第2話 拷問器具としての最高級馬車と泥塗れの常識
正面玄関には、ローゼンバーグ家の紋章である「剣と薔薇」が金箔で描かれた、巨大な馬車が待機していた。
四頭立ての白馬。漆塗りのボディ。御者はきっちりとした制服に身を包んでいる。
誰がどう見ても、威厳と富を象徴する乗り物だ。
けれど、私にはあれが豪華な棺桶か、あるいは処刑台への移送車にしか見えなかった。
「若様、どうぞ」
護衛騎士団長のギュンターが、武骨な手で扉を開ける。
彼は身長二メートル近い巨漢で、顔には歴戦の古傷が走っている。私に対する忠誠心は厚いが、残念ながら筋肉で物事を考えるタイプだ。
「……ああ。ありがとう、ギュンター」
私は憂鬱な気持ちを隠し、優雅にステップを上がった。
車内もまた、無駄に豪華だった。深紅のビロードが張られた座席はふかふかだが、問題はそこではない。
「出発する!」
御者の掛け声とともに、鞭が鳴る。
馬がいななき、車輪が動き出す。
ガタンッ!
「……っ!」
動き出した瞬間、下から突き上げるような衝撃が私の尻を襲った。
石畳の敷かれた屋敷の敷地内でさえこれだ。
車軸と車体の間には、衝撃を吸収するための原始的な革のベルトが渡されているだけで、サスペンションも空気入りタイヤも存在しない。木の車輪に鉄の枠をはめただけのタイヤは、地面の凹凸をダイレクトに拾い、それを余すことなく乗客の身体へと伝達する。
屋敷の門を出た瞬間、その地獄は加速した。
ガタガタガタガタッ! ゴゴンッ! ドガッ!
「ぐ……っ、うう……」
私は必死に手すりを掴み、歯を食いしばった。
舌を噛まないように口を閉じているが、内臓がシェイカーの中身のように撹拌されているのが分かる。
「若様? いかがなさいましたか? 顔色が優れないようですが」
向かいの席に座ったギュンターが、不思議そうな顔で尋ねてくる。
彼は平然としていた。鍛え抜かれた体幹を持つ彼にとって、この程度の揺れは揺れのうちに入らないのだろう。あるいは、この世界の人間は三半規管が鈍感に進化しているのかもしれない。
「……いや、少し揺れるなと思ってね」
「ああ、昨日の雨で道がぬかるんでおりますからな。しかしご安心を。この馬車は公爵家御用達、最高級の木材を使用しており、決して壊れません!」
「私が心配しているのは馬車の耐久性ではなく、私の尻と腰の耐久性だ……」
小声で呟いた言葉は、車輪の轟音にかき消された。
窓の外を見る。
領地の風景が流れていく。
広大な小麦畑。牧歌的な農村。遠くに見える山々。
美しい景色だ。絵画のように美しい。
だが、私たちが走っている「街道」は、ただ土が踏み固められただけの獣道に毛が生えたような代物だった。
雨が降れば泥沼になり、晴れれば乾燥して轍が固まり、凶悪な溝となる。
馬車はその溝に足を取られるたびに、大きく傾き、跳ね上がる。
「……ギュンター。一つ聞きたいのだが」
私は揺れに合わせて体を動かし、衝撃を逃がしながら尋ねた。
「はっ、なんでしょうか」
「なぜ、道を舗装しない? これだけの揺れだ。荷物を運ぶ商人たちも苦労しているだろう。卵など運べば全滅だぞ」
「舗装、でございますか?」
ギュンターはきょとんとした顔をした。まるで、私が「なぜ空を飛ばないのか」と聞いた時のような反応だ。
「石を敷き詰めるなり、魔法で固めるなり、やりようはあるはずだ。我が家には金も、土魔法の使い手もいる」
「ああ、なるほど。若様らしい慈悲深いお考えです。しかし……それは無駄というものです」
「無駄?」
私は眉をひそめた。インフラ整備が無駄とはどういうことだ。
「道など綺麗にしても、どうせ『あいつら』が壊しますから」
ギュンターが顎でしゃくった先、街道の脇に広がる森の奥から、不気味な咆哮が聞こえた。
「魔物……か」
「はい。特にこの時期は、アースワームやオークが活発です。奴らは平らな場所を好んで掘り返しますし、石畳など敷けば、それを投石の材料に使われるだけです。過去に何度か整備を試みた領主もいたそうですが、維持費がかかりすぎて破綻しました」
ギュンターは肩をすくめた。
「それに、道が悪いほうが、敵国や盗賊の進軍を遅らせることができます。道が悪いのは、ある意味で天然の防壁なのです」
なるほど。
それがこの世界の「常識」か。
魔物という脅威がある以上、交通網を整備することはリスクであり、コストに見合わない。
だから人々は、この骨が砕けそうな揺れを「仕方ないもの」として受け入れている。
ドオンッ!
その時、特に大きな衝撃が走り、私の体は宙に浮いた。
着地した拍子に、尾てい骨に電撃のような痛みが走る。
「~~~~っ!!」
私は声にならない悲鳴を上げ、涙目でうずくまった。
(ふざけるな……!)
痛みに耐えながら、私の内側でどす黒い怒りが湧き上がってくる。
防壁? 維持費? 知ったことか。
私はただ、快適に移動したいだけなんだ。
このままでは、私は屋敷から一歩も出られなくなる。隣町へ買い物に行くことすら命がけだ。
通販がないこの世界で、物流が死んでいるということは、私が欲しい「現代の物資」や「珍しい食材」が手に入らないことを意味する。
コーラの原料になりそうなスパイスも、カカオも、米も、この悪路のせいで届かないかもしれないのだ。
(許せない……。私の快適な引きこもりライフを脅かすものは、魔物だろうが常識だろうが、すべて排除する!)
私はギリリと奥歯を噛み締めた。
「ギュンター」
「はっ! やはりお加減が……屋敷に戻りますか?」
「いいや」
私は顔を上げた。
痛みで少し潤んだ瞳を、ギュンターは「憂国の士の瞳」と勘違いしたかもしれない。
だが、そこに宿っているのは、ただの強欲な執念だ。
「止めてくれ。少し、外の空気を吸いたい」
「しかし、ここは森の近くです。危険が……」
「構わない。止めろ」
私の命令には絶対的な響きがあったらしい。
ギュンターは慌てて御者に合図を送り、馬車を停止させた。
馬車を降りる。
革靴が、ぬちゃりとした音を立てて泥に沈んだ。
最悪の感触だ。最高級の革靴が汚れていく。
私は街道を見渡した。
見渡す限りの泥濘。無数の轍。
これが、この国の血管だというのか。これでは血栓だらけで壊死してしまう。
「若様、あまり馬車から離れないでください」
護衛の騎士たちが剣の柄に手をかけ、周囲を警戒しながら展開する。
私は彼らを無視して、道端にしゃがみ込み、泥を指ですくった。
「……土の質は悪くない。粘土質だ。焼き固めればそれなりの強度になる」
「若様?」
ブツブツと呟く私に、ギュンターが怪訝な声をかける。
その時だった。
「グルルル……」
森の茂みがガサガサと揺れ、生臭い風が吹いた。
騎士たちの空気が一瞬で張り詰める。
「前方! オーク三体! 抜刀せよ!」
ギュンターの怒号が響く。
茂みから飛び出してきたのは、豚の顔をした巨人のような魔物、オークだった。
粗末な棍棒を持ち、涎を垂らしながらこちらを睨んでいる。
「チッ、街道まで出てきやがったか! 若様、お下がりください!」
騎士たちが剣を構え、魔法使いが杖を掲げる。
「炎の矢!」
数人の騎士が初歩的な攻撃魔法を放つ。炎がオークの皮膚を焼くが、分厚い脂肪に阻まれ、決定打にはならない。
「硬い! 前衛、盾を構えろ! 衝撃に備えろ!」
戦闘が始まった。
泥に足を取られながら戦う騎士たち。
足場が悪いため、踏ん張りが効かず、動きが鈍い。オークの棍棒を避けるのも一苦労だ。
泥飛沫が舞い、怒号と悲鳴が交差する。
それを見て、私は確信した。
(非効率だ)
なぜ、わざわざ泥の中で戦う?
なぜ、わざわざ敵の土俵に合わせてやる?
私の苛立ちは頂点に達していた。
尻は痛いし、靴は泥だらけだし、目の前には豚。
もう、我慢の限界だ。
「どけ」
私は短く告げると、前に進み出た。
「若様!? なりませぬ! 危険です!」
ギュンターが叫ぶが、私は止まらない。
右手を、オークたちの足元、あの汚らしい泥の地面に向ける。
私の中にある膨大な魔力が、指先を通して脈動するのを感じた。
攻撃魔法? 爆発?
そんなものは芸がない。
私がやりたいのは「整地」だ。
イメージしろ。
前世で見た、あのアスファルト舗装の重機たちを。
ロードローラーの重量感を。コンクリートミキサー車の回転を。
「【土壌硬化】……いや、もっと高密度に……【路盤形成】」
私の口から紡がれたのは、この世界には存在しない独自の呪文。
瞬間。
ズズズズズズズ……ッ!!!
地面が唸りを上げた。
オークたちの足元の泥が、まるで生き物のようにうごめき、一瞬にして水分を排出した。
土が圧縮され、石のように、いや、鉄のように硬く変質していく。
「ブゴッ!?」
足元の泥がいきなりカチコチの岩盤に変わったことで、踏ん張っていたオークたちがバランスを崩して転倒した。
それだけではない。
私の魔力は、街道の泥を飲み込みながら一直線に伸びていく。
幅十メートル、長さ数百メートルにわたり、地面が水平にならされ、灰色に硬化していく。
でこぼこだった獣道が、一瞬にして「ハイウェイ」へと変貌したのだ。
「な……っ!?」
騎士たちも、オークたちも、動きを止めた。
誰もが目を見開き、ありえない光景に絶句している。
転んだオークたちが起き上がろうとする。
だが、私はまだ手を下ろしていない。
「道は作った。あとは掃除だ」
舗装された綺麗な地面に、汚いオークは似合わない。
私は手のひらを握り込んだ。
「【排除】」
ドォォォォンッ!!
舗装された地面の一部が、バネ仕掛けのように勢いよく隆起した。
ちょうどオークたちが倒れている部分だ。
巨大な石柱が地面から突き上げられ、オークたちを遥か彼方の空へと弾き飛ばした。
まるで、ピンボールのように。
「ブギーーーーーッ!!!」
空の彼方で星になったオークを見送り、私はふぅと息を吐いた。
そして、カツ、カツ、と心地よい音を立てて、出来たばかりの舗装路を歩く。
うん、平らだ。
これなら馬車も揺れない。
振り返ると、ギュンターを含む騎士たち全員が、顎が外れそうなほど口を開けて私を見ていた。
「若様……これは……一体……?」
「道が悪かったから直した。それだけだ」
私は靴についた泥を払いながら、何食わぬ顔で言った。
さあ、勘違いの始まりだ。




