12:反逆の灯火
ミサキの死から、数週間が過ぎた。
カイの日常は、完全に元に戻っていた。部屋のレイアウトを少し変え、二人で使っていたソファを一人用のものに買い替えた。ただ、それだけのことだった。
日曜日の午後、カイは自宅のソファで、腕の端末をスクロールしていた。新しいパートナーを探すため、マッチングアプリを開いているのだ。画面には、様々な女性のプロフィール写真とデータが、無限に流れていく。ミサキと似た笑顔の女性が表示された。彼は、なぜか一瞬だけ指を止め、すぐに我に返ると、非効率な思考を打ち消すように首を振り、次の候補者へとスワイプした。
少し気分転換をしようと、彼は公園のベンチに腰掛けた。
その時、彼の視界の隅に、一人の老人が入った。老人は、向かいのベンチに座り、古びた一枚の写真立てを、震える手でじっと見つめている。その皺深い目からは、静かに涙がこぼれ落ち、乾いた頬に筋を描いていた。
カイは、その行動を数秒間、観察した。
「旧世代の情動残留。非効率な生体反応。このエネルギー消費は完全に無価値である」
彼はすぐに興味を失い、立ち上がると、雑踏の中へと消えていった。
――その視線が繋がるかのように、都市の片隅にある、古いビルの地下。そこには、公式な記録には存在しない、一人の科学者の研究室があった。窓はなく、外部からのあらゆるネットワークからも物理的に遮断されている。この研究が社会システムに検知されれば、彼は「情動汚染テロリスト」として即座に処理されるだろう。
科学者は、モニターに映し出された、数週間前の第7セクターの事故に関するニュース映像を、苦悶の表情で見つめていた。彼の壁には、一枚だけ、色褪せた写真が貼られている。若き日の彼と、優しく微笑む妻。何十年も前、彼女を病で失った時、彼は悲しむことすらできなかった。愛する者を悼めないという、その底なしの絶望が、彼の人生を懸けた研究の原点だった。長い年月の中で何度も壁にぶつかり、諦めかけていたその炎に、最愛の孫娘ミサキの死が、最後の燃料を投下したのだ。
モニターの隅には、今回の事故の犠牲者リストが表示されている。彼は、その中の一つの名前を、震える指でなぞった。
――ミサキ。
「すまない…すまない、ミサキ…」
彼は、妻の時と同じように、孫娘の死に一粒の涙も流せない。悲しいはずなのに、心が動かない。脳が、感情の発生を拒絶している。その二重の絶望が、彼の瞳に、狂気にも似た決意の炎を灯す。彼は、人類が失った最も大切なものを取り戻すための、孤独な闘いを続ける。この静かで、狂った世界に対する、たった一人の反逆を。
世界の静寂の底で、まだ消えずに灯る、小さな反逆の火を映して、物語は幕を閉じる。




