第11話 凶器のような黒パンと、伝説の番犬 ~そのパンは、神狼をも骨抜きにする~
「……硬い」
朝のダイニングルームに、乾いた音が響いた。
私がパンをちぎろうとした音ではない。パンでテーブルを叩いた音だ。
「父上。これは食べ物ですか? それとも投擲用の武器ですか?」
「何を言っている、アレクセイ。いつもの黒パンだ。スープに浸して食べるのが作法だぞ」
父、ガルディス公爵は平然と答え、石のようなパンをスープに沈めた。
十分ほど浸して、ようやくふやけた所をスプーンですくう。それがこの世界の常識だ。
だが、私は認めない。
パンとは、焼きたての香ばしさ、手でちぎった時の繊維の伸び、そして口に入れた瞬間のふんわりとした食感を楽しむものだ。
こんな、歯を折るために焼かれた小麦の塊など、パンではない。
「作ります。歯がいらないパンを」
「歯がいらない……? お前は老人食の話をしているのか?」
「いいえ。究極の『生食パン』です。耳まで柔らかく、噛むたびに甘みが広がる、雲のようなパンです」
私は硬い黒パンをテーブルの隅に追いやった。
マヨネーズ、炭酸水ときて、主食がこれでは画竜点睛を欠く。
サンドイッチを作るにしても、この黒パンでは具材を挟む前にパンが割れるか、私の顎が割れるかだ。
***
工房にて。
私とシルフィは、小麦粉の山と格闘していた。
「いいかシルフィ。パンの命は『発酵』だ。菌の機嫌を損ねれば、パンは膨らまない」
「……菌。見えないけど、いるの?」
「いる。果実の皮や、空気中に漂っている『酵母』を捕まえて、培養するんだ」
前世の知識を総動員する。
この世界にはドライイーストなどない。だが、幸いにも我が家には冷蔵庫(恒温槽としても使える)がある。
温度管理さえ完璧なら、天然酵母の培養は可能だ。
「私が選んだのは『リンゴ酵母』だ。香りが良く、発酵力が強い」
私はリンゴの皮と水を瓶に入れ、ブクブクと泡立っている液体を見せた。
「そして、製法は『湯種』を使う」
「……お湯?」
「そうだ。小麦粉の一部を熱湯で練ることで、デンプンを糊化させる。これによって水分を閉じ込め、モチモチの食感を生むんだ」
「……料理じゃなくて、化学実験みたい」
シルフィは興味津々だ。彼女にとって、複雑な手順を踏む工程は「遊び」に等しい。
「こね上げは『魔導ハンドミキサー』の出力を調整して行う。グルテンの膜を壊さず、均一に伸ばせ」
「了解。回転数、毎分120。優しく、力強く」
シルフィが魔導具を操作し、生地をこねる。
赤ちゃんの肌のように滑らかで、ツヤのある生地が出来上がっていく。
それを型に入れ、二次発酵させ、最後に窯へ。
窯の温度管理も、火魔法の制御に長けたシルフィがいれば完璧だ。
「焼き上がりまで、あと10分」
工房の中に、甘く、香ばしい匂いが漂い始めた。
それは、この世界の住人がかつて嗅いだことのない、暴力的なまでの「小麦の誘惑」だった。
「……いい匂い。お腹空いた」
「我慢しろ。焼き立てが一番美味いんだ」
その時だった。
オオオオオオオオオォォォォォ…………ッ!!!!
地響きのような咆哮が、屋敷の外から響き渡った。
窓ガラスがビリビリと震える。
「なっ!? 地震か!?」
私は慌てて窓の外を見た。
工房の外、広大な庭園の向こうにある森。
その木々がなぎ倒され、何かが一直線にこちらへ向かってきている。
「若様ッ!! 非常事態です!!」
ギュンターが血相を変えて飛び込んできた。抜刀している。
「魔物です! それもただの魔物ではない! あれは……伝説の『フェンリル(銀狼)』です!!」
「フェンリル?」
私は耳を疑った。
神話級の魔獣だ。一匹で国を滅ぼすと言われる災害指定生物。
そんなものが、なぜこんな辺境の屋敷に?
「若様、お逃げください! 騎士団総出で時間を稼ぎます! 勝てる相手ではありませんが、せめて若様だけでも……!」
ギュンターは悲壮な決意を固めている。
だが、遅かった。
ドオオォォォンッ!!!
工房の扉(鉄製)が、紙屑のように吹き飛んだ。
砂煙と共に現れたのは、体長五メートルはあるであろう、巨大な銀色の狼だった。
その毛並みは月光のように輝き、爪はダイヤモンドのように鋭い。
圧倒的な強者のオーラ。
「ひぃッ……!」
ギュンターが腰を抜かした。シルフィも私の後ろに隠れる。
終わった。
人類最強の騎士団でも、束になれば瞬殺されるレベルだ。
だが。
巨大な狼は、私を襲わなかった。
その鼻をクンクンと鳴らし、工房の奥にある「窯」を見つめている。
「グルル……?」
「……は?」
私は違和感を覚えた。
殺気がない。
あるのは、猛烈な食欲と、好奇心だけだ。
「まさか……」
私は震える手で、窯の蓋を開けた。
焼き上がりの合図だ。
中から、黄金色に輝く食パンが現れた。湯気と共に、極上の香りが爆発的に広がる。
「ワンッ!」
フェンリルが吠えた。
いや、「ワン」って言ったぞ今。
巨大な狼は、その巨体を小さく折りたたみ、地面に伏せて尻尾を振った。
バタン、バタン、と尻尾が地面を叩くたびに、小型地震が起きる。
「……パンが、欲しいのか?」
私は焼きたての食パンを一斤、手に持った。
熱い。だが、その柔らかさは手から伝わってくる。
狼の目が釘付けになる。口から大量のヨダレが垂れ、工房の床が水浸しになりそうだ。
「若様! 何を!? 手を食われますぞ!」
ギュンターの静止を無視して、私はパンをちぎり、放り投げた。
パクッ。
フェンリルは空中でそれをキャッチし、咀嚼する。
「……」
動きが止まった。
次の瞬間。
「クゥゥ~ン……♡」
神話級の魔獣が、骨抜きになった顔で甘えた声を出し、ゴロンと腹を見せた。
完全に堕ちた。
「……ちょろい」
私は呟いた。
伝説の魔獣も、美味いものには勝てないらしい。
「これが食いたいなら、『お座り』だ」
私は残りのパンを見せつけた。
フェンリルは即座に起き上がり、ビシッと姿勢を正して座った。
その姿は、ただのデカい忠犬だ。
「よし。もう一つやろう」
私はパンを与え、その隙に銀色の毛並みを撫でてみた。
「……!」
驚愕したのは私の方だった。
柔らかい。
シルクなんて目じゃない。最高級の羽毛布団をさらに圧縮して、天使の羽を混ぜたような手触り。
これだ。私が求めていた「究極のモフモフ」がここにある。
「シルフィ! 触ってみろ! この毛並み、パンより柔らかいぞ!」
「……えっ」
恐る恐る近づいたシルフィも、その毛に触れ、目を見開いた。
「……すごい。低反発素材みたい。……埋もれたい」
シルフィはフェンリルの腹毛に顔を埋めた。フェンリルはパンに夢中で気にしていない。
「決めた」
私は宣言した。
「こいつを飼う」
「はあぁぁぁッ!?」
ギュンターが絶叫した。
「正気ですか若様! フェンリルですよ!? 歩く災害ですよ!? エサ代だけで領地の財政が破綻します!」
「エサならパンをやればいい。それに、こいつがいれば防犯対策は完璧だ。産業スパイどころか、敵国の軍隊が来ても追い返せる」
最強の番犬だ。
しかも、冬は暖房器具(湯たんぽ)代わりになり、夏はその冷気(氷属性持ちらしい)でクーラー代わりになる。
そして何より、この背中に乗れば、馬車の揺れとは無縁の移動が可能だ。
「名前は……そうだな。『ポチ』でいいか」
その瞬間、フェンリル……ポチは、嬉しそうに「ワオン!」と吠えた。
どうやら気に入ったらしい。
こうして、ローゼンバーグ家には新たな家族が増えた。
焼きたての「生食パン」と、それに餌付けされた「伝説の神狼」。
翌日、庭で巨大な狼がパンをかじりながら寝転がっている姿を見た父上は、泡を吹いて気絶したが、ポチの背中が「最高の座り心地」だと知ると、すぐに和解した。
我が家のセキュリティレベルは、ついに国家戦力レベルに達してしまったようだが、まあいい。
これで心置きなく、次の「サンドイッチ開発」に進めるというものだ。
「さあシルフィ。次はハムとチーズ、そしてレタスを挟んだ『BLTサンド』を作るぞ。ポチ、お前も手伝え(キュウリを運べ)」
「ワン!」
私の内政ライフは、もはや誰にも止められない。




