6章:理解不能な涙
その夜、カイとミサキはソファに並んで座り、旧時代の恋愛映画『追憶の海辺』を観ていた。
病に侵され、日に日に衰弱していくヒロイン。彼女を献身的に支える主人公。
「見ていられないわね…」
ミサキが、小さな声で呟いた。その瞳には、純粋な同情と憐れみの色が浮かんでいる。カイもまた、愛する人が苦しんでいれば助けたいと願う、その気持ちを、ごく自然に理解できた。
物語は、ついにクライマックスを迎えた。海辺の小さな家のベッドで、ヒロインのか細い呼吸が、ふっと途切れる。主人公は、彼女の冷たくなっていく手を握りしめ、やがて天を仰ぎ、獣のような叫び声を上げた。彼の目からは大粒の涙がとめどなく溢れ、その顔は悲しみと絶望でくしゃくしゃに歪んでいた。
画面の中の主人公が激しく泣きじゃくる中、ソファの上の空気は、先ほどまでの共感の色を失い、静かな困惑に変わっていた。
「ねえ、カイ。どうして彼は泣いているの? 生命活動が停止したオブジェクトに対して、水分とエネルギーを浪費するのは、生存戦略として合理的じゃないわよね」
その声には、非難の色はない。未知の生物の不可解な生態を観察しているかのような、知的な好奇心だけがあった。
「さあな。一説では、旧人類の脳にあった、共感回路のバグらしい。今はもう、存在しない機能だ」
「でも、不思議ね。そんな生存に不利なだけの機能が、どうして進化の過程で残っていたのかしら」
「集団の結束を高める効果よりも、個の判断を鈍らせるデメリットの方が大きかったんだろう。まあ、この機能がなくなったおかげで、社会全体の生産性は30%向上したとされているからな。結果的には、正しい進化だったんだろう」
ミサキは、画面の男の顔を真似て、くしゃっと眉間に皺を寄せてみた。
「こう? なんだか顔の筋肉が疲れるだけね」と、すぐにいつもの表情に戻って笑う。
「もし私が死んで、カイがこんな風に泣いてたら、私、たぶん笑っちゃうな。『非効率的!』って」
「俺もだ。君が泣いてたら、『処理が遅れるぞ』って言うだろうな」
二人は、ソファの上で、テーブルの上の小皿に残った、最後の一粒のナッツをどちらが食べるか、指でじゃんけんをしていた。彼らは、その涙を美しいとも悲しいとも思わない。ただ、遠い昔に絶滅した生物が、なぜそんな奇妙で非効率な生態を持っていたのかを考察するように、純粋な知的好奇心で、泣き続ける男の姿を眺めていた。