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第6話 堕ちた保守派と、王家からの招待状 ~その尻は国境を越えて~


ガチャリ。

重々しい音を立てて、応接間の扉が開いた。

そこから戻ってきたゼフィール伯爵の姿を見て、私は勝利を確信した。

先ほどまでの、威厳に満ちた態度はどこへやら。

彼の足取りは生まれたての子鹿のように頼りなく、顔は憑き物が落ちたかのように穏やかで、そして瞳は遠い桃源郷を見つめるように潤んでいる。

その後ろに続く取り巻きの貴族たちも同様だ。全員が骨抜きにされている。

「……アレクセイ殿」

伯爵が、震える声で私を呼んだ。

「はい、閣下。いかがでしたか? 我が家の『休息室』は」

「あれは……あれは、休息室などという生易しいものではない……」

伯爵はふらふらと歩み寄り、ガシッと私の両手を握りしめた。

その手は熱く、汗ばんでいる。

「あれは、聖域サンクチュアリだ」

「はあ」

「温かな座面。それは母の温もり。流れ落ちる水流。それは清めの儀式。そして最後に訪れる、柔らかな温水の慈愛……! 私は、あの個室の中で、人生で初めて真の『浄化』を体験したのだ!」

伯爵は熱弁した。

どうやら、ウォシュレットの洗浄機能を「水の精霊による洗礼」か何かと勘違いしたらしい。まあ、あながち間違ってはいない。汚物は消毒されたのだから。

「それに、あの紙! なんだあの紙は! 絹よりも柔らかく、雲のように繊細だ。あれを使った後では、今まで私が使っていた高級布など、紙やすりも同然だ!」

「気に入っていただけて何よりです」

「アレクセイ殿! いや、アレクセイ先生!」

呼び方が変わった。

「頼む! あの装置を、私の屋敷にも設置してくれ! いや、金ならいくらでも出す! 言い値で買おう! あの『聖域』なしでは、私はもう……明日からの排泄行為に耐えられない!」

「私もです! ぜひ我が家にも!」

「私なんか、感動のあまり二回も流してしまいました!」

取り巻きたちも次々と懇願してくる。

先ほどまで「伝統がどうこう」言っていた口が、今は「ウォシュレット賛歌」を歌っている。

人間、快楽には勝てないのだ。特に、毎日の生理現象に関わるストレスが解消されるとなれば、思想信条など紙切れ(シングル)よりも薄い。

私は内心でほくそ笑みながら、困ったような顔を作った。

「しかし閣下、先ほど『便利さは人を堕落させる』と……」

「前言撤回する!!」

伯爵は叫んだ。

「これは堕落ではない! 進化だ! いや、貴族が貴族であるために必要な『嗜み』だ! 尻を清潔に保たずして、何が貴族か! そうだろう!?」

「おっしゃる通りです」

私は頷いた。

これで、王都の保守派は落ちた。

彼らが味方につけば、私の内政チートに対する批判は封殺できる。

「分かりました。現在、生産体制を整えている最中です。初期ロットが完成次第、優先的に閣下のお屋敷へ納品させましょう」

「おお! 恩に着る! ……して、この感動を国王陛下にもお伝えせねばなるまい。これは国の宝だ」

「え?」

その言葉に、私はピクリと眉を動かした。

国王? ちょっと待て。話が大きくなりすぎている。

***

ゼフィール伯爵たちが帰った後、ローゼンバーグ家は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

伯爵が王都に戻るなり、社交界で「ローゼンバーグ家のトイレがヤバい」「あれを体験せずに人生を語るな」と布教活動を行ったらしい。

おかげで、我が家には連日、貴族たちからの問い合わせや、設置予約の申し込みが殺到することになった。

「マスター、過労死する」

工坊ファクトリーの隅で、シルフィが死にそうな顔で呟いた。

彼女の周りには、山のような設計図と、失敗した陶器の破片が散乱している。

「すまんシルフィ。だが、君しかいないんだ。君のその『変態的なこだわり』を持った製品じゃなきゃ、彼らは満足しない」

私は冷やした果実水(冷蔵庫もどきで冷やしたもの)を彼女に差し出した。

シルフィはそれを受け取り、一気に飲み干す。

「……プハ。うまい。……で、追加注文は?」

「公爵家から三台、侯爵家から五台。あと、豪商たちからも予約が入ってる。とりあえず百台だ」

「無理。私一人じゃ、百年かかる」

シルフィはジト目で私を見た。

確かにそうだ。彼女は優秀だが、体は一つしかない。

今は奴隷市場から買ってきた手先の器用な亜人たちを助手にしているが、最終的な「魔導回路の調整」と「ノズルの角度調整」は彼女にしかできない。

「工程を分けよう。単純な陶器の成形は街の職人に。配管はドワーフたちに。君は最後の『心臓部』の組み込みと、品質管理チェックだけをしてくれ」

「……品質管理。響きがいい」

シルフィは少し機嫌を直したようだ。彼女は他人の仕事のアラを探して修正するのが大好きなのだ。

「それと、紙だ。トイレットペーパーの消費量が予想以上に多い。製紙工場を拡張する必要がある」

「川沿いに水車小屋を建てた。パルプの粉砕を自動化する。……マスター、私、もっと『良い紙』作りたい。四枚重ね(クワッド)に挑戦する」

「やめろ、トイレが詰まる。今は普及版ダブルの安定供給が先決だ」

そんな生産会議をしていた時のことだ。

「アレクセイ様!!」

父上、ガルディス公爵が血相を変えて飛び込んできた。

父がこれほど慌てるのは珍しい。オークの大群が攻めてきた時でさえ、ワインを飲んで笑っていた男だ。

「どうしました、父上。またトイレが詰まりましたか?」

「違う! 王宮からだ! 王宮から『使い』が来た!」

「王宮……?」

私は嫌な予感がした。

先日、ゼフィール伯爵が言っていたことが現実になったのか。

「陛下の勅使だ。今すぐ、応接間へ来い!」

***

応接間にいたのは、近衛騎士団の副団長だった。

全身を銀の鎧で固めた彼は、直立不動で私を迎えた。

「アレクセイ・フォン・ローゼンバーグ殿とお見受けする」

「はい。お初にお目にかかります」

「国王陛下より、親書を預かって参った」

副団長は恭しく書状を差し出した。

父が震える手でそれを受け取り、封を切る。

中身を読んだ父の顔が、青ざめ、そして次に紅潮した。

「……アレクセイ。陛下が、我が領地へ『行幸』なされるそうだ」

「は?」

私は耳を疑った。

行幸。つまり、王様がわざわざここまで来るということだ。

王都からこの辺境までは、馬車で片道一週間の距離がある。あの悪路を通って?

「理由は……やはり、あれですか」

「うむ。『ローゼンバーグ卿が開発せし、水を操る魔法の座椅子。その噂を聞き、余も大いに興味を持った。ついては、次回の視察の折に立ち寄り、その真価を確かめたい』とのことだ」

やはりトイレか。

一国の王が、トイレを見るために国を横断してくるのか。

この国は平和だな。

だが、副団長が低い声で補足した。

「……実は、ここだけの話だが」

彼は声を潜め、周囲を警戒してから私に耳打ちした。

「陛下は長年、重度の『痔』に悩まされておられる」

「あ……」

すべてを察した。

王様、切実だった。

硬い馬車の揺れ。硬い椅子。そして硬い紙。

それらは王様のデリケートな部分を長年虐め続けてきたのだろう。

そこに届いた「水で優しく洗う椅子」と「雲のような紙」の噂。

それは彼にとって、伝説の秘薬エリクサーよりも魅力的に響いたに違いない。

「ゼフィール伯爵からの報告を聞いた陛下は、会議中にも関わらず立ち上がり、『余は行くぞ! その聖域へ!』と叫ばれたそうだ」

「……なるほど」

「ローゼンバーグ殿。これは国家の重大事だ。もし陛下の『お悩み』を解決できたなら、君は王国の救世主となるだろう。だが、もし期待外れであったり、粗相があれば……」

副団長は言葉を濁したが、その目は笑っていなかった。

不敬罪、あるいは国家反逆罪。

私の首が物理的に飛ぶか、あるいは王様の尻が爆発するか。

デッド・オア・アライブだ。

「承知いたしました」

私は覚悟を決めた。

逃げ道はない。ならば、やることは一つだ。

「父上、迎撃……いえ、お迎えの準備をします。シルフィを呼んでください」

「な、何をさせる気だ?」

「王室専用、特別仕様機ロイヤル・モデルの開発です。金箔張りで、マッサージ機能付きの最高傑作を作ります」

私は拳を握りしめた。

私の快適な引きこもりライフを守るためには、国王という最強のパトロンが必要だ。

彼の尻を陥落させれば、私の予算は青天井。エアコンも、冷蔵庫も、ゲーム機も、国家予算で作れるかもしれない。

「待っていてください、陛下。貴方の尻を、私が救ってみせます」

こうして、私の内政改革は、国王の尻をかけた「聖戦」へと突入していくのだった。


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