令嬢は静かに告げる。もう私を傷つける言葉なんて、あなたに残ってはいません
その朝は、やけに静かだった。
公爵家の東棟、私に与えられている書斎は、いつもと変わらぬ薄曇りの光に満ちていた。白いカーテンが微かに揺れ、磨き込まれた床に淡い影を落とす。インクの匂いと紙の感触は、私にとって数少ない心安らぐ存在だった。
――この静けさが、終わる前触れだとも知らずに。
私は書類に視線を落としながら、淡々と今日の予定を整理していた。領地の収支報告、商会との契約更新、農地の灌漑計画。どれも、本来なら“公爵夫人”として夫と並んで決裁すべき内容だ。
けれど、フランツ様は興味を示さない。
夜会と狩り、そして噂の絶えない女性関係。
それが彼の日常で、私の日常はこの書斎の中に閉じ込められていた。
扉が乱暴に開かれたのは、その時だった。
「セレナ、話がある」
低く、しかし妙に自信に満ちた声。
顔を上げると、夫――フランツ・フォン=ヴァルツ公爵令息が立っていた。
その腕には、見知らぬ若い女が絡みついている。
金色の髪。艶やかな唇。誇示するように私を見下ろす視線。
ああ、と私は内心で静かに息を吐いた。
ついに、この時が来たのだ。
「彼女はミラだ。……俺の子を身籠っている」
その言葉は、驚くほどあっさりと放たれた。
まるで、朝食の献立を告げるかのように。
「だから、お前とは離縁する。公爵家の後継には、相応しい母が必要だ」
一瞬、胸の奥がきしんだ。
けれど、涙は出なかった。
怒りも、悲しみも、すでに擦り切れていたのだと思う。
私はゆっくりと立ち上がり、二人を正面から見据えた。ミラと名乗った女は、勝ち誇った笑みを隠そうともしない。
「……そうですか」
それだけを告げると、フランツ様は眉をひそめた。
「ずいぶんと冷静だな。もっと取り乱すかと思ったが」
「ええ。覚悟は、ずっと前からしておりましたので」
彼は満足げに頷き、私を見下す。
「なら話は早い。離縁届に署名しろ。条件は――」
「条件は、私が決めます」
その言葉に、空気が変わった。
フランツ様は一瞬、何を言われたのか理解できなかったようだった。
「……は?」
「離縁自体は、拒みません。ただし、あなたが思っているような形ではありません」
私は机の引き出しから、一通の書類を取り出した。
それは、数年前から密かに整えてきたものだ。
「ご存じですか、フランツ様。あなたが誇っているこの公爵家の領地――その半分以上が、どの家の資金と人脈によって維持されているか」
彼の顔が、わずかに強張る。
「……何を言い出す」
「私の実家、アルテン伯爵家です」
沈黙。
ミラが不安そうに彼を見上げる。
「アルテン家は、表に出ることを好まぬだけで、商会・穀物供給・金融、その全てに関与しています。あなたが“公爵令息”として何不自由なく振る舞えたのは、誰のおかげだったのでしょうね」
「ば、馬鹿な……そんな話は聞いていない」
「聞かせていませんでしたから」
私は微笑んだ。
初めて、彼の前で。
「そしてもう一つ。あなたには、公爵家の単独後継権がありません」
その瞬間、彼の顔色が変わった。
「婚姻契約、覚えていらっしゃいますか? “正妻がアルテン家の血を引く場合のみ、家督は安定継承される”――そういう条項が、確かにありました」
彼は口を開いたまま、言葉を失っていた。
「つまり、私を失えば、あなたは――」
書類を差し出す。
「爵位も、領地も、支援も失う」
ミラが青ざめ、腕を離した。
「フランツ様……?」
「黙れ!」
怒鳴った声は、完全に余裕を失っていた。
「セレナ、これは脅しか?」
「いいえ。確認です」
私は静かに続ける。
「離縁後、あなたは“一般貴族”となります。財産分与はなし。養育費もなし。公爵家からは正式に切り離される」
「そんな……認められるはずがない!」
「すでに、王宮と枢密院には話を通してあります」
彼は、崩れ落ちるように椅子に座った。
あれほど大きく見えていた背中が、急に小さく見えた。
「……なぜだ。なぜ、そこまで……」
私は少しだけ考え、答えた。
「これ以上、あなたに傷つけられないためです」
それは復讐ではなかった。
ただ、自分を守るための選択。
「署名なさいますか?」
フランツ様は震える手で、書類を見つめ――
やがて、力なくペンを取った。
数日後。
公爵家から追い出される彼の姿を、私は遠くから見送った。
隣にミラの姿はない。
書斎に戻り、窓を開ける。
風が入り込み、カーテンを大きく揺らした。
胸の奥に残っていた澱のようなものが、少しずつ薄れていく。
私はもう、誰かの付属品ではない。
机に向かい、新しい書類に手を伸ばす。
それは、私自身の名で進める事業計画書だった。
――もう私を傷つける言葉なんて、あなたに残ってはいません。
静かな決意と共に、私は新しい人生へと歩き出した。
公爵家を去ったフランツ様の噂が、社交界に広がるまでに、そう時間はかからなかった。
最初は、ひそひそとした囁きだった。
――急な離縁らしい。
――どうやら公爵家の支援を失ったとか。
だが、噂というものは、真実を餌にして一気に太る。
ある夜会で、私は久しぶりに“招かれる側”として会場に足を踏み入れた。以前まで、私に向けられていた視線は、どこか曖昧で、値踏みするようなものばかりだった。
けれど今は違う。
「アルテン伯爵令嬢……いえ、セレナ様ですね」
声を掛けてきたのは、王都でも指折りの老侯爵だった。
「あなたが最近まとめ上げた穀物流通の再編案、実に見事でした。地方の反発を最小限に抑えながら、王都への供給量を安定させる。簡単なようで、誰もできなかった」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げる。
「フランツ卿は……惜しいことをなさいましたな」
その一言に、私は微笑みだけで応えた。
それ以上、何も言う必要はなかった。
フランツ様は、離縁後もしばらくは“元公爵令息”という肩書きで振る舞おうとしたらしい。だが、資金が続かない。人が離れる。誘いが来ない。
彼が頼りにした商会は、ことごとくアルテン家と繋がっていた。
「申し訳ありません。今回のお話は……」
「規模を縮小する方針でして」
断られ続ける日々。
やがて彼は悟ったという。
自分が失ったのは、妻だけではなかったのだと。
一方で、私は忙しさの中にいた。
王都北区の再開発事業。
地方商人との新規契約。
女性職人を集めた工房の設立。
それらはすべて、“セレナ=アルテン”個人名義で進められていた。
「……あなたが、噂の」
ある打ち合わせの席で、初めて彼と出会った。
名は、ルーカス・レオ=ヴァレンシュタイン。
王国監査官という、権力よりも責任の重い立場にある男だった。
派手さはない。
だが、その目は、こちらを正確に見ていた。
「書類だけでなく、現場も見る方だと聞きました」
「ええ。数字は嘘をつきませんが、人の感情は数字に現れませんから」
その返答に、彼はわずかに目を細めた。
「……面白い方だ」
それは、口説き文句ではなかった。
評価だった。
彼は、私の過去を詮索しなかった。
離縁についても、元夫についても。
ただ、今の私を見て、言った。
「あなたとなら、長期的な事業の話ができそうだ」
その言葉は、不思議と胸に残った。
数ヶ月後。
フランツ様が社交界から完全に姿を消した、という知らせが届いた。地方の小貴族の元に身を寄せているらしい。
同時に、彼から一通の手紙が届いた。
『セレナ。
今になって、ようやく分かった。
君がどれほどの存在だったのかを――』
私は、その手紙を読まずに、封を切らずに、暖炉にくべた。
灰になっていく紙片を見つめながら、胸の奥にあった最後の影が、静かに消えていくのを感じた。
「後悔は、遅れてやってくるものですから」
そう呟いたのは、自分でも意外だった。
仕事は順調だった。
王宮から正式に、経済顧問補佐の打診が来た。
女性であることを理由に反対する声もあったが、成果がそれを黙らせた。
夜、書斎で一人、書類をまとめていると、ふと思う。
あの離縁がなければ、私はここにいなかった。
傷ついた日々も、無駄ではなかったのだと。
窓の外には、王都の灯りが広がっている。
その中で、私は自分の足で立っている。
数日後、ルーカス様から食事の誘いが届いた。
『仕事抜きで、一度お話ししませんか』
私は少しだけ迷い、そして微笑んだ。
人生は、終わりではなく、続いていく。
もう、過去に縛られることはない。
――私を手放したことを、後悔する人がいたとしても。
それは、私の人生には、もう関係のない話だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もし少しでも「スカッとした」「この先も見てみたい」と感じていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




