第十八章 織女編策
その日、阿和は主の命を受け、ある牛家の客人に届け物をしていた。
使いの合間に羽を伸ばす者もいるが、阿和はそうしたことはせず、手早く用件を済ませて牛家への帰路についていた。
通りはいつも通り人々で溢れていたが、どういうわけか、その光景からは少しばかり活気が失われているように見えた。
阿和は、星の橋から戻って以来、憂いに沈んでいる主の表情を思い出し、思わず眉を寄せた。
そんな時、桃色の衣を纏った一人の娘が目に留まった。
「オリお嬢様」
阿和が声をかけると、オリシもその従者に気づいた。
「阿和。こんなところで、どうしたの?」
「いえ、仕事の帰りです。ちょうど終わったところですが、お嬢様は?」
「牛家へ伺おうと思っていたのだけれど、あなたに会えたなら、わざわざ行く必要もなさそうね。少し、時間をくれないかしら」
予期せぬ提案に、阿和は首を傾げた。
だが、彼の方にも彼女に尋ねたいことがあったため、深く頷いて答えた。
「分かりました。歩きながら話しましょう」
「ええ」
賑やかな通りを歩きながら、阿和は牛彦が経験した出来事について尋ね、オリシもまた、ありのままを答えた。
しかしそのせいで、その後の空気はどこか気まずいものになった。
「牛彦の様子は……あなたの目から見て、どうかしら」
しばらく迷った末、オリシがようやく問いかけた。
従者である阿和は、戻ってきてからの主人の一挙手一投足を思い返し、考えを巡らせてから口を開いた。
「坊ちゃんは、以前よりもずっと勤勉になられました。日課をサボらなくなっただけでなく、暇さえあれば他人の手助けをされています。水路の配管を改良したり、土地争いの参考にさせるための用地規範を定めたり、子供たちのために遊び道具を考案したり……。まるで――」
「まるで、別人のよう、ということかしら?」
阿和は頷き、オリシの言葉を肯定した。
「はい。ですから、お嬢様が力を貸してくだされば、坊ちゃんも元気を取り戻せるのではないかと思うのです」
阿和の目には、主人が無理やり自分を奮い立たせ、余計なことを考える暇がないほどに仕事を詰め込んでいるように見えていた。
オリシもまた、ここ数日、子供たちと接する牛彦の姿を遠くから眺めていた。相変わらず爽やかな青年のようではあったが、どこか欠落しているような、そんな印象を抱いていたのだ。
オリシには分かっていた。その姿は、かつて母の面影を追い求めていた自分に重なるのだと。
牛彦は大切な家族を失った。その落ち込みから抜け出すには、まだ時間が必要なのだろう。
……いいえ、抜け出すのではない。それを心の奥底に静かに埋め、忘れたふりをしているだけなのだ。
オリシは不意に背筋を伸ばし、隣を歩く阿和に告げた。
「阿和、数日後、私はこの牛家村を離れるわ。家業を継ぐために、修行に励むつもりよ」
数日前、オリシはあの老婦人の家を訪ねていた。衛兵たちが回収した黒いマントの仕立てと刺繍の手際から、それを作ったのが下界へ降りていた自分の母であることを見抜いたのだ。
星盤織女。
星界最高の織女として、下界から星盤の綻びを修復する責務を負わねばならない。
星界側の綻びは、仙衣殿の織女たちが定期的に修復しているため問題はない。
だが、両界を繋ぐ星盤の空間が崩壊すれば星界にも影響が及ぶため、それは極めて重要な任務なのだ。
母と共に過ごす時間を増やすため、そして下界で様々な経験を積むため、オリシはある決心をし、天帝に願い出た。
「父上陛下、私は母上の任務を引き継ぐつもりです」
天帝は感情面では許せなかったが、星盤織女の仕事は膨大な法力を消耗する。オリシが補佐に回ることで妻の負担を減らせるという実利もあり、最終的にはこれを認めたのだ。
そして昨日、下界にいた母にもその決意を伝えた。
『オリシ、本当にいいのね?』
『ええ。あの人は、きっとこれからも前を向いて歩んでいくわ。私も、彼に負けるわけにはいかないもの』
『下界に……この牛家村に残るためなら、他にも方法があったはずよ』
母の言葉に、オリシは首を振った。
『そんなことはできないわ。このまま甘えていては、私はどんどん弱くなってしまう。だから、これが最善なの。こうしてこそ、私たちは新しい一歩を踏み出せるのだから』
オリシの言葉を聞き、老婦人は微笑んだ。何を言っても、娘を止めることはできないだろう――そう物語るような笑みだった。
オリシが去ることを知らされ、阿和は小さくため息をついた。
「それは残念です。坊ちゃんもお嬢様にはまた会いたいと思っておられるはず。……仕方がありません。坊ちゃんが元気を出せるよう、自分で何とかしてみます。面を買って『仮面将軍』に扮してみるとか、祭りの隙に大量の飴細工を買ってくるとか……」
空気が重くなるのを避けるためか、阿和は口調を明るくし、わざとおどけた笑みを浮かべてみせた。
それに対し、オリシは静かに首を振って言った。
「阿和。私の話は、それを今すぐ実行しなさいという意味よ。二日後、あなたの主人に会うわ。段取りをつけてくれるかしら?」
その言葉に、阿和は驚愕の表情を浮かべた。
*
今日は雲一つない快晴で、学問に励むにはうってつけの日だった。
以前ならば、牛彦はアニキを連れて村の外れを散歩し、近くの丘で一休みするのが常だったが、アニキがいなくなってからは、その気も失せていた。
今の牛彦にとって、書斎にこもり、筆墨の香りを嗅いでいる時間だけが、わずかに心を休められるひとときだった。
一時期は、母親がしきりに様子を見に来ていたが、最近はようやく息子の変化に慣れたのか、食事を忘れるなと釘を刺すだけで、それ以上は何も言わなくなった。
書き写しの作業が一段落した頃、扉を叩く音が響いた。
「入れ」
牛彦が応じると、書斎の扉が開かれた。
そこに現れたのは、何とも奇妙な奴だった。
服装は質素なもので、そこには何ら問題はない。背丈は牛彦より少し低く、見慣れた高さだ。
だが、問題は別の場所にあった。
「……阿和。お前、何をやってるんだ? その顔にくっついているのは何なんだよ」
牛彦の言葉通り、そいつの顔には面が張り付いていた。どこかで見たことのある有名な人物の面だ。
その他の点については、どう見ても見慣れた牛家の従者である。
「否。拙者は弱きを助け強きを挫く『仮面将軍』であって、阿和などという者ではござらん」
仮面将軍が胸を張って言い放つと、牛彦は僅かに目を細めて問い返した。
「ほう? ならば、本物の阿和は今どこにいるんだ?」
その言葉に仮面将軍の肩がびくりと震え、一つ咳払いをしてから答えた。
「……あやつは他に急用があるとかで、忙しく立ち働いております」
「ふうん。だが、今はあいつがここを掃除する時間だ。来ていないなら、怠慢だな」
「そ、それは……とにかく、その従者の話はさておき。拙者は坊ちゃんに、折り入って相談したいことがあって参ったのだ」
仮面将軍が手を組んで拱手すると、牛彦は頬杖をつき、無関心な口調で尋ねた。
「将軍自らのお出ましとはな。して、何の用だ?」
「聞き及ぶところによれば、坊ちゃんはある娘と約束を交わし、盛大なる対決を行うはずだったとか。されど、牛家に戻って以来、坊ちゃんはその件について固く口を閉ざしておられる。まさか、約束を反故にするおつもりか?」
「……それが将軍に何の関係がある?」
「情義を重んじ、義を見てせざるは勇なきなりと心得る身として、坊ちゃんを説得し、かの娘に会いに行っていただきたいのだ」
それを聞き、牛彦は一瞬沈黙した後、あくびを一つして言った。
「興味がないな。今は我が牛家の再興が最優先だ。一人の娘にかまっている暇はない。それに、そもそも約束を破ったのはあっちだ。なぜ俺がわざわざ追いかけなきゃならない?」
「……拙者の直言を許していただきたい。坊ちゃんはあのお方の実家まで追いかけて行ったのではござらんか? 伝えたいことがあったはずでは?」
仮面将軍がそこまで言うと、牛彦も我慢がならなくなった。
「言いたいことがあるなら本人に直接言う。将軍の世話にはならん。さっさと帰れ。……ああ、ついでだ。阿和の奴に、倉庫を綺麗に片付けろと伝えておけ」
「……おや? 私に言いたいことがあるのなら、今日にしてみてはどうかしら?」
その時、扉の向こうから、一人の娘の声が響いた。




