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令嬢は静かに告げる。もう私を傷つける言葉なんて、あなたに残ってはいません

作者: ピラビタ
掲載日:2026/01/02

 その朝は、やけに静かだった。


 公爵家の東棟、私に与えられている書斎は、いつもと変わらぬ薄曇りの光に満ちていた。白いカーテンが微かに揺れ、磨き込まれた床に淡い影を落とす。インクの匂いと紙の感触は、私にとって数少ない心安らぐ存在だった。


 ――この静けさが、終わる前触れだとも知らずに。


 私は書類に視線を落としながら、淡々と今日の予定を整理していた。領地の収支報告、商会との契約更新、農地の灌漑計画。どれも、本来なら“公爵夫人”として夫と並んで決裁すべき内容だ。


 けれど、フランツ様は興味を示さない。


 夜会と狩り、そして噂の絶えない女性関係。

 それが彼の日常で、私の日常はこの書斎の中に閉じ込められていた。


 扉が乱暴に開かれたのは、その時だった。


「セレナ、話がある」


 低く、しかし妙に自信に満ちた声。

 顔を上げると、夫――フランツ・フォン=ヴァルツ公爵令息が立っていた。


 その腕には、見知らぬ若い女が絡みついている。


 金色の髪。艶やかな唇。誇示するように私を見下ろす視線。

 ああ、と私は内心で静かに息を吐いた。


 ついに、この時が来たのだ。


「彼女はミラだ。……俺の子を身籠っている」


 その言葉は、驚くほどあっさりと放たれた。

 まるで、朝食の献立を告げるかのように。


「だから、お前とは離縁する。公爵家の後継には、相応しい母が必要だ」


 一瞬、胸の奥がきしんだ。

 けれど、涙は出なかった。


 怒りも、悲しみも、すでに擦り切れていたのだと思う。


 私はゆっくりと立ち上がり、二人を正面から見据えた。ミラと名乗った女は、勝ち誇った笑みを隠そうともしない。


「……そうですか」


 それだけを告げると、フランツ様は眉をひそめた。


「ずいぶんと冷静だな。もっと取り乱すかと思ったが」


「ええ。覚悟は、ずっと前からしておりましたので」


 彼は満足げに頷き、私を見下す。


「なら話は早い。離縁届に署名しろ。条件は――」


「条件は、私が決めます」


 その言葉に、空気が変わった。


 フランツ様は一瞬、何を言われたのか理解できなかったようだった。


「……は?」


「離縁自体は、拒みません。ただし、あなたが思っているような形ではありません」


 私は机の引き出しから、一通の書類を取り出した。

 それは、数年前から密かに整えてきたものだ。


「ご存じですか、フランツ様。あなたが誇っているこの公爵家の領地――その半分以上が、どの家の資金と人脈によって維持されているか」


 彼の顔が、わずかに強張る。


「……何を言い出す」


「私の実家、アルテン伯爵家です」


 沈黙。


 ミラが不安そうに彼を見上げる。


「アルテン家は、表に出ることを好まぬだけで、商会・穀物供給・金融、その全てに関与しています。あなたが“公爵令息”として何不自由なく振る舞えたのは、誰のおかげだったのでしょうね」


「ば、馬鹿な……そんな話は聞いていない」


「聞かせていませんでしたから」


 私は微笑んだ。

 初めて、彼の前で。


「そしてもう一つ。あなたには、公爵家の単独後継権がありません」


 その瞬間、彼の顔色が変わった。


「婚姻契約、覚えていらっしゃいますか? “正妻がアルテン家の血を引く場合のみ、家督は安定継承される”――そういう条項が、確かにありました」


 彼は口を開いたまま、言葉を失っていた。


「つまり、私を失えば、あなたは――」


 書類を差し出す。


「爵位も、領地も、支援も失う」


 ミラが青ざめ、腕を離した。


「フランツ様……?」


「黙れ!」


 怒鳴った声は、完全に余裕を失っていた。


「セレナ、これは脅しか?」


「いいえ。確認です」


 私は静かに続ける。


「離縁後、あなたは“一般貴族”となります。財産分与はなし。養育費もなし。公爵家からは正式に切り離される」


「そんな……認められるはずがない!」


「すでに、王宮と枢密院には話を通してあります」


 彼は、崩れ落ちるように椅子に座った。


 あれほど大きく見えていた背中が、急に小さく見えた。


「……なぜだ。なぜ、そこまで……」


 私は少しだけ考え、答えた。


「これ以上、あなたに傷つけられないためです」


 それは復讐ではなかった。

 ただ、自分を守るための選択。


「署名なさいますか?」


 フランツ様は震える手で、書類を見つめ――

 やがて、力なくペンを取った。


 数日後。


 公爵家から追い出される彼の姿を、私は遠くから見送った。

 隣にミラの姿はない。


 書斎に戻り、窓を開ける。

 風が入り込み、カーテンを大きく揺らした。


 胸の奥に残っていた澱のようなものが、少しずつ薄れていく。


 私はもう、誰かの付属品ではない。


 机に向かい、新しい書類に手を伸ばす。

 それは、私自身の名で進める事業計画書だった。


 ――もう私を傷つける言葉なんて、あなたに残ってはいません。


 静かな決意と共に、私は新しい人生へと歩き出した。



 公爵家を去ったフランツ様の噂が、社交界に広がるまでに、そう時間はかからなかった。


 最初は、ひそひそとした囁きだった。

 ――急な離縁らしい。

 ――どうやら公爵家の支援を失ったとか。


 だが、噂というものは、真実を餌にして一気に太る。


 ある夜会で、私は久しぶりに“招かれる側”として会場に足を踏み入れた。以前まで、私に向けられていた視線は、どこか曖昧で、値踏みするようなものばかりだった。


 けれど今は違う。


「アルテン伯爵令嬢……いえ、セレナ様ですね」


 声を掛けてきたのは、王都でも指折りの老侯爵だった。


「あなたが最近まとめ上げた穀物流通の再編案、実に見事でした。地方の反発を最小限に抑えながら、王都への供給量を安定させる。簡単なようで、誰もできなかった」


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げる。


「フランツ卿は……惜しいことをなさいましたな」


 その一言に、私は微笑みだけで応えた。


 それ以上、何も言う必要はなかった。


 フランツ様は、離縁後もしばらくは“元公爵令息”という肩書きで振る舞おうとしたらしい。だが、資金が続かない。人が離れる。誘いが来ない。


 彼が頼りにした商会は、ことごとくアルテン家と繋がっていた。


「申し訳ありません。今回のお話は……」


「規模を縮小する方針でして」


 断られ続ける日々。


 やがて彼は悟ったという。

 自分が失ったのは、妻だけではなかったのだと。


 一方で、私は忙しさの中にいた。


 王都北区の再開発事業。

 地方商人との新規契約。

 女性職人を集めた工房の設立。


 それらはすべて、“セレナ=アルテン”個人名義で進められていた。


「……あなたが、噂の」


 ある打ち合わせの席で、初めて彼と出会った。


 名は、ルーカス・レオ=ヴァレンシュタイン。

 王国監査官という、権力よりも責任の重い立場にある男だった。


 派手さはない。

 だが、その目は、こちらを正確に見ていた。


「書類だけでなく、現場も見る方だと聞きました」


「ええ。数字は嘘をつきませんが、人の感情は数字に現れませんから」


 その返答に、彼はわずかに目を細めた。


「……面白い方だ」


 それは、口説き文句ではなかった。

 評価だった。


 彼は、私の過去を詮索しなかった。

 離縁についても、元夫についても。


 ただ、今の私を見て、言った。


「あなたとなら、長期的な事業の話ができそうだ」


 その言葉は、不思議と胸に残った。


 数ヶ月後。


 フランツ様が社交界から完全に姿を消した、という知らせが届いた。地方の小貴族の元に身を寄せているらしい。


 同時に、彼から一通の手紙が届いた。


『セレナ。

 今になって、ようやく分かった。

 君がどれほどの存在だったのかを――』


 私は、その手紙を読まずに、封を切らずに、暖炉にくべた。


 灰になっていく紙片を見つめながら、胸の奥にあった最後の影が、静かに消えていくのを感じた。


「後悔は、遅れてやってくるものですから」


 そう呟いたのは、自分でも意外だった。


 仕事は順調だった。


 王宮から正式に、経済顧問補佐の打診が来た。

 女性であることを理由に反対する声もあったが、成果がそれを黙らせた。


 夜、書斎で一人、書類をまとめていると、ふと思う。


 あの離縁がなければ、私はここにいなかった。


 傷ついた日々も、無駄ではなかったのだと。


 窓の外には、王都の灯りが広がっている。

 その中で、私は自分の足で立っている。


 数日後、ルーカス様から食事の誘いが届いた。


『仕事抜きで、一度お話ししませんか』


 私は少しだけ迷い、そして微笑んだ。


 人生は、終わりではなく、続いていく。


 もう、過去に縛られることはない。


 ――私を手放したことを、後悔する人がいたとしても。


 それは、私の人生には、もう関係のない話だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
拝読しました。静かな“ざまぁ”の完成度が高いです。怒鳴り返したり泣き崩れたりじゃなく、セレナが「準備していた書類」を机から出した瞬間に勝負が決まる。この“温度の低さ”がタイトル通りで、読後のスカッと感…
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