第9話 ぬるいワインと、氷の絶対君主 ~冷蔵庫、それは文明の心臓~
季節は夏。
ローゼンバーグ領にも、うだるような暑さが到来していた。
「……ぬるい」
私はダイニングルームで、目の前に出されたグラスを睨みつけた。
中に入っているのは、最高級のブドウから作られた果実水だ。
だが、その温度は気温と同じ、生ぬるい三十度前後。
口に含むと、甘ったるさが不快なほど強調され、喉越しなどあったものではない。
「マリー。氷は?」
私は汗を拭いながら尋ねた。
「申し訳ございません、アレクセイ様。地下の氷室の氷は、昨日の宴ですべて使い切ってしまいました。次の『氷の魔導師』の巡回販売は、三日後になります」
「三日後……だと?」
私は絶句した。
この世界において、夏場の氷は宝石と同等の価値がある。
冬の間に山から切り出した天然氷を地下に保存するか、高位の水魔法使いに依頼して作ってもらうしかない。
だが、魔法で氷を作るのは燃費が悪く、維持も難しい。ゆえに、大貴族である我が家ですら、毎日ふんだんに氷を使うことはできないのだ。
「父上。これは由々しき事態です」
私は向かいの席で、ぬるい赤ワインを我慢して飲んでいる父、ガルディス公爵に訴えた。
「うむ……確かに今年の夏は暑い。肉もすぐに傷む。昨日も厨房で牛肉が腐り、廃棄したと聞いた。もったいないことだ」
父が嘆く。
そう、冷蔵技術がないことは、単に「飲み物がぬるい」だけの問題ではない。
食料保存ができないのだ。
肉や魚は塩漬けか干物にするしかなく、生の食材は「その日のうちに食べる」が鉄則。これが食文化の発展を著しく阻害している。
何より、許せないことがある。
(このままじゃ、いつまで経ってもコーラが飲めない!)
私の最終目標である「コーラ」。
あれは、キンキンに冷やして、炭酸が弾ける刺激と共に喉に流し込んでこそ完成する飲み物だ。
ぬるいコーラなど、ただの甘い薬湯である。
「作ろう」
私はフォークを置いた。
「え? 何をだ?」
「『冬を閉じ込めた箱』です。いつでも冷たい水が飲めて、肉が腐らず、そしてアイスクリームが食べられる夢の箱を」
***
私はその足で工房へと向かった。
かつて物置だったそこは、今や国からの潤沢な予算によって拡張され、謎の機械と配管が這い回る「魔科学研究所」へと変貌していた。
「シルフィ」
「……ん。マスター、おかえり」
部屋の奥から、工場長であるエルフのシルフィが顔を出した。
彼女は今、私が考案した「自動製紙機」のメンテナンスをしていたらしい。油にまみれた作業着姿だが、その表情は生き生きとしている。
「新しい仕事だ。今度は『熱』を操る」
私は羊皮紙を広げた。
そこに描かれているのは、現代の冷蔵庫の構造図……を、魔導工学的に翻訳したものだ。
「冷蔵庫?」
「そうだ。この世界の氷魔法は効率が悪い。一時的に凍らせるだけで、すぐに溶けてしまう。私が欲しいのは『冷やし続ける』空間だ」
私は図面を指差した。
「原理は『熱交換』だ。箱の中の熱を奪い、外に排出する。前世……いや、私の知識にある『気化熱』の応用だ」
コンプレッサーや冷媒ガスを一から作るのは難しい。
だが、魔法があるなら話は別だ。
「熱を吸収する特性を持つ魔石」と、「風魔法による循環システム」を組み合わせれば、擬似的なヒートポンプが作れるはずだ。
「箱の内側に『吸熱の術式』を刻印したミスリル板を貼る。奪った熱は、背面の放熱フィンから風魔法で強制排気する。どうだ、いけるか?」
シルフィは図面を食い入るように見つめた。
彼女の瞳孔が開く。新しいおもちゃを見つけた猫のような目だ。
「……面白い。火魔法の逆位相を使えば、熱だけを抽出できるかも。断熱材には、コカトリスの羽毛を圧縮したボードを使えば、冷気を逃さない」
「さすがだ。採用」
「でも、マスター」
シルフィが小首をかしげた。
「これを作って、どうするの? トイレの次は、ただの冷たい箱?」
彼女にはまだ、この革命の意味が分かっていないようだ。
「シルフィ。君は『アイスクリーム』を食べたことがあるか?」
「あいす……?」
「雪のように冷たく、砂糖のように甘く、口の中で一瞬で溶ける、天界のデザートだ」
「!!」
シルフィの長い耳がピンと立った。甘いものには目がないのだ。
「この箱が完成すれば、それが毎日食べられる。果汁を凍らせたシャーベットも、濃厚なバニラアイスもだ」
「……やる。私、本気出す」
シルフィの背後に、鬼神のようなオーラが立ち昇った。
動機が不純な人間が二人揃えば、技術革新は光の速さで進む。
***
三日後。
工房の中央に、銀色に輝く巨大な直方体が完成していた。
『魔導冷蔵庫試作一号機』である。
高さは二メートル。両開きの扉。
表面は断熱効果を高めるための特殊塗料で白く塗られている。
「起動」
私が魔力を流し込むと、背面の放熱ファン(風魔法駆動)が静かな音を立てて回り始めた。
ブォォォォ……という低音が響く。
「……庫内温度、低下を確認。現在、プラス五度」
シルフィが魔導温度計を見て報告する。
「よし。冷凍室はどうだ?」
「マイナス十五度。……成功。水を入れたカップが、十分で凍った」
「勝った……!」
私はガッツポーズをした。
ついに、人類は「温度」を支配したのだ。
「さあ、実験だ。この中に入れておいた『あれ』を持ってきてくれ」
シルフィが冷凍室から取り出したのは、木の棒が刺さった色付きの氷だった。
果実水に砂糖を混ぜて凍らせただけの、簡易的なアイスキャンディーだ。
だが、この世界においては、王族ですら食べたことのない未知の甘味である。
「あーん」
私はシルフィの口にそれを突っ込んだ。
「……んっ」
彼女は目を丸くし、冷たさに驚き、そして次に蕩けるような表情になった。
「……冷たい。甘い。……頭がキーンとする。……でも、美味しい……!」
「そうだろう、そうだろう」
私も一本かじる。
シャリッとした食感。口いっぱいに広がる冷気と甘み。
生き返る。
体の芯から熱が引いていく。これだ。これを待っていたんだ。
「アレクセイ様! 工房から妙な排気音がすると報告が……ん? それはなんです?」
騒ぎを聞きつけたギュンターが入ってきた。
彼は、私とシルフィが棒付きの氷を舐めているのを見て、ポカンとしている。
「おお、ギュンター。いいところに来た。食ってみろ」
私は余っていた一本を彼に投げた。
ギュンターは慌てて受け取り、恐る恐る口にする。
「!?!?!?」
彼は目を見開き、その場で硬直した。
「な、なんですかこれはァッ!? 氷!? いや、果実!? 冷たい! 歯が痛いほど冷たいのに、止まらない!」
「『アイスキャンディー』だ。この箱があれば、いつでも作れる」
「いつでも!? このような、国宝級の菓子を!?」
ギュンターは震えながら冷蔵庫を見た。
「それだけじゃないぞ。この箱に入れておけば、肉も魚も一週間は腐らない。牛乳も冷たいまま飲める」
「な……なんと……!」
ギュンターの顔色が、驚愕から畏怖へと変わった。
そして、彼は膝をつき、ガタガタと震え出した。
「若様……貴方様は、恐ろしいものを生み出してしまわれた……」
「ん? 便利だろ?」
「便利などという次元ではありません! 『食料保存』! これは、軍事における兵站革命です!」
ギュンターが叫んだ。
「行軍中の兵士にとって、食料の腐敗は最大の敵。もし肉や野菜を新鮮なまま運搬できれば、我が軍の活動範囲は倍になります! 籠城戦においても、食料備蓄の寿命が延びれば負けはありません!」
あー。
そっちか。
「それに、疫病対策としても! 腐った水を飲まずに済むだけでなく、高熱の患者を冷やすための氷が無限に手に入るとなれば……これは何万人もの命を救う『神の箱』です!」
ギュンターの目には、アイスの棒を握りしめながら涙が浮かんでいた。
「(……いや、俺はただ、アイスが食べたかっただけなんだが)」
だが、口には出さない。
誤解は、利用できるなら利用するのが私の流儀だ。
「……ふっ。気づいたか、ギュンター」
私はニヒルに笑って、アイスの棒をかじった。
「その通りだ。この箱は、我が領、いや我が国の『生存戦略』を変える。冬の飢餓も、夏の食中毒も、過去のものとなるだろう」
「おおお……! 一生ついていきます、若様ァ!!」
「あと、このアイス、もっと量産して夕食に出そう。父上も喜ぶ」
「はっ! ただちに!」
こうして、私の「おやつ作り」は、またしても「軍事・医療革命」として過大評価されることになった。
だが、冷蔵庫の完成はあくまで第一歩。
中に入れる「中身」がまだ貧弱だ。
次に私が狙うのは、この世界の貧しい食卓を変える「調味料」と「新メニュー」の開発である。
「シルフィ。次は『マヨネーズ』と『炭酸水』を作るぞ」
「……マヨネーズ? 炭酸?」
「ああ。カロリーの味がする魔法のソースと、喉で爆発する水だ」
新たな欲望の扉が、今開かれる。




