第六章 織姫、会に赴く
牛家村という名ではあるが、広義には牛家県の一部であり、実のところ県内で最も栄えた場所である。
市場は行き交う群衆で溢れていた。隣県から商いに来た商人や、近郊で育てた作物を天秤棒で担いで売りに来た小販たちがひしめき合っている。
道端には多種多様な屋台が並び、牛彦の好物である「飴細工」こそ昨日ほどの大祭でなければ見かけないが、それでも威勢のいい店員たちの呼び声が絶え間なく響いていた。
牛彦は青い長袍を纏っていた。高級すぎず、かといって卑しくもない。その控えめな装いは村の人々も見慣れたもので、「若旦那は今日、また何を企んでいるのやら」と、道行く人々は内心で苦笑しながら通り過ぎていく。
牛彦はアニキ(黄牛)を連れてはおらず、いつも傍らにいる従者の阿和を今回はしっかりと従えていた。腰に差していた扇子で風を送りながら、行き交う人々を眺めている。
やがて、彼は口角を上げた。
「オリシ殿。一日ぶりですが、いかがお過ごしかな」
白い衣を纏った娘が、彼の前に現れた。その隣には、薄緑色の衣を着た従者が控えている。
「このお誘いがなければ、もう少し気分も良かったのでしょうけれど。……まあ、悪くはありませんわ」
オリシは探るような微笑を浮かべたが、言葉の端々には不機嫌さが滲んでいた。控えめに言っても、今回の呼び出しはあまりに唐突だったからだ。しかし、数日後の約束などしていては彼女はこの地を去っていただろう。これは牛彦なりの、小さな「意趣返し」でもあった。
「それは失礼した。私の長所は、思い立ったら即座に行動することなのだよ。だが、お嬢さんに無理をさせたのは確かだ。お詫びしよう」
口ではそう言いながら、牛彦の態度に申し訳なさそうな気配は微塵もなかった。オリシはわずかに眉をひそめたが、下界での立場というものもあり、それ以上は追求しなかった。
――はずだった。
「若旦那様がそう仰るのなら。この村の主であるあなた様は、この地を隅々まで知り尽くしていらっしゃるのでしょう? ならば今日は、さぞかし楽しませてくださるのでしょうね?」
オリシはあえてハードルを上げたが、牛彦は柳に風と受け流した。
「もちろんだ。今日一日で、この村が忘れられなくなるほどもてなして差し上げよう。全て私に任せておきたまえ」
「頼もしいことですわ。では、お願いいたします」
二人は互いに心中を察しながらも、顔を見合わせて微笑んだ。
(頼むから、何か問題を起こさないでくれよ……)
(お、お嬢様……)
阿和は思わず溜息をつき、雀児も薄汗をかきながら状況を見守っていた。
そして、二人は気づいた。自分たちが全く同じ境遇にあることを。初対面でありながら、そこには奇妙な「連帯感」が芽生えていた。
*
天界において、娯楽はそれほど発達していない。特に星の宮闕の主の娘であるオリシにとって、活動範囲は常に衆目に晒されており……言い換えれば、監視に近い不自由さを伴うものだった。
それゆえ、農家の子供が釣り竿で池の魚を釣って遊ぶだとか、削り出した木瓶を積み上げ、籐で作った球を転がして倒し、その数を競う遊びがあるといった下界の噂を聞くたび、彼女の瞳は期待に輝いたが、実際に体験したことは一度もなかった。
もっとも、今回の下界入りの最大の目的は高名な打ち手との対局であり、他のことなど些事に過ぎない……。
――そのつもりだったのだが。
「むぅ……」
ある屋台の前で、オリシは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。肩の力を抜き、桜色の唇を引き結んで、じっと標的を見つめる。
そして、腕を振り、手首をスナップさせた。
放たれた矢はカランと音を立て、遠くにある瓶の縁を叩いた。
「あぁ……っ!」
オリシから小さな悲鳴が漏れた。投げた矢は瓶を叩いただけで、中に入ることなく地面に落ちてしまったからだ。
足元には十本以上の矢が散らばっているが、瓶の中には一本も入っていない。
「オリシ殿、そろそろ他の場所へ移りませんか……」
「少し待って! まだ一度も成功していないのよ!」
オリシは小さな拳を握り、悔しげな表情を浮かべた。
無理もない、すでに十連敗以上である。十を超えたあたりから、牛彦は数えるのをやめていた。
「まさか、これには何か特別な仕掛けがあるのではないかしら?」
オリシは地面の矢を拾い上げ、羽や矢柄をまじまじと見つめながら呟いた。それを聞いた店主は、顔を青くして首を振った。
「お嬢様、うちは真っ当な商売をしております。細工なんて滅相もございません」
「オリシ殿、それは筋違いというものだ。ほら、見ていろ――」
牛彦は筒から新しい矢を一本抜き取ると、瓶をちらりと見た次の瞬間、無造作に矢を投げた。まるで最初から決まっていたかのように、矢は一点の狂いもなく瓶の口へと吸い込まれ、トスンと心地よい音を立てた。
「若旦那様ともあろうお方が、わざわざ追い打ちをかけるなんて」
「まさか。平民なら誰でもできることだ。お嬢さんも、もっと練習すればいい」
つまり、普通の人間なら数回は当たるものなのに、お嬢さんは並外れて不器用だと言っているのだ。
カチンときたオリシだったが、あえて平静を装って言った。
「左様でございますか。ならば、若旦那様に手取り足取りご指導いただきましょう。そうすれば、私のような女子供でも、すぐに覚えられるかもしれませんから」
(一介の女相手に意地を張るなんて、体面が悪いのではありませんこと?)
――そう皮肉ったつもりだった。
しかし、牛彦はあっさりと頷いた。皮肉を無視したのか、あるいは気づかなかったのか。
彼は新しい矢を手に取り、その矢柄をオリシに見せた。
「投げる時は、放物線を描くように飛ばさねばならん。そうすれば矢先が綺麗に瓶の口に落ちる。だが、オリシ殿の握り方ではその軌道は作れん。矢の持ち手をもう少し後ろに下げ、方向を定めさえすれば、軽い力でもっと遠くまで飛ばせるようになる」
オリシの失敗の多くは、瓶の手前に落ちていた。つまり、力加減はもっと強くてもいいが、強く投げすぎれば方向が定まらなくなる。だからこその助言だった。
「……分かりましたわ。仰る通りにやってみます」
オリシはやり直すことにした。教えを乞う形になったのは不本意だが、彼女は他人の助言を受け入れられないほど頑固ではない。
再び精神を集中させ、牛彦に言われた通りに握りを調整する。脳内で放物線の軌道をシミュレーションし、力を込めて矢を放った。
手を離れた矢は、オリシの思い描いた軌道を描き、瓶へと吸い込まれていった。そして――見事に瓶の中へと収まったのだ。
「やった……やったわ! 雀児! 見たかしら! ついに成功したわよ!」
オリシはVサインを作り、満面の笑みを浮かべた。傍らで見ていた雀児も感銘を受けた様子で声を上げた。
「す、すごいですお嬢様! 一を聞いて十を知る、ですね!」
(大げさだなぁ)と毒づこうとした牛彦だったが、その心底嬉しそうな笑顔を見て、言葉を飲み込んだ。もともと、彼女を不快にさせるために誘ったわけではない。最初に意地を張り合ったせいで、後に引けなくなっていただけなのだ。
今こそ、和解の時かもしれない。
「おめでとう、オリシ殿。……さて、そろそろ少し休憩にしようか」
牛彦の言葉に、オリシは一瞬きょとんとしたが、やがて憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。
「ええ、ちょうど疲れましたわ。仰る通りにしましょう」




