第1話 憂鬱なる朝と、許されざる最高級
天蓋付きの巨大なベッド。その寝心地は、まるで雲の上に横たわっているかのように柔らかい。最高級の白鳥の羽毛を惜しげもなく詰め込んだ布団は、庶民が一生かかっても買えないほどの価値があるだろう。
けれど、私、アレクセイ・フォン・ローゼンバーグにとって、これはただの「暑苦しい袋」でしかなかった。
朝の光が、分厚いベルベットのカーテンの隙間から容赦なく差し込んでくる。
まぶたを突き刺すような鋭い光に、私は不快な唸り声をあげて寝返りを打った。熱がこもる。この世界の貴族は、なぜこうも保温性ばかりを重視するのか。通気性という概念はないのか。
背中にじわりと汗が滲む。
前世の記憶——エアコンの効いた六畳一間のアパート、ひんやりとした接触冷感パッドの感触——が脳裏をよぎり、現実に引き戻された瞬間の絶望感は、転生して十六年が経った今でも色褪せることがない。
喉が渇いた。
カラカラだ。
冷たくて、シュワシュワと弾ける、あの黒い液体が飲みたい。
「……水」
掠れた声で呟くと、即座に部屋の扉が音もなく開かれた。
優秀な専属メイドのマリーだ。彼女は年齢不詳の整った顔立ちをしており、私が起きる気配を察知して待機していたのだろう。
「おはようございます、アレクセイ様。お目覚めはいかがでしょうか」
「最悪だ。喉が張り付く」
「ただちに」
マリーは恭しく一礼すると、部屋の隅にある豪奢な彫刻が施された水瓶へと歩み寄った。銀製の水差しを傾け、クリスタルグラスに水を注ぐ。その所作は無駄がなく、芸術的ですらある。
だが、私はそのグラスを受け取り、口につけた瞬間、眉間に皺を寄せざるを得なかった。
ぬるい。
そして、微かに香る花の匂い。
「……マリー。これはなんだ」
「薔薇の滴でございます。若様の体調を案じ、公爵様が南方の国より取り寄せた最高級の湧き水に、朝摘みの薔薇の花弁を浮かべ香りを移しました」
マリーは誇らしげに胸を張る。
彼女に罪はない。父にも罪はない。この世界において、水に香りをつけ、常温で飲むことこそが「豊かさ」の象徴であり、衛生的な不安を取り除くための知恵なのだから。
けれど、私が求めているのはこれではない。
私が欲しいのは、キンキンに冷えた、無味無臭の純粋な水だ。あるいは氷をぎっしり詰めたグラスに注がれたコーラだ。口の中に残るこの妙な甘ったるい花の香りは、渇きを癒やすどころか、余計に喉の不快感を煽るだけだった。
「……ありがとう。だが、次は普通の水にしてくれ。井戸から汲みたての」
「井戸水など! そのような雑菌の混じったものを若様に飲ませるわけにはまいりません。煮沸して、きちんと香草で風味付けをしなければ」
「ああ、そうだったな。すまない」
私は諦めて、ぬるくて甘い水を飲み干した。
胃の中に落ちた液体は、体を冷やすこともなく、ただ重たく溜まるだけだ。
私はアレクセイ・フォン・ローゼンバーグ。
この国でも五本の指に入る大貴族、ローゼンバーグ公爵家の嫡男。
金はある。権力もある。顔も、鏡を見るのが照れくさくなるほどの美少年だ。魔力に至っては王族すら凌駕すると噂されている。
傍から見れば、私は人生の勝者だろう。
だが、断言しよう。ここは地獄だ。
着替えの時間もまた、苦行の一つだった。
マリーと、さらに二人のメイドが加わり、私を人形のように扱い始める。
「本日は領地の視察がございますので、シルクの肌着に、こちらの金糸の刺繍が入った上着をご用意いたしました」
肌着は滑らかだが、吸水性がない。汗をかけば肌に張り付く。
その上に重ねられるシャツ、ベスト、上着。首元には窒息しそうなほどきつく結ばれるクラバット。ボタンではなく、紐で締め上げる箇所も多い。
「きつい。もう少し緩めてくれ」
「なりませぬ。貴族たるもの、常に背筋を伸ばし、隙のない装いをしなければ」
マリーの手によって、私は今日も完璧な貴族の少年へと仕立て上げられていく。
鏡に映る自分は、確かに美しい。金髪碧眼、陶器のような肌。物語の王子様そのものだ。
しかし、その内側で私が感じているのは、全身を拘束衣で締め付けられるような息苦しさだけだった。
(ジャージが着たい……。ゴムの入ったズボンと、ヨレヨレのTシャツで過ごしたい……)
切実な願いは、誰にも届かない。
「朝食の準備が整っております」
身支度を終えると、私は重厚な扉を抜け、長い廊下を歩く。
廊下の床は大理石で磨き上げられているが、冬は凍えるほど冷たく、夏は湿気で滑りやすい。足音を響かせながら、私は一階のダイニングルームへと向かった。
そこには、既に父である公爵、ガルディスが座っていた。
赤茶色の髪に、威厳のある髭。岩のような体躯を持つ彼は、朝から赤ワインをグラスで揺らしている。
「おお、アレクセイ! おはよう。今日の顔色も素晴らしいな」
「おはようございます、父上」
私は努めて優雅に微笑み、席に着く。
目の前には、朝食が並べられていた。
銀の皿に盛られたのは、仔羊のロースト。たっぷりの脂と、臭み消しのための大量の香草。
その横には、石のように硬いパンと、黄色い油が浮いたスープ。
そして、ここでも飲み物はワインか、あのぬるい水だ。
朝からステーキ。
これは前世なら贅沢の極みかもしれない。しかし、毎朝だ。
しかも、この世界の肉は血抜きが甘いのか、とにかく獣臭い。それを誤魔化すために、舌が痺れるほどのスパイスとハーブが使われている。
冷蔵技術がないから、保存食としての側面が強い塩辛いハムや、チーズも並ぶ。
(サラダが食べたい。シャキシャキのレタスに、さっぱりとしたドレッシングをかけて。あるいは、湯気の立つ白いご飯に、味噌汁……)
フォークで肉を突き刺しながら、私は心の中で涙を流した。
噛みしめるたびに溢れる脂。胃が悲鳴を上げているのがわかる。
「どうした、アレクセイ。食が進まないようだが」
父が心配そうに覗き込んでくる。
「いえ……少し、夏バテ気味かもしれません」
「夏バテか! ならばもっと精をつけねばな。おい、厨房に言って、もっと肉を持ってこさせろ! 鰻のパイもだ!」
「いえ、父上! 結構です! これで十分です!」
私は慌てて制止した。
これ以上、脂っこいものを並べられては、吐き気を催してしまう。
父は不思議そうな顔をしたが、すぐに豪快に笑い飛ばした。
「まあよい。お前は繊細だからな。そこがまた、亡き母に似て美しいところだが」
父は私を溺愛している。
それは分かる。この屋敷にあるものはすべて、最高級のものだ。父なりに、私に最高の環境を与えようとしてくれている。
だが、技術レベルが追いついていないのだ。
最高級の素材があっても、それを調理する技術、保存する技術、快適に過ごすためのインフラがない。
魔法はある。この世界には、炎を出したり、風を起こしたりする魔法が存在する。
しかし、それらはあくまで「戦闘」や「単純な作業」に使われるものであり、「生活の質」を向上させる方向には進化していなかった。
「父上。本日は、領地の視察に行ってもよろしいでしょうか」
私はナイフを置き、切り出した。
屋敷の中にいても、鬱屈とするだけだ。外の空気を吸いたい。そして、あわよくば何か「使えるもの」を探したい。
「おお、そうか。次期公爵として、領民の暮らしを見るのは良いことだ。だが、森の近くには行くなよ? 最近、オークの目撃情報が増えている」
「オーク……ですか」
「ああ。騎士団を護衛につけるが、お前も魔法が使えるとはいえ、油断は禁物だ」
「承知しております」
私は静かに頷いた。
魔物。この世界における最大の脅威。そして、文明の発展を阻害する最大の要因。
人々は魔物に怯え、城壁の中に閉じこもる。流通は寸断され、技術の交流もままならない。
だが、今の私には、オークの恐怖よりも勝る恐怖があった。
それは、「このまま一生、このぬるい水と獣臭い肉で生きていかなければならない」という絶望だ。
(変えてやる……)
私はナプキンで口元を拭いながら、決意を新たにした。
領民のため? 世界平和のため?
そんな高尚なことではない。
私が、私が快適に引きこもるために。
ウォシュレット付きのトイレと、フカフカの食パンと、氷の入ったコーラを手に入れるために。
私はこの、無駄に広くて不便な領地を、現代日本並みの文明レベルまで引き上げてやる。
たとえそれが、魔法使いの常識を覆すことになろうとも。
「ごちそうさまでした」
私は席を立った。
憂鬱な朝は終わりだ。これからは、私の「内政」という名の、欲望の暴走が始まる。




