裁判。それぞれの気持ち。
女は自分の席につき、大きく深呼吸をした。
それでも、緊張が解けることは無い。
今日開かれる裁判は、彼女にとって、初の裁判となると同時に、自分の行く末に大きく関る事件だからだ。
女は裁判長だった。
裁判長はもう一度だけ、深い深呼吸をして机を二回叩き、自分の声を搾り出すように言った。
「これより、開廷します」
確認する必要も無いとわかりつつ、落ち着かない視線が、裁判長に周囲の状況を知らせた。
若い検察官の男、若い弁護士の女、そして裁判長。
被告人不在の三人だけの裁判である。
それは、世間から見たら小さな事件である事を示しているのかもしれない。
それでも裁判長は、辛うじて制御できる感情に支配されていた。
不安だった。
裁判長は涙がこぼれないように注意しながら、検察官の方を向き、言った。
「それでは、審理を開始しようと思います。検察官、起訴状を読み上げてください」
不安そうな裁判長とは違い、検察官は笑顔を隠す事ができない様子だ。
やっぱり嬉しそうに立ち上がり、検察官は起訴状を読み上げる。
「被告は『斉藤 守』、五十二歳。彼は平成二十三年三月二十五日に家を出ます。つまりは、昨日ですね」
検察官は嬉しさのあまり、一度、噴出してしまった。
それを周囲に悟られないように、咳払いを一回してから続きを読み上げる。
「被告人は『一泊二日の沖縄出張』と家族に言い、朝早く、午前五時半に家を出ました。しかし、同日十九時に地元の駅で目撃されています。と言うか、私がデジカメにて写真に撮りました。残念ながら、彼らは人ごみに紛れてしまったので、尾行は出来なかったのですが……」
検察官は机に手を置き身体を支え、上半身だけ二人に近づけ、弁護士と裁判長に印刷した写真を渡す。
写真には中年カップルの後姿が写されていた。
女はレインハットを深くかぶっているが、栗色の長髪がはみ出ていた。
男は後姿からも、頭の毛の量が少ない事がわかる。
二人ともトレンチコートを着ていたのが、どことなく二時間サスペンスドラマのように見えた。
写真に被告の後姿しか映っていなくても、裁判長も弁護人も、異議を唱える事ができなかった。
その写真の男は、あまりに、被告人に似ていたのだ。
検察官は更に証拠を示す。
「さらに、こちらは裁判長から提出された、携帯電話で撮影した証拠写真になりますが……っと。被告人は先週と今週の二週間の間に、三回もYシャツに口紅をつけて帰ってきています。これは、偶然と言える回数ではありませんよね?」
裁判長は不安そうに検察官を見つめている。しかし、検察官は視線を合わせることなく続ける。
「今日も二十一時になっても帰宅しない。それは良いのですが、電話一本よこさない。こちらからの電話も通じない。それも別段、問題は無いのですが、今日に限っては違います。妻、つまりは裁判長の誕生日なのですから!」
検察官は、裁判長と弁護士の表情を確認し満足していた。
それから検察官は、自分の表情に気が付き、慌てて明らかに作った表情で偽者の同情の意を示し。
「よって被告人の浮気は確定的なものと思われます」
と言って、満足そうに着席した。
弁護人は裁判長の言葉を待っていたが、もう、裁判長は喋る事ができない状態だった。
弁護人は勝手に判断し、弁護を始める。
「え~っと。写真なんだけど~。この男の人は確かにパパっぽいよね。でもさ~。さっきは、とっさに判断できなかったけど~、後姿だけじゃ、パパと違うかもしれなくない?」
もはや裁判長は機能しない。
すすり泣く裁判長を見ながら、検察官も勝手に動き出した。
「なるほど。確かに、その写真については証拠能力が弱いかもしれませんね。参考程度に見ていただいてもかまいませんよ。ですが、他の証拠についてはどうします?」
「他の二つこそ、証拠として機能して無いんですけど~。Yシャツの口紅とか、妻の誕生日に帰りが遅いとか、連絡が取れないとか。なんだっけ? ジョウキョウ証拠? だっけ?」
「なるほどなるほど。それでは、証拠不十分として頂いてもかまいません。参考程度に見てください。ただし! 判断するのは裁判長ですけどね」
「なによ~。お兄ちゃん。何かずるくない? じゃあさ。ママ! 私の意見も聞いてよ! 私は、こう推理するよ。パパは知り合いの女性に今日のプレゼントを選んでもらったんだよ。超~慎重に、超~真剣に!」
弁護人は何か思いついたようだ。
裁判長の隣に移動し、「大丈夫だよ。ママ」と言いながら、検察官を睨みつけながら、弁護人は話を続ける。
「確かに写真は本物かもしれないね! 沖縄出張も嘘かもしれない。だけど~、それは浮気じゃなくて誕生日プレゼントを選んでるだけでした~。お兄ちゃんの推理はハズレなんです~。残念無念でした~」
弁護人は思春期の女子とは思えない荒い鼻息で、興奮を隠せない様子で続ける。
「口紅だって、二週間に三回もYシャツに付いてるなんて不自然よね。でも、逆に不自然すぎなんですけど~! お兄ちゃんのイタズラなんじゃないの~?」
検察官は見た目には、動揺を見せていない。
しかし、冷静だった彼が、大げさに笑い声を上げるのは、動揺の証拠ともいえるのかもしれない。
「それでは、妻の誕生日と言う今日に、連絡もなしで遅いのは何故です? こちらからの電話も通じないのは何故ですか?」
「え~っと、パパは男だからじゃないの? 男って大事な記念日とかさ、そういうの大事にしない馬鹿でしょ! だから、仕事中に携帯電話が通じない時が合ったって変じゃないです~!」
検察官は、強がりではない、本物の爆笑をした。彼の目からは、勝利を知らせる涙が一粒だけ落ちる。
「確かに、被告人はイベントを重視しない人かもしれません。ですが、それは、先ほどの弁護人の『知り合いの女性と誕生日プレゼントを選んでいる』説を否定する話じゃないですか?」
「え? ……じゃあ、超真剣に選んでいて、遅くなってるに決まっているし~。そんなこともわからないの?」
弁護人は今にも噛み付きそうな、恨めしい表情で検察官を睨みつける。
しかし、検察官は余裕ありげに、その視線を受け流し。
「それも、連絡をよこさない理由にはなりませんよ?」
と告げた。
弁護人は唸り声を上げながら、検察官を睨むだけだった。
検察官は勝ち誇ったように、裁判長に判決を促す。
裁判長は、泣いているのか怒っているのか、震えた声で。
「判決。今日パパが帰ってきたら、寝かせません! きちんと説明してもらいます!」
「賢明です」と検察官は言った。
「ちょっと~、ママ」と弁護人は言った。
その三分後。
被告人が帰宅した。
被告人は昨日の早朝に出かける時にはなかった、両手一杯の沖縄土産を持っていた。
「なんだ~。家族揃って、家族会議か~? お父さんをのけ者にするなんて寂しいぞ~」
裁判に出席していた三人は、身動き取れない。何も言う事も出来ないでいた。
三人の脳が、予想外の出来事を理解してくれないのだ。
被告人が嘘を言っていなかった、本当に沖縄に出張していた、と言う事だけなのに……。
いや、検察官だけは、すばやく自分の部屋に逃げ込んだ。
一方自分がいない間に被告人にされてしまった彼は、呑気な事に少し酔っている。帰りの新幹線で、缶ビールを二缶飲んでいた。
被告人は可笑しな雰囲気に気がつかない様子で、土産の中から一際豪華な、一万九千円の、ティシュ箱サイズの、木彫りシーサーを取り出した。
そして、妻に近寄り。
「ママー。誕生日プレゼントだよ~。っと」
弁護人は「パパってセンス悪いよね」とため息。
裁判長は「あなた! ありがとう」と感激。
被告人は「ママ! 浮気していたのか!」と激怒。
被告人は先ほど提出された証拠写真を、つまりは中年カップルの写真を見て、怒っている。
裁判長と弁護人が慌てて写真を確認すると……。
弁護人が。
「あ、本当だ。この帽子の女の人って、ママに見えなくも無いね~」
と裁判長に同意を求めると。
「そうね~。それに、本物のパパと比べると、この男の人って、フサフサの頭よね」
と言う。
酔った被告人は。
「なんだ~? よくわからないけど~。良くないことしていたな!!」
と怒鳴ってみるのだが。
裁判長は、慣れた手つきで。
「さぁ、あなた。そんな事は気にせず、お休みなられたら?」
と被告人をベッドに誘導する。
被告人は一言だけ。
「誤魔化すな~」
と言ってみたものの、裁判長の。
「いいわね!」
の一言で黙るしかなかった。
十分後。
被告人を寝かしつけた裁判長がリビングに戻ると、誰もいなかった。
それでも、裁判長は自分の席に座り。
「判決。被告人は浮気罪については無罪とします。ですが、新たな罪が発覚したので、これより五十年の離婚禁止の刑に処します! ねぇ。シーサーちゃん」
と木彫りのシーサーを指で軽く押しながら、話しかけていた。
もう、彼女の顔には涙は見えない。
四十九歳の裁判長の顔には、初恋をした少女が宿っていた。
一方、連絡の取れなかったはずの被告人の携帯電話には、検察官からのメールが入っていた。
メールの着信時刻は、裁判が始まる二十分前だ。
『これより、作戦開始。一時間後に帰宅せよ』
二週間前の日曜日。
それは、ドライブと言う名の、日用品のパシリに、男二人が駆り出された時のことである。
運転席には被告人の姿がある。
助手席には、検察官が不満そうに座り、ポータブルゲームをしていた。
話を持ちかけたのは、被告人だった。
「な~。ママの誕生日に、ドッキリの企画発案しないか? お前、そんな感じのテレビ好きだろ? 無料とは言わん。三千円でどうだ?」
「面倒くさいな。でも、良いよ。そうだな……。まずは。オヤジとオフクロの写真をパソコンで合成して、浮気の証拠写真を作る。詳しい説明は後でな」
「凄いな。お前はそんなことも出来るのか?」
「褒めても何もでないよ。次は、オヤジの仕事だ。これから作戦当日までに数回で良いから、Yシャツに口紅っぽい痕跡を残すんだ。念のため、一つ一つに言い訳を考えて置けよ」
「それで、どうする?」
「最後に、誕生日当日に俺が『オヤジが浮気してる!』って盛り上げるから、オヤジは帰宅時間を遅らせろよ。そうだな、19時以降は、家族からの電話も一時的にに着信拒否にしちゃえ。帰宅時間についてはこっちから連絡する」
「お前って、息子ながら変な奴だと思うよ」
「五月蝿い! それより、最後に二つ条件がある」
「なんだ? 何でも言ってみろ!」
被告人の、その言葉は、嬉しさで興奮していた。
一方、検察官は興味なさそうな、眠そうな口調だった。
「一つ目の条件。それは、ドッキリを企画する理由を教えてくれ」
「なんだ。そんなことか。尻に敷かれる生活に不満は無い。だけど、俺はエスなんだ」
「意味がわからないぞ」
「それで良い。十六歳にはまだ早い世界だよ」
「ふ~ん。まぁ、いいや。二つ目の条件だ。今時の高校生は、三千円じゃ動かない」
「い、いくら要求するつもりだ?」
「金じゃない。今後は、オフクロのパシリに、俺を巻き込むのをやめてもらおうか」
被告人は、五分間じっくり悩んで。
「わ、わかった。来週から寂しいな……」と言った。子離れの時期が近い、と感慨にふけっていたのだ。
一方検察官は、つまらなさそうな態度とは裏腹に、心の中はワクワクしていた。
まだまだ、イタズラが大好きな少年だった。