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リセット          :約4500文字 :SF

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/09/30

 男はびくりと体を震わせて目を覚ました。直後、手首と足首が硬い金属にぶつかり、鈍い音が響いた。

 反射的に起き上がろうとしたが、まったく動けなかった。手足だけではない。特に額のあたりはしっかりと固定されており、首を振ることすらできなかった。


「ど、どうなってる……おい、おい!」


 男は叫びながら必死に手足を動かそうとした。体をねじり、肩を浮かせようと何度も力を込めてもがいた。だが、どうやら完全に拘束されているようだ。ガチャガチャと金属のぶつかる音がするばかりで、外れる気配はまったくなかった。

 男は荒い息を吐きながら目だけを動かし、周囲を確認しようとした。しかし視界に入るのは、やや青みがかった天井と鈍い光を落とす白い電灯だけ。体の下には硬いベッドのような感触があり、どうやら自分はその上に仰向けで固定されているらしい。男に分かったのはそれだけだった。


「説明しますので、お静かに」


 頭上から声が降ってきて、男ははたと動きを止めた。ほどなくして、白衣を着た男が視界の端から顔を覗かせた。

 男は唾を飲み込み、訊ねた。


「お、おい、あんた誰だ。ここはどこなんだ」


「あなたは犯罪者です」


「……は?」


 思いもよらない答えに、男は呆気に取られた。口を半開きにしたまま黙り込んでいると、白衣の男は手にしていたタブレットを男の目の前へすっと差し出した。


「……おれ、なのか?」


 画面には、夜の路上で誰かを執拗に踏みつけている一人の男の姿が映っていた。防犯カメラの粗い映像だったが、倒れた相手に何度も足を振り下ろしているのははっきりとわかった。そして、それが自分であることも。

 白衣の男は静かに頷いた。


「これはあなたが起こした暴行事件の映像です。場所は夜の駅前。周辺の防犯カメラに記録されていました。それから、こちらは被害者の男性です。ご覧ください、顔がこんなに腫れ上がっています。それからこれはレントゲンの画像で――」


 白衣の男は淡々と説明しながらタブレットを操作し、画像や映像を次々と見せた。男は無意識に目を細め、顔をしかめた。


「知らない……」


「はい?」


 白衣の男は手を止めた。


「覚えてない……覚えていないんだ……」


 男はか細い声でそう言った。体格、髪型、服装、仕草――映像の中で人を踏みつけている男は確かに自分だった。それなのに、いつどこで、そしてなぜそんなことをしたのか、そのどれも思い出せなかった。


「ですが、この人物があなた本人であることに間違いはないですよね?」


「ああ……だが、知らない。おれはそんなことしてない……するはずないだろ……」


「当時、あなたはかなり酒に酔っていたそうです。夜道を歩いていたところ、被害者と肩がぶつかり、それをきっかけに一方的に怒鳴り散らした。相手は何度も謝りましたが、あなたはいきなり殴りつけ、さらに倒れた相手の頭を踏みつけたのです」


「覚えていない……」


「被害者の方は意識不明の状態で病院へ搬送されましたが、その後――」


「だから覚えていないと言ってるだろ!」


 男は思わず声を荒らげた。しかしその直後、はっと我に返って口をつぐんだ。今の反応が、まさに自分の直情的な気質を裏付けたように思えてならなかったのだ。先ほど見せられた映像が脳裏にまざまざと蘇り、胸の奥に不快な感覚が広がっていった。


「なるほど」


「ほ、ほんとなんだ。おれは今まで一度もそんなひどいことをしたことなんてないんだよ……」


 男は慌ててそう言った。縋りつくような弱々しい声だった。


「なるほど、なるほど」


 白衣の男は頷きながら再びタブレットを操作した。


「お、おい。それで、これはなんなんだ。頭に何かついてないか?」


 男は目だけを動かし、どうにか上を見ようとしながら訊ねた。先ほどから額の拘束とは別の異物感が頭にあった。重く、頭全体を覆っているかのような感覚だった。


「ええ、その装置であなたの記憶を消しました」


「消し……た?」


「はい」


「それは、その……犯行のときの記憶か?」


「ええ、そのとおりです。刑務所に収監されたあなたは、その後この施設に移送されました。その経緯についても覚えていないのですね?」


「あ、ああ……」


 男は斜め上に視線をさまよわせ、記憶をたぐり寄せようとした。だが、思い出せないというより、まるで最初からそこに何も存在しないような奇妙な感覚に阻まれた。逮捕されたことや裁判、刑務所、そしてここへ移送されたという話も何ひとつ実感が湧かなかった。

 あまりにも自然な空白だったため、これまで疑問にすら思わなかったことが、じわじわと薄気味悪く思えてきた。


「前科がいくつかありましたが、それも覚えていませんね?」


「え、前科……? そんなの……いや、まさか」


「ええ。それらもすべて消去しました」


「そんな簡単に……」


 白衣の男の事もなげな言い方に、男はわずかな苛立ちを覚えた。犯罪行為とはいえ、自分の記憶がそう易々と消されたことにどうにも納得がいかなかった。


「それで、なんで勝手に消しやがったんだ」


「犯罪者の記憶を消去し、真人間に生まれ変わらせる。この技術の本来の目的は簡単に言えばそんなところです」


 白衣の男は視界の外にいる誰かに指示を出しながら淡々と答えた。男には見えなかったが、どうやらこの部屋には他にも人がいるらしい。今さらながら足音や話し声が男の耳に届いた。


「暴力、盗み、虐待といった不適切な記憶を抽出し、脳から削除することで人格の改善を図る。そうした発想から生まれた技術です。当時、犯罪者を刑務所に長期間収監することは人権保護の観点から問題があるのではないかと議論されていましてね。それに、ただ閉じ込めておくだけでは更生も到底期待できない。ならばいっそ、犯罪行為に結びつく記憶そのものを取り除いてしまえばいいという結論に至ったわけです」


「ふ、ふざけるな! おれの頭の中を勝手にいじくり回したってのか!」


「いえ、勝手にではありませんよ」


 白衣の男は平然と答えた。


「あなた自身から同意を得ています。釈放と引き換えにね」


「え、釈放? じゃあ、おれは自由になれるのか?」


「ええ。手続きが終わり次第、すぐに」


「はは……ははは!」


 男は高らかに笑った。


「何だよ、脅かしやがって……」


「それでは、いくつか確認事項があるのですが、よろしいでしょうか」


「ああ、ああ」


 男は口角を吊り上げて何度も頷いた。その目はただ真上を――その先にある自由だけを見つめていた。

 ふいに、『いや、そもそもおれは犯罪なんてしていないのに……』という疑問が脳裏をかすめた。

 ……いや、その記憶を消されたという話だった。やってもいないことを責められているようでどうも釈然としないが、一方で『やった』と言われれば胸の奥がざわつき、手足が疼く。“身のほう”には覚えがありそうだ。

 だが、そんなことはどうでもいい。なんにせよ自由になれるのだ。むしろ得をしたような気さえなってきた。


「えー、あなたは幼い頃に養父から虐待を受けていましたね」


「養父……? 誰だ、それ」


 男は眉をひそめた。


「ええ。その記憶もすでに消しました。それから、これまで付き合った女性たちの記憶もすべて。こちらもあなたにかなり悪い影響を及ぼしていたようなので。もっとも、あなたのほうも彼女たちに相当な悪影響を与えていたでしょうが」


「なんだよそれ……」


 男は「彼女……」と小さく呟き、記憶をたぐった。しかし、その顔はおろか、恋人の存在そのものが掴めなかった。

 一瞬、落とし物をしたときのように背筋が冷えたが、男はすぐに気を取り直した。

 まあいい。女ならまた見つけて抱けばいいだけの話だ。むしろ、新鮮な気分でヤれると思えば悪くない気もしてきた。

 そんなことを考えながら、男はにやりと口角を上げた。


「覚えていませんね?」


「ああ、まったく。きれいさっぱりだ」


「幼少期の記憶についてはどうです? たとえば、万引きしたときのことは覚えていますか?」


「万引き? そんなもん知らねえな」


「なるほど。主要な記憶はおおむね消去できたようですね。結構、結構」


 白衣の男は小さく何度も頷いた。


「おい。それで、いつ釈放されるんだ? てか、いい加減この拘束を外せよ」


 男はそう言って苛立たしげに体を揺すった。自分のことについて話しているはずなのに、他人の履歴書を読み上げられているような妙な気分だった。


「なあ、おい! 聞いてんのか!」


「不思議に思いませんか?」


「あ? 何がだよ」


 男は眉をひそめ、忌々しげに尋ね返した。


「悪い記憶を消したというのに、あなたのその粗暴な態度が少しも改善されていないことにです」


「は? んなこと知るかよ」


「記憶を消去しただけでは、生まれ持った気質までは変えられないということです。以前にも同じ処置を受けて釈放された者がいましたが、数か月後に再び罪を犯して逮捕されました。それがきっかけとなり、この制度は見直しを余儀なくされたのです」


「へえ、馬鹿なやつがいたもんだな」


 男はせせら笑った。が、直後に眉を寄せた。


「どういうことだ? じゃあ、おれは釈放されねえのか? おい! 騙しやがったのか、てめえ!」


「いいえ」


 白衣の男は静かに答えた。それから男の頭部に取り付けられた装置に手を伸ばし、何やら操作を始めた。カチャカチャと小さな音と振動が皮膚を通して頭蓋に伝わってきた。やがて、額の拘束がわずかに緩んだ。


「へ、へへ……なんだ。怒鳴って悪かったな」


 男は機嫌を直し、へらへらと笑いながら首を動かした。

 そのときだった。すぐ隣にもベッドが置かれていることに気づいた。


「あれは……?」


「あなたが踏みつけたあの男性ですよ」


 白衣の男は装置に視線を落としたまま答えた。


「病院に搬送されたあと、脳死と判定されました。その後、ご家族の承諾を得て、記憶の抽出を行いました」


「記憶の抽出……?」


「ええ。あなたに施したのと同じ処置です。記憶は戻すこともできるのですよ」


「へえ……だったら、女を抱いた記憶だけは戻してくれねえか? やっぱり童貞じゃあなあ、うまく抱けねえよ」


 男はにやにや笑った。


「戻しますよ。すべてね」


「は?」


「正確に言えば、移すのです。被害者の記憶をあなたの中へ」


 白衣の男は男の顔へ視線を移し、そう言った。


「これからあなたの記憶をすべて消去し、脳をまっさらな状態にします。そこへ被害者の方の記憶を移植し、人格を上書きする。そういう処置です」


 被害者救済。人権保護です――白衣の男はそう付け加えた。


「ふざけんなよ……」


 男は喉の奥で唸るように言った。


「おれはどうなるんだよ! ああ!?」


「記憶というものは、その内容によっては驚くほど強く根を張り、簡単には消えないことが分かりました。あなたの場合は、犯罪による興奮や養父から受けた虐待の記憶が該当しますね。ですから今回は、一つずつ念入りに確認したのです」


 白衣の男はそこで一度言葉を切った。


「実は、私とあなたは初対面ではないのですよ」


 白衣の男はそう言うと、かすかに微笑んだ。


「だ、だから知るかよ! んなことより、おれの人権はどうなるんだよ!」


「あなたには十分なチャンスが与えられてきたと思いますよ」


 白衣の男は少し呆れたような口調でそう言った。


「あなたですよ。以前、記憶を消されて釈放された犯罪者というのは」


「あ? おれは……」


 男は言葉を失った。

 覚えていない――やがて、かすれた声でそう呟いた。


「では始めます」


 白衣の男はそれだけ告げると、男のそばを離れた。遠ざかっていく足音だけが一定の間隔で響いていた。

 男はゆっくりと顔を横に向けた。

 腫れ上がった顔で静かにベッドに横たわるその姿を見た瞬間、ほんのわずかに既視感めいた感覚が胸をよぎった。

 しかし、それも気のせいだったのか――男には確かめようがなかった。

 記憶をたぐり寄せる間もなく、男の意識はふっと途絶えた。

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