8:命のカルテ
年に一度の定期健康診断の日、カイは公社が提携するメディカルセンターを訪れていた。診察室に入ると、初老の男性医師が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「やあ、カイさん。こんにちは。最近、体の調子はどうですか?」
その声には、カイの健康を心から気遣う、温かい響きがあった。
一通りの診察が終わり、医師は「健康状態は良好です。素晴らしい。あなたの健康管理は、他の市民の模範となりますよ」と、満足げに頷いた。カイも、その言葉に少しだけ安堵の息を漏らす。
しかし、その直後だった。医師は、手元の端末の画面を切り替えると、ふっと表情から人間的な温度を消した。
「さて、確認ですが、あなたの生命活動の継続が困難になった場合の、資産ディレクティブ(事前指示書)に変更は?」
その口調は、平坦で、事務的だった。
カイもまた、その変化に何の違和感も抱かない。
「はい。第3項の、不動産資産の処理について、パートナーであるミサキへの優先譲渡権を再確認したいのですが」
そう言った時、一瞬だけ、彼の視線が遠くを見るように揺らいだ。しかし、すぐに事務的な表情に戻る。
「承知しました。…確認します。ミサキ氏への第一優先権、変更ありませんね。その他は?」
「ありません」
「了解しました。では、データを更新しておきます」
医師は手際よく手続きを完了させる。そして、再び顔を上げた時には、その表情にはもう、元の穏やかな医師のそれが戻っていた。
「では、カイさん。今日はこれで終わりです。また来年、元気な顔を見せてください。お大事に。…さて、次の患者さんは…」
診察室を出たカイは、無意識に詰めていた息を、小さく吐き出した。彼自身、気づいてはいなかったが、「死」に関する会話は、たとえ感情が動かなくとも、彼の身体に微細なストレスを与えていた。