9:消えた体温
休日の午後、カイのタブレットに公社から通知が届いた。先日処理した部屋の最終チェック中に、マニュアル外の事象が確認されたという。
部屋の隅、クローゼットの影に、骨と皮ばかりに痩せた一匹の猫が、弱々しく顔を上げた。
「なんてこと…!カイ、その子、生きてるの?」
ビデオ通話の向こうで、ミサキの声が震える。
「お願い、すぐに動物病院へ連れて行ってあげて!」
病院の待合室で、カイはミサキと合流した。二人は固唾をのんで、処置室のドアをじっと見つめている。
「助かるといいな…」カイが、祈るように呟く。
「うん…もし助かったら、うちで引き取ろうよ。名前は…ソラなんてどうかな」
二人は、猫との未来を想像し、その命が助かることを心から願っていた。
しばらくして、処置室のドアが開き、獣医師が沈痛な面持ちで現れた。
「残念ですが…先ほど、息を引き取りました」
その言葉が発せられた、瞬間だった。
それは意思決定ではなかった。瞬きのように、抗いようのない反射だった。カイとミサキ、そして獣医師の三人の脳内で、全く同じマイクロ秒に、感情の回路が遮断された。
先ほどまで漂っていた待合室の静かな不安や希望の匂いが消え、代わりに消毒液の無機質な匂いだけが、やけにクリアに感じられた。
カイは、平坦な声で獣医師に尋ねた。
「そうですか。では、この個体の処理費用はいくらですか?」
ミサキも、腕を組んで残念そうに、しかしどこか他人事のように呟いた。
「ああ、残念。ペット用のベッド、買う手間が省けたわね」
彼女はそう言うと、タブレットを取り出し、ショッピングサイトのカートから、ペット用品を削除した。その時、彼女の口元に、ふふ、と小さく、本当に効率化できたことを喜ぶかのような笑みが浮かんだ。
獣医師もまた、タブレットを取り出し、ごく自然な事務手続きとして料金を提示する。
「今回の治療費、生存時プロトコル適用で合計2クレジット。死体処理オプションは、Aプランの合同焼却なら無料、Bプランの個別焼却+粉骨処理なら追加で1クレジットとなりますが、いかがなさいますか?」
その場の空気は、先ほどまでの温かさが嘘のように、冷たく、静まり返っていた。