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第5話 白亜の玉座と、王都からの老害 ~排泄の快楽を知らぬ者たちへ~


それから一ヶ月。

私の部屋の隣にあった空き部屋は、神聖なる神殿へと作り変えられていた。

「……美しい」

私は、目の前に鎮座する「それ」を見て、感嘆の溜息を漏らした。

純白の輝き。

滑らかな曲線。

一切の曇りなく磨き上げられた陶器の肌。

それは、異世界に降臨したオーパーツ。

『全自動洗浄機能付き水洗トイレ(試作一号機)』である。

「報告します、マスター」

背後から、ふらふらと幽霊のようにシルフィが現れた。

彼女の目の下には濃い隈ができているが、その瞳は以前よりもギラギラと輝いている。不健康なはずなのに、なぜか充実感に満ち溢れていた。

「便座の表面研磨、誤差0.001ミリ以内に収めました。肌に触れた瞬間、摩擦係数がゼロに感じるレベルです。ヒーター機能の魔導回路も安定。座った瞬間、人肌より少し温かい37度に設定してあります」

「完璧だ、シルフィ。君は天才だ」

「それと、これ」

彼女が震える手で差し出したのは、真っ白なロール状の紙だった。

私は恭しくそれを受け取り、指先で撫でた。

ふわり。

「……っ!」

柔らかい。まるで赤子の頬のようだ。

これが、私が求めていた『ダブル(二枚重ね)』の質感!

羊皮紙のようなゴワゴワ感も、木の葉のような頼りなさもない。適度な強度と、極上の吸水性、そして肛門デリケートゾーンへの優しさを兼ね備えた奇跡の紙。

「パルプの繊維を、風魔法でミクロ単位までほぐしてから再構築しました。薬剤の代わりにスライムの粘液を希釈して混ぜることで、保湿性も確保しています」

「スライム……! その手があったか!」

私はシルフィの手を両手で握りしめた。

「ありがとう。君のおかげで、私は今日から人間としての尊厳を取り戻せる」

「……ん。いいデータが取れた。次のロットはもっと薄くできるかも」

彼女はブツブツ言いながら、工坊(元物置)へと戻っていった。彼女もまた、開発という名の沼にハマっているらしい。

さあ、試運転だ。

私は震える手でズボンを下ろし、その白亜の玉座へと腰を下ろした。

「あ……」

声が出た。

冷たくない。冬の朝、便座に座った瞬間の「ヒヤッ」とするあの絶望がない。

温かい。まるで母の腕に抱かれているようだ。

用を足し、横にあるレバー(魔石スイッチ)を押す。

ジャーーーーーッ……

水流が渦を巻き、汚物を瞬時に飲み込んでいく。

臭い戻りもない。完璧な水封トラップ構造だ。

そして仕上げのウォシュレット。温水が優しく、しかし的確にターゲットを洗い流す。

「……勝った」

私は天井を見上げ、勝利を確信した。

魔王? 世界征服? どうでもいい。

このトイレがある限り、この領地は楽園エデンだ。

だが、私の至福の時間は、無粋なノックの音によって破られた。

「アレクセイ様! 大変です!」

マリーの声だ。切羽詰まっている。

「なんだ、今私は『儀式』の最中だぞ」

「王都から! 王都から視察団がいらっしゃいました! しかも、あの『伝統文化保存協会』のゼフィール伯爵です!」

私は眉をひそめながらズボンを上げた。

ゼフィール伯爵。名前は聞いたことがある。

「古き良き伝統を守ろう」というスローガンのもと、新しい技術や魔法の導入に片っ端から反対する、頭の固い老人たちの親玉だ。

***

応接間に行くと、父上が苦虫を噛み潰したような顔で座っていた。

その向かいには、豪奢だが時代遅れな服を着た、神経質そうな老人が座っている。彼がゼフィール伯爵だろう。後ろには取り巻きの貴族たちが数名控えている。

「遅いぞ、アレクセイ君」

私が部屋に入るなり、伯爵は扇子で口元を隠しながら嫌味ったらしく言った。

「お初にお目にかかります、ゼフィール閣下」

「ふん。挨拶はよい。それより……ここに来るまでの道中、驚いたよ」

伯爵は鼻を鳴らした。

「なんだね、あの道は? 灰色の、味気ない石の板のような地面。土の温かみも、草花の風情もない。あんな無機質なものが、我が国の美しい景観を損ねているとは思わんかね?」

「あれは舗装路と言いまして、馬車の移動を快適にするための……」

「快適? 軟弱な!」

伯爵が机を叩いた。

「多少の揺れこそが旅の醍醐味! 泥に足を取られるのもまた、自然との対話だ! それを、魔法で無理やりねじ伏せるなど……嘆かわしい! 近頃の若者は、苦労を知らなすぎる!」

出たよ。

「昔は良かった」おじさんだ。

自分が快適な馬車に乗っているくせに、他人の苦労を「風情」という言葉で美化するタイプだ。

「それに、聞けば下水道工事? とやらをしているそうだな。地面を掘り返し、汚い管を埋めるなど、大地の精霊への冒涜だとは思わんか?」

「しかし閣下、衛生環境を改善しなければ疫病が……」

「疫病など、祈りと気合で防ぐものだ! 便利さを追い求めれば、人は堕落する。君のやっていることは、このローゼンバーグ家の高貴な精神を泥で汚す行為だよ」

伯爵は勝ち誇ったように演説を続けた。

父上は反論しようとしていたが、相手は王都の有力者だ。下手に怒らせれば、政治的な嫌がらせを受けかねない。

私は静かに微笑んだ。

怒り? いや、湧いてこない。

なぜなら、彼らは「知らない」からだ。

文明の味を。圧倒的な快適さを。

「おっしゃる通りかもしれません、閣下」

私は恭順の意を示すように頭を下げた。

「我々は少し、先走りすぎていたようです。伝統の重みを理解できていませんでした」

「ほう、分かればいいのだよ、分かれば」

伯爵は機嫌を良くして頷いた。

「ところで閣下。長旅でお疲れでしょう。お茶の前に、手や顔を洗われてはいかがですか? 実は、新しく作った『休息室』がありまして」

私はあえて「トイレ」とは言わずに勧めた。

「ふむ、そうだな。この屋敷の古臭い手洗い場ならば、風情があって悪くないだろう」

「ええ、ええ。きっと気に入っていただけると思います。特別に、閣下のためにご用意した『最も落ち着く場所』です」

私はマリーに目配せをした。

彼女は一瞬「え、あそこに通すんですか?」という顔をしたが、すぐに私の意図を察して、意地悪く微笑んだ。

「こちらへどうぞ、皆様」

ゼフィール伯爵と、その取り巻きたち数名が立ち上がる。

彼らはまだ知らない。

その扉の向こうに、彼らの「常識」と「価値観」を粉々に破壊する、純白の悪魔が待ち受けていることを。

私は心の中でカウントダウンを始めた。

3。

2。

1。

廊下の奥から、ガチャリと扉が開く音がした。

そして、数秒の静寂の後。

「な、なんだこれはぁぁぁぁッ!?!?」

「ひぃぃぃッ! 水が! 水が勝手に流れたぞぉぉ!?」

「あ、暖かい!? 便座が生きているのか!?」

老人が腰を抜かす絶叫と、未知の体験に対する驚愕の悲鳴が、屋敷中に響き渡った。

応接間に残された私と父上は、顔を見合わせた。

「……アレクセイよ」

「はい、父上」

「あの老人たち、生きて帰れると思うか?」

「さあ。ですが、一度『あの快楽』を知ってしまえば……もう二度と、冷たくて臭い壺には戻れないでしょうね」

私は優雅に紅茶を啜った。

文明開化の音がする。

それは、頑固な老人のプライドが、水流とともに流されていく音だった。


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