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第3話 トイレットペーパーなき革命と勘違いの舗装路

帰りの馬車は、不気味なほど静かだった。

物理的な意味で、だ。

行きはあれほど私の尻を虐待した振動が、嘘のように消え失せている。

先ほど私が魔法で作り出した「即席アスファルト(ただ土を圧縮して岩石化させたもの)」の上を、馬車は氷の上を滑るように滑らかに進んでいた。

時折、馬の蹄の音が軽快に響くのみ。

「……素晴らしい」

私は思わず呟いた。

これだ。私が求めていたのはこれなのだ。

窓の外の景色がブレずに見える。手元の水筒(中身はぬるい水だが)が揺れてこぼれることもない。

これなら、移動中に読書もできるし、居眠りもできる。

「若様……」

向かいの席で、騎士団長のギュンターが震える声を出した。

彼はさきほどから、まるで神話の怪物を目撃したかのような顔で私を凝視している。

「なんだ、ギュンター」

「あの魔法は……一体……。土属性の最上位魔法に『城壁構築』というものがありますが、あれほど広範囲を一瞬で、しかもあのように平滑に変えるなど……聞いたことがありません」

「ただの土木作業だ。大げさだな」

私は窓の外を眺めたまま、さらりと答えた。

前世の知識で「分子レベルの結合」をイメージしながら魔力を流しただけだ。こちらの世界の魔法使いは「土よ、壁となれ」といった抽象的なイメージで魔法を使うから効率が悪いのだ。

「土木作業、でございますか……。オークを一撃で空の彼方へ葬り去る土木作業など……」

ギュンターは額の汗を拭った。

まあ、少しやりすぎたかもしれない。でも、お尻の平和のためには必要な武力行使だった。

屋敷に到着すると、そこには既に異様な熱気が渦巻いていた。

先行して戻った伝令の騎士が、私の所業を報告していたらしい。

玄関ホールには、父である公爵ガルディスをはじめ、家令、文官、魔法顧問たちが勢揃いして私を待ち構えていた。

「アレクセイ!!」

馬車を降りるや否や、父がドドドと地響きを立てて駆け寄ってきた。

そして、ガシッと私の両肩を掴む。その力強さに、私の華奢な貴族ボディがきしむ。

「ただいま戻りました父上。ただの視察のつもりでしたが……」

「見たぞ! 余も早馬で現場を見てきた!」

父の目は血走っていた。いや、興奮で輝いている。

「あの道! なんだあれは! まるで古代遺跡の床のように硬く、滑らかではないか! しかも、森の魔物が寄り付かない結界の効果まであると報告を受けているぞ!」

「ああ、それはついでです」

道路を硬化させる際、魔力が残留するようにした。微弱な魔力波を嫌って、下級の魔物は近寄らなくなる。いわば「魔物除け超音波」の魔法版だ。虫除けスプレー程度の感覚で付与したものである。

「ついでだと……!? 街道の安全確保は、我が領、いや王国全体の悲願だぞ!?」

父は空を仰ぎ、感極まったように叫んだ。

「それを、わずか十六歳の息子が……散歩のついでに成し遂げるとは! 天才か! お前は神の愛し子なのか!」

「いえ、ただ尻が痛かったので」

「尻……? ああ、そうか! 『しり』とは『知理ちり』、すなわち地理的な要衝を見抜いたということか! 流通の要となる道を憂いていたのだな!」

「……はあ」

訂正するのも面倒なので、私は曖昧に頷いた。

どうやらこの世界の人々は、私の言葉を都合よく解釈するスキルがカンストしているらしい。

そのまま私は、大会議室へと連行された。

長机の上には、領地の地図が広げられている。

「アレクセイ様、あのような魔法が使えるのであれば、ぜひとも国境付近の砦の補強を!」

「いえ、まずは鉱山へのルート開拓を!」

家臣たちが口々に要望を叫ぶ。

私はため息をつき、椅子に深く座り直した。

彼らの視点はズレている。

砦? 鉱山?

そんなものは二の次だ。もっと優先すべき、生命に関わる重大な問題があるだろう。

私は懐から、昨夜の夜なべして書き上げた羊皮紙の束を取り出し、机の上に放り投げた。

「静まれ」

私の低い声(変声期が終わったばかりの良い声だ)が響くと、会議室は水を打ったように静まり返った。

「お前たちの案も悪くはない。だが、視点が低い」

私は立ち上がり、羊皮紙の一枚目を指差した。

そこには、屋敷と城下町の詳細な図面、そして地下に張り巡らされた複雑なパイプラインの絵が描かれている。

「これは……?」

内政官の男が眼鏡の位置を直しながら覗き込む。

「『上下水道完全完備計画』だ」

私は宣言した。

「げ、げすい……?」

「そうだ。現状、この領地の衛生観念は終わっている。排泄物は壺に溜め、あろうことか窓から裏路地に捨てている者もいると聞く。貴族街ですら、風向きによっては悪臭が漂う。これは異常事態だ」

私は熱弁を振るった。

正直に言おう。

臭いのだ。

この世界は、とにかく臭い。

人々は香水で誤魔化しているが、根本的な解決になっていない。私が求めているのは、無臭の清潔な空間だ。そして何より、ボタン一つで水が流れ、お尻を洗ってくれる「ウォシュレット」の実現だ。

そのためには、まず巨大な浄化施設と、各家庭への配管、そして水源の確保が必要になる。

「私は、この悪臭を許さない。すべての家に清潔な水を送り、汚れた水を地下で回収し、浄化して川に返す。そのための水路建設と魔導ポンプの開発を最優先とする」

私は、自分が快適にトイレに行きたい一心で力説した。

紙がないのも大問題だ。今は羊皮紙や布、あるいは謎の葉っぱを使っているが、痔になるリスクが高すぎる。柔らかいトイレットペーパーの開発も急務だ。

「……」

家臣たちは沈黙した。

ポカンとしている。

まあ、そうだろう。「トイレを綺麗にしたい」などと大貴族の嫡男が熱く語れば、呆れられるに違いない。

しかし、私は引かないぞ。これは私の尊厳に関わる問題なのだ。

沈黙を破ったのは、最年長の家令だった。

彼は震える手で眼鏡を外し、目頭を押さえた。

「……なんと……なんと慈悲深い……」

は?

「アレクセイ様は、スラムの民や、疫病に苦しむ子供たちのことを考えておられるのですね……!」

家令の声が震える。

「確かに、裏路地の不衛生さは疫病の温床となっております。昨年の夏も、汚れた水が原因で流行り病があり、多くの民が命を落としました。しかし、下水道の整備など、莫大な費用と技術が必要で、王都ですら実現できていない夢物語……」

他の文官たちも、ハッとした顔になった。

「そうか、若様はただ単に『臭い』と言っているのではない。その裏にある『死の影』を見ているのだ!」

「軍事よりも、経済よりも、まずは民の命! 衛生環境の改善こそが国力の礎であると!」

「ああ、我々は恥ずかしい! 砦だ鉱山だと、目先の利益ばかりを追っていた!」

おい、待て。

そこまで考えてない。

私はただ、自分のトイレタイムを優雅にしたいだけだ。

「若様……!」

魔法顧問の老人が、涙ながらに立ち上がった。

「水魔法と土魔法を組み合わせれば、理論上は可能です! しかし、それには精密な魔力操作と、膨大な魔石が必要になります。公爵家の財産を切り崩すことになりますが……」

全員の視線が、父ガルディスに集まる。

父は腕を組み、目を閉じていた。

そして、カッと目を見開いた。

「許可する!!」

机を叩き割りそうな勢いで、父が叫んだ。

「アレクセイの言う通りだ! 民が健康でなくては、領地の繁栄などありえん! 金などいくらでも使え! なんなら王家に借金してでも実現させるぞ!」

「ははーっ!!」

家臣たちが一斉に平伏する。

会議室は、謎の一体感と感動に包まれていた。

私は呆然と立ち尽くした。

……まあ、いいか。

結果として、ウォシュレットへの道が開かれたのだから。

「では、すぐに着工してください。あと、柔らかい紙の研究も」

「おお! 紙まで! 知識の普及のためですね! さすが若様!」

「(いや、尻を拭くためなんだが……)」

こうして、私の個人的な欲望(トイレ改革)は、領地全体を巻き込む「公衆衛生革命」として始動することになった。

だが、私はまだ知らない。

この工事が、のちに「魔法産業革命」の引き金となり、私が「水の賢者」として歴史の教科書に載ることになる未来を。

今はただ、一日も早く、あの硬い葉っぱでお尻を拭く生活から抜け出したいだけなのだ。


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