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第一章 星界の織姫

天の彼方、そこには広大なる宮殿――「星の宮闕せいのきゅうけつ」があった。

七姫ななひめ様――! 仙衣せんいを織るお時間です、そろそろ仙衣殿へ……あら? いらっしゃらない?」

 殿内にて、一人の清らかな顔立ちの宮女が声を張り上げたが、部屋からの返答はない。まだお休みになられているのだろうか――そう思った矢先、廊下の角からぎょくを帯びた女官が歩いてくるのが見えた。

「お姉様、おはようございます」

 宮女は深く頭を下げた。目の前の女官は七姫付きの近侍であり、主人の行方を知っているはずだ。

「七姫様なら、天帝殿へ向かわれましたよ。しばらくは戻られないでしょうね」

「天帝殿? まさか七姫様が……何か、面倒なことでも起こされたのですか?」

 宮女は言葉を選びながら尋ねた。

 女官はくすりと微笑んだ。七姫が機織り(はたおり)の仕事をしばしば抜け出し、己の趣味に没頭していることを思い出したからだ。

 いや、彼女にとっては、それこそが最も肝要なことなのだろう。

「今回は違います。天帝陛下が七姫様に挑戦状を叩きつけられたのです。一刻半刻いっこくはんこくでは終わらないでしょうね」

「えっ? 全知全能の天帝陛下が、お姫様に挑戦を?」

「珍しいことではありませんわ。家臣として主を語るべきではありませんが、天帝陛下は以前、自ら『宇宙のあらゆる理を窮めようとしている』と仰っていましたから」

 目の前の宮女は新人なのだろう、この星の宮闕に伝わる数々の出来事をまだ詳しく知らないようだ。

 その様子を見て、女官は五百年前の自分を見ているような心地になり、思わず笑みをこぼした。

「それで、天帝陛下はどのような挑戦をなさったのですか?」

「そうですね、すぐに分かりますわ。ここ数百年の間、あのおことで我らが七姫様に勝てる者など、一人もいないのですから」

 女官は遠く、雲のように湧き上がる橙色の星彩せいさいへと目を向けた。腰に提げた玉が、その動きに合わせてカチリと揺れた。



空気の中に、高揚した気配が満ちている。懐かしくも、どこか新鮮な感覚。

 一体いつからだろう。こうして端座たんざし、静かに思考を空っぽにすることを好むようになったのは。

 思考を縦横無尽に走らせ、目の前に現れるあらゆる変化を観察する。

――そうだ、黒い星石せいせきに触れ、その一子を盤上に置いた、あの時から。

 まるで二人の子供が追いかけっこをするように、広大な盤上を駆け回り、互いに鬼となって相手を制する。

 座布団の上に端座した少女は、こみ上げる興奮を抑えきれず、口角を上げそうになった。

 彼女は淡い桃色の礼服を纏い、荘重ながらも柔らかな印象を与えている。細い手足としなやかな肢体は、若い少女特有の瑞々しさを放っていた。

「オリシ、お前というやつは……」

「父上陛下、何か問題でも? 相手の薄い所に踏み込むのは、極めて当然の選択ですわ」

一石いっせきをもって強固な防壁に亀裂を入れ、嵐のごとく追い詰め、これほど大きな風穴を開けるなど……聞いたこともないわ」

 目の前の中年男性は、額の薄汗を拭い、盤上に顔を近づけて変化を注視した。星空を散りばめた夜色の長袍ちょうほうを身に纏い、華麗な王冠を戴くこの男こそ、星の宮闕の主、天帝陛下であり、少女――七姫オリシの父親であった。

 オリシは桜色の瞳をわずかに細め、口角を上げてにっこりと笑うと、黒い長髪を耳の後ろへとかき上げた。

「あら、そうしなければ、今頃劣勢に立たされていたのは私の方でしょう? それに、何が起こるか分からず、最後に誰が勝つか。それこそが盤上に求める楽しみというものではありませんか」

「ううむ……」

 天帝は唸り声を上げ、退路を思考する。彼がどのような手を打とうとも、オリシはすでに予測される図をいくつも描き、父の来襲を待ち構えていた。

 事実、この一局はすでに終盤を迎え、オリシが守りを突破した時点で、形勢はほぼ決していた。もちろん、ヨセ(収束段階)でのミスは禁物だが、幼い頃から棋芸を研鑽してきたオリシにとって、そのような失策はまず有り得ない。

 そこまで読み切った天帝は、ため息をついた。結果は分かっていても、相手がミスをするかもしれないという僅かな希望を抱き、未使用の星子を盤上へと置く。

 そして最後には――。

「やはり、そう簡単にはいかぬか」

 コミ(ハンデ)を含めても、天帝側の一目半負け。やはり相手のミスに勝負を賭けるのは、頼りにならないものだ。

 ちなみに「コミ」とは、先に打つ黒石が有利であるため、計算時に後から打つ白石側へ地(陣地)を補填し、公平に勝負させるためのルールである。

 そもそも、これは地を多く占めた方が勝ちという遊戯なのだが、天界の主である天帝が、なぜこの小さな盤上で娘のオリシに勝てないのだろうか。

「ご指導、ありがとうございました」

 オリシは鈴を転がすような声で言い、小さく頭を下げた。

 天帝は拗ねたように顔を背けて言った。

「オリシ、本音はどうなのだ?」

 その言葉を聞いた瞬間、オリシは小さな拳を握り締め――。

「やったぁー! あははは! 私の勝ち!」

 先ほどとは打って変わった大声で叫び、満面の笑みを浮かべ、胸の前でガッツポーズを作った。

「もうダメかと思った! 危なかったわー! あぁ、本当に面白い対局だった!」

 公の場では厳格で荘重でなければならないが、家族だけのこの時間、天帝は彼女がこのような表情を見せることを許していた……いや、正確には父親として、素直に感情を表す娘の姿が見たかったのだろう。

 それでも、負けた天帝は咳払いをし、声の大きさを注意した。殿の外まで聞こえては、さすがに体裁が悪い。

「それで、今回の褒美は何を望む?」

 二人は以前、娘が対局で勝利すれば、望む褒美を与えるという約束をしていた。

「ええっと……褒美? でも、すぐには欲しいものが思いつきませんわ」

 オリシは顎に手を当てた。彼女は褒美のために打っているわけではないが、父は天帝という身分上、優れた成果を上げた者には賞を与えるべきだと考えている。

 前回は特製の菓子を求めたが、あまりの美味しさに食べ過ぎて体重が増えてしまい、それ以来、食べ物の褒美は控えるようにしていた。

「そうだ!」

 その時、オリシは何名案を思いついたのか、瞳を星のように輝かせた。

「父上陛下、私は下界へ行ってみたいのです! あそこには、きっと私の知らない強者がいるはず。そんな方と対局してみたいのですわ!」

「何だと? 下界だと? それはならん。天界の七姫として、我が子をあのような危険な場所へ行かせるわけにはいかぬ」

 天界の住人が下界へ降りる際は、法力の九割を一時的に捨てねばならない。下界には粗野で性質の悪い者も多い。愛娘をそのような環境に置くことを、父親として許せるはずがなかった。

 何より……下界へ降りたきり、数百年が過ぎたある「織姫」のこともある。

「お願いです、下界を少し見て回りたいだけなのです。お土産も買ってきますから、いいでしょう?」

 オリシは愛らしく懇願したが、天帝はあえて目を合わせずに告げた。

「先ほども申した通り、それはできぬ。褒美の件はまた後日だ。朕はまだ公務がある、もう下がりなさい」

 心が揺らがないよう、天帝は強引に話を切り上げた。オリシは失望の表情を浮かべたが、今の父が最も頑固であることを知っていたため、それ以上は口にしなかった。


翌日。


「天帝陛下、星の宮闕のどこを探しても、七姫様のお姿が見当たりません」

「な……何だと……?」

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