第13話 皇女の汗と湯けむりの楽園 ~戦闘用火魔法は給湯器のために~
王都から領地に戻って数日。
ローゼンバーグ家の屋敷は、ある深刻な問題に直面していた。
暑いのだ。
盆地特有の湿気を帯びた熱気が、屋敷全体を蒸し風呂のように包み込んでいる。
「……暑い! もう無理! わらわは帰る!」
厨房の勝手口で、帝国第二皇女セシリアが叫んだ。
彼女は今、腕まくりをして、巨大なボウルに入ったハンバーグのタネを捏ねさせられていた。額には汗が滲み、自慢の赤髪も湿気でペタリと張り付いている。
「帰るのは勝手ですが、今日の夕食は『チーズインハンバーグ』ですよ。中からとろりとチーズが溢れ出す新作ですが、食べずに帰りますか?」
私が冷たく言い放つと、セシリアはピタリと動きを止めた。
「……くっ。卑怯よ、アレクセイ。わらわの胃袋を人質に取るなんて」
「人聞きが悪い。働かざる者食うべからずです。それに、文句を言いたいのは私の方だ」
私はシャツの襟元をパタパタと仰いだ。
汗で肌着が張り付く感覚。最悪だ。
この世界の入浴事情は貧弱だ。
貴族階級でも、お湯で絞った布で体を拭くか、桶にお湯を溜めて行水する程度。全身を肩までお湯に浸かる習慣がない。
「風呂だ……」
私は虚空を見つめて呟いた。
「え?」
「広い湯船に、なみなみと注がれたお湯。手足を伸ばして浸かり、『あー極楽』と呻く。それが必要だ。日本人の魂がそれを求めている」
「ニホンジン? 何よそれ」
「東方の賢者のことさ。……よし、シルフィ!」
私は工房に向かって声を張り上げた。
「……ん。呼んだ?」
油まみれの作業着を着たシルフィが、スパナ片手に現れた。
「風呂を作るぞ。それも、ただのタライじゃない。循環ろ過装置と、自動追い焚き機能、そしてジェット噴射を備えた『魔導大浴場』だ」
「……お風呂。賛成。最近、作業着が臭う気がする」
シルフィが自分の匂いをクンクンと嗅ぐ。
美少女エルフから油と鉄の匂いがするのは、それはそれで興奮するマニアもいるかもしれないが、私は清潔なエルフが好きだ。
「でもマスター。お湯を沸かす熱源が足りない。魔石だとコストがかかりすぎる」
そう、そこが問題だった。
大量の水をお湯に変え、それを維持するには莫大なエネルギーが必要だ。
薪を燃やすボイラーでは温度調節が難しいし、煙が出る。
私は悩み、そして視線を横に向けた。
そこで不満そうにハンバーグを捏ねている、とてつもない魔力を持った少女に。
「……あ」
「……あ」
私とシルフィの視線が重なった。
ここにいた。
無限の再生可能エネルギーが。
「な、何よ。その嫌な目は」
セシリアが後ずさりする。
「セシリア殿下。貴女は帝国の宮廷魔導師から、英才教育を受けていましたよね?」
「ええ、そうよ。わらわの『紅蓮の炎』は、一撃で城門を焼き払うわ」
「素晴らしい。その才能、私の風呂のために使いませんか?」
「は? わらわを湯沸かし器扱いする気!?」
「ハンバーグ一年分」
「……乗ったわ」
交渉成立だ。
チョロい皇女で本当に助かる。
工事は急ピッチで進められた。
場所は屋敷の裏庭。かつて倉庫があった場所を取り壊し、総ヒノキ造り(に近い香りの木材を使用)の建屋を建設。
床と壁には、水はけの良い石材を敷き詰める。
そして心臓部となるのが、シルフィ設計の『魔導給湯ユニット』だ。
「セシリア、そこに魔力を流し込んでくれ。温度は42度で一定に保つイメージだ。爆発させるなよ」
「失礼ね! わらわの魔力制御は完璧よ!」
セシリアが給湯タンクに手をかざすと、ボウッという音と共に魔力回路が赤く輝き出した。
さすがは皇室の血筋。魔力量が桁違いだ。
普通の魔導師なら三十分で倒れるところを、彼女は鼻歌交じりで維持している。
「シルフィ、循環ポンプ始動」
「了解。……水流、安定。ジェットノズル、開放」
ボコボコボコボコッ!!
巨大な浴槽の中で、お湯が激しく泡立った。
空気を含んだ水流が、腰や背中に当たる位置から噴射されている。
「完成だ……」
湯気が立ち込める浴室。
ヒノキの香り。
そして、青白く光る神秘的なお湯(入浴剤代わりの薬草エキス入り)。
「これが……お風呂?」
セシリアが呆然と立ち尽くしている。
彼女の知っている「風呂」とは、召使いに体を拭かせることがメインであり、こんな巨大なプールのようなものではないはずだ。
「さあ、一番風呂の権利を殿下に差し上げましょう。汗を流してくるといい」
「ほ、本当に? わらわが入っていいの?」
「ええ。ただし、入り方には作法があります」
私は厳重に注意した。
「まず、かけ湯をして体の汚れを落とすこと。そして、タオルをお湯につけないこと。最後に、絶対に泳がないこと」
「うるさいわね! 分かったわよ!」
セシリアは脱衣所へと消えていった。
数分後。
「きゃあああああああああっ!!!」
浴室から、絶叫が響いた。
悲鳴ではない。歓喜の絶叫だ。
「な、何これぇぇぇ! お湯が! お湯が動いてる! 腰を揉んでくるわ! ああん、そこ! そこ気持ちいい!」
壁越しに聞こえてくる実況中継が色っぽすぎて、護衛のギュンターが鼻血を出して倒れた。
「……成功のようだな」
「……ん。次は私の番」
シルフィがタオルを持ってウズウズしている。
その後、私も入浴した。
最高だった。
肩までお湯に浸かった瞬間、全身の毛穴が開き、溜まっていた疲労物質が溶け出していく感覚。
ジェットバスの水流が、凝り固まった筋肉をほぐしてくれる。
窓の外には、庭の緑と、月明かり。
「……生きててよかった」
私は湯船の縁に頭を乗せ、夜空を見上げた。
エアコンはないが、風呂上がりに飲む冷えたコーヒー牛乳(これも開発した)があれば、夏も悪くない。
翌日。
セシリアの肌はツヤツヤに輝いていた。
まるで剥きたてのゆで卵だ。
「アレクセイ。あのお風呂、素晴らしいわ」
朝食の席で、セシリアは上機嫌に語った。
「帝国に帰ったら、すぐに父上にも作らせるわ。あれは外交の秘密兵器になるわよ」
「秘密兵器?」
「ええ。他国の使節団をあそこに入れて、骨抜きにしてから交渉するの。どんな頑固な将軍も、あの泡攻撃には勝てないわ」
恐ろしいことを言う。
風呂をハニートラップ(?)に使う気か。
「でも、一つ問題があるの」
セシリアが真剣な顔になった。
「風呂上がり。髪を乾かすのが大変なのよ。タオルで拭いても湿ってるし、自然乾燥だと痛むし」
なるほど。
女性ならではの悩みだ。この世界にはドライヤーがない。
侍女たちが時間をかけて拭いているが、非効率極まりない。
「作れますよ、髪を乾かす道具も」
「本当に!?」
「ええ。風魔法と熱魔法のハイブリッドです。シルフィ、次は『魔導ドライヤー』だ」
「……了解。小型化が課題。ファンの回転数を……」
私たちの開発会議は、朝食の席で白熱した。
風呂を作り、ドライヤーを作り、次はおそらく「シャンプー」や「リンス」の開発になるだろう。
こうして、ローゼンバーグ領は「美肌の聖地」としても知られるようになり、大陸中の貴婦人たちが「あのお湯に入りたい」と殺到することになるのだが、それはまた別の話。
今はただ、風呂上がりのポチ(フェンリル)を乾かすのに、ドライヤーが十台必要だと判明し、私が途方に暮れているだけである。
「ワン!(乾かせ!)」
「デカすぎるんだよ、お前は……」
生乾きの獣臭と戦いながら、私の苦労は続く。
だが、清潔で快適な生活のためなら、これくらいの労働は甘んじて受け入れよう。




