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第8話 救国の水流と、生まれ変わりし国王 ~余の尻は、今ここで癒やされた~


その日、ローゼンバーグ領の空気は張り詰めていた。

空は快晴。

しかし、屋敷の前には数百名の騎士と家臣が整列し、誰もが固唾を飲んで街道の彼方を見つめていた。

「……来るぞ」

父、ガルディス公爵が緊張で裏返った声を出した。

地平線の彼方から、砂煙……は上がっていなかった。

私が舗装した道路のおかげで、砂煙一つ立てず、まるで氷上を滑るように王家の馬車列が近づいてくるのが見えた。

本来なら一週間かかる道のりを、わずか三日で走破したらしい。

舗装路の効果もあるが、それ以上に、乗っている人物の「一刻も早く着きたい」という執念が、馬たちを限界まで加速させたのだろう。

馬車が正門をくぐり、玄関前で静かに停止する。

王家の紋章が刻まれた扉が開かれる。

「国王陛下、万歳!」

騎士たちが一斉に跪く。

私も深く頭を下げた。

「……う、うむ……」

馬車から降りてきたのは、この国の支配者、国王陛下その人であった。

立派な髭を蓄え、豪奢なマントを羽織っている。

だが、その顔色は蝋人形のように白く、額には脂汗が浮いていた。

足取りは生まれたての仔馬のように震え、近衛騎士団長に肩を借りなければ立っていられないほどだ。

(……限界だな)

私は冷静に分析した。

長旅の疲労ではない。あれは、痛みに耐え続ける人間の顔だ。

一歩歩くたびに激痛が走るのだろう。彼にとって、歩行とは剣山の上を歩く行為に等しいのだ。

「よくぞ……出迎えてくれた……ガルディス、そして……アレクセイよ……」

陛下が掠れた声で私を呼んだ。

「はっ。遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」

「挨拶は……よい……。余は……余はもう、限界なのだ……」

陛下の目が、すがるように私を見つめた。

その瞳は、国の行く末を憂う賢王の目ではない。

「トイレはどこだ」と訴える、一人の苦しむ男の目だ。

「承知しております」

私は立ち上がり、静かに微笑んだ。

言葉はいらない。今の陛下に必要なのは、外交辞令ではなく、即効性のある鎮痛(洗浄)だ。

「準備は整っております。こちらへ」

私は先導役を買って出た。

陛下は「おお……」と漏らし、私の背中を追うように、必死に足を動かした。

***

案内したのは、屋敷の最奥にある特別室。

防音結界、室温調整、そして最高級の香が焚かれた空間。

その中央に鎮座するのは、シルフィと私が魂を削って完成させた最高傑作。

『ロイヤル・ウォシュレット・マークⅠ(黄金仕様)』

純金箔でコーティングされたボディ。

座面には魔獣の革をなめした、極上の肌触りのカバー。

そして内部には、あの産業スパイ撃退事件で得たデータを元に調整された、究極のマッサージ機能付きノズルが格納されている。

「こ、これが……噂の……?」

陛下は、神々しい光を放つ便器を見て、ゴクリと唾を飲んだ。

「はい。座れば分かります。陛下、どうぞ『玉座』へ」

私は恭しく扉を開け放ち、そして静かに閉じた。

マリーとギュンター、そして近衛騎士たちと共に、廊下で待機する。

長い、沈黙の時間。

廊下には重苦しい空気が漂っていた。

もし、気に入らなければ?

もし、水流が強すぎて陛下が悲鳴を上げたら?

父上は祈るように手を組んでいる。

1分。

2分。

中からは何の音もしない。

防音結界が効いているせいもあるが、あまりに静かだ。

(設定温度は38度。水圧は『ソフト』から始まり、徐々に『リズム』へ移行するプログラムだ……)

私は脳内でシミュレーションを行う。

大丈夫だ。完璧なはずだ。

そして、5分が経過した頃。

中から、微かに音が漏れた。

「おおぉぉぉぉ…………ッ!!!」

それは悲鳴ではなかった。

魂の咆哮。

あるいは、長年の呪縛から解き放たれた瞬間の、歓喜の歌声。

「あ……あぁ……! 温かい……! 優しい……! 余の……余の痛みが、溶けていくようだ……!」

壁越しでも分かる、王の感動。

廊下に控えていた近衛騎士たちが、顔を見合わせて涙ぐんでいる。

彼らも知っていたのだ。主君がどれほど苦しんでいたかを。

「すごい……波が……波が押し寄せてくる……! まるで母なる海に抱かれているようだ……!」

「ああ、そこだ! そこがいいのだ! 誰かある! この製作者を呼べ! いや、称えよ! 国を挙げて称えるのだ!」

独り言(実況)が止まらない。

どうやら、大成功のようだ。

***

さらに10分後。

ガチャリと扉が開いた。

そこから出てきた人物を見て、全員が息を飲んだ。

先ほどまでの、顔面蒼白で死にそうだった老人はいなかった。

そこに立っていたのは、肌艶が良く、背筋がピンと伸び、瞳に若々しい活力が漲る、威厳ある王の姿だった。

「へ、陛下……?」

近衛騎士団長が恐る恐る声をかける。

「うむ。気分は最高だ」

陛下は晴れやかに笑った。

若返った。明らかに10歳は若返っている。

ストレスという毒素が抜け、血行が良くなり、長年の苦痛から解放された人間は、ここまで変わるものなのか。

「アレクセイよ」

「はっ」

陛下が私の前に歩み寄る。

そして、あろうことか、私の手を取り、ガシッと握りしめた。

「礼を言う。そちは余の命を救った」

「もったいないお言葉です」

「いや、大げさではない。余はここ数年、公務に集中することすらままならなかった。座ることが苦痛で、思考が鈍り、夜も眠れなかった。だが……今は違う!」

陛下は黄金のオーラを背負うかのように宣言した。

「今なら、どんな難題にも立ち向かえる気がする! 隣国との交渉も、魔物の討伐も、すべて座ったまま片付けてやろう!」

いや、座ったままはマズいと思いますが。

「この『洗浄機付き便座』……いや、『聖なるホーリー・スプリング』は、我が国の国宝に指定する。そしてアレクセイ、そちには褒美を取らせるぞ。望むものを言ってみよ」

来た。

この瞬間を待っていた。

私は跪き、頭を下げながら、しかし口元だけでニヤリと笑った。

爵位? 領地? 金?

そんなありきたりなものではない。

私が欲しいのは、もっと実用的で、もっと私の「内政」を加速させる権限だ。

「恐れながら、陛下。私は爵位も名誉も望みません」

「無欲なやつだ。では、何を望む?」

「私は……この国の『暮らし』をもっと良くしたいのです。そのためには、魔法と技術を融合させる新たな研究が必要です。つきましては……」

私は顔を上げ、真っ直ぐに王を見据えた。

「王立魔導研究所の『特別顧問』の地位と、国家予算の一部を『生活魔法研究費』として自由に使用する権限。そして、国内のあらゆる素材や人材を徴用できる『開発特権』をいただきたく存じます」

周囲がざわついた。

それは実質、国の技術開発のトップに立つことを意味する。

一介の貴族の子供に与えるには強大すぎる権限だ。

宰相が反対しようと口を開きかけた。

だが、陛下は即答した。

「よかろう!!」

早い。

「そちになら任せられる! いや、そちでなくてはならん! 余の尻を救ったその手腕で、この国のすべてを快適にして見せよ!」

「ははーっ!! ありがたき幸せ!!」

勝った。

これで予算は使い放題。法律の壁も突破できる。

私の頭の中にある「現代日本化計画」――エアコン、冷蔵庫、電子レンジ、インターネット、ゲーム機――それらすべてを実現するための切符を手に入れたのだ。

「まずは……そうだな、王都の城にもあれを100台導入する。すぐに手配せよ!」

「御意。……ああ、陛下。ついでに申し上げますと」

私は商魂たくましく付け加えた。

「お尻だけでなく、お風呂も快適にする準備がございます。ボタン一つで適温のお湯が張り、泡が出る『ジャグジー』なるものも構想中ですが……」

「ジャグジー……? なんだその甘美な響きは……」

陛下の目が再び輝き出した。

どうやら、このパトロンはまだまだ搾り取れそうだ。

こうして、「国王の痔」という国家機密レベルの危機は去った。

そして代わりに、一人の転生者による「国家総魔改造計画」の幕が上がったのである。

宴の夜。

私は久しぶりに、本当に久しぶりに、心からの安眠を得ることができた。

夢の中で、冷えたコーラを飲む自分の姿を見ながら。

(待ってろよ、コーラ。次は冷蔵庫と炭酸水の開発だ……!)


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