪いところもすべてが、物語を読み進めるたびに私の中に蘇っては花を咲かせた。校正という名のもとに、ある種のあら探しのために読んでいたときはあんなにつらかったのに――――今はそれが楽しくて楽しくて、仕方なかった。
思えば、S氏の物語をおもしろく感じたのは、夢を諦めて以来初めてのことかもしれない。あたかもむさぼるように、夢中になってそれを読み終えた私は、再び涙を流していた。しかしそれは、先刻のような苦い涙ではなかった。ただこの物語を、そしてこの温かい物語を書いたS氏を思ってのものである。自分でも、こんな涙が流せるなんて思ってもみなかった。私はすっかり満足した気持ちで、込めた思いはどうあれ顔をぐちゃぐちゃにしていった涙を拭った。――そうだ、風呂にでも入ってこよう。そして今日は、もう眠ることにするのだ。
また、桜の夢におぼれるのも悪くないのかもしれない。
その晩私は、自らが望んだ通りに桜の夢に臨んだ。それはいつもの夢には違いなかったが、今回はいくらか様子が違っているようだった。以前すっかり裸になった、枝を無くした桜の木はそのままだったが、いつも木の下に立っているひとの様子を、私は目を逸らすことなくはっきりとうかがい知ることができた。
そのひとは、男だった。いや、男だったというよりは少年だったという方が適切かもしれない。まだあどけなさの残る顔にはまっている宝石のような若草色の瞳。その背には一本の大きな太刀を背負い、凛とした横顔で木を見つめている。その凛々しい姿勢はどこか寂しさやぎこちなさを私に覚えさせた。何か称号のようなものを彼に与えるとするならば、きっとそれは「生まれたてのヒーロー」だ。どうにも馴染みきっていない太刀に旅姿。そして痛々しく皮のむけた手のひらは、きっと慣れない旅の中で振るった愛刀が彼に刻んだ印に違いない。私が半ばうっとりしながら彼を見ていると、ふいに彼は桜から目を離し、身体ごとこちらを向いた。その瞬間、花も咲いていないのに、ふわりとやさしい、桜のにおいが辺りに漂った。
少し離れたところから少年の、若草色の瞳がこちらを見ている。だがその視線はにらみつけているようなそれではなく、どこまでも限りないやさしさで満ちていた。少年は、しばらく私のことを見つめた後にひとこと、ぽそりとつぶやいた。
「やっと会えた」
私にはその意味が理解できなかった。けれども私が理解するよりも早く、少年は桜の木の下で両腕を大きく広げた。――ばっと、まるで大きな大きな花が咲くように。するとその瞬間、どこからともなく大量の桜の花びらが舞い踊って、目の前が見えないくらいの桜吹雪となって地面を埋めていった。驚いた私は思わず目をつぶり、手で顔を覆い隠してしまった。しばらく続いた異常な桜吹雪は、あるとき急に、はたと止んでしまった。混乱したままの私が、手を顔の前に置いたままおそるおそる目を開け、指のすきまから木の方をのぞき見ると、もうあの少年はどこにもいなかった。
足元は辺り一面淡い桜色にうずもれて、ほのかな桜のにおいがどこからともなく立ち込めている。私はいなくなってしまった少年を求めて、彼が元いた桜の木の下へと駆け寄っていった。すでに誰かがいたような形跡はどこにもなく、足元の花びらを除けて(どけて)みても、どこまでも遠くを見渡してみても、木の上の方を見つめても――彼の証を見つけることは、とうとう叶わなかった。しかし私は、彼を捜す中であることに気が付いたのである。彼が登ってはいないかと見上げた桜の木。枝を失った哀れな木に、短いながらも、先程まではなかったはずの枝が生えてきていたのである。そして、その枝には、小さな小さなつぼみが、いくつも宿っていた。
私は直感した。少年がこの哀れな木に、命を宿してくれたのだと。もうかりそめの花で自らを偽る必要がないようにと。私は思わず、胸の前で両手を組んで少年に感謝した。しかしはた、と我に返って思う。果たして、あの少年は誰だったのだろう?
一抹の疑問を胸に残したまま、私の夢は終わった。目を覚ました私は、自分が随分と早起きをしてしまったことに気が付いた。まだ、日も昇りきらない早朝である。寝ぼけた頭で、ぼうっとしながら部屋を見渡していると、ふと自分の机に目が止まった。そう言えば、彼の原稿を広げっぱなしにしたままである。もぞもぞと暖かいベッドから這い出して、私は原稿の整理に取り掛かることにした。原稿を寄せ集めながら、私は何となしに、そこに書かれた文字の群れを眺めていた。昨晩から何か内容が変わっていたわけではないし、一度読んでしまったからには新鮮さも薄れていた。しかし私は、文字を追うことを止めなかった。何故ならそこに、「在った」気がしたから。
原稿の取りまとめを終え、元の封筒にすっと収める。私は大きく伸びをしてから、椅子に座って天井を見つめた。白くておもしろみもないそれを見上げながら、私は今日の予定を組みたてようと試みる。
よし、まずは持ってきてしまった原稿を返しに行くことにしよう。S氏は怒っているのかもしれないが、多少は怒られても仕方あるまい。とにかく、謝らなくてはならない。原稿を持って行ってしまったことに加えて、嘘をついていたことを。S氏は許してくれないかもしれないが、何もしないよりはきっとましであろう。
そして何より、私は彼に伝えたいのだ。彼の紡いだ物語の、本当の感想を。決して上手ではないが、温かくて、どこまでも限りないやさしさで満ちた物語。どこかS氏自身に似た、生まれたてのヒーローの不器用な冒険がくれた、この思いを。
さて、朝日が昇りきったころに、S氏に届けてあげるとしよう。私の桜は、どうやら元気を取り戻したようである。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この小説(と呼ばれるべきか疑問ですが)は、ふと「夢って何だろう」と思い付いた秋の日から、寒い寒い真冬の日にかけて、ひとり震えながら書いたものです。残念ながら未だに「夢」とは何なのかは判っていませんが、みなさんの心に何か残るものがあったのなら、幸いです。