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豚の丸焼きほど楽じゃない

作者: 六時六郎

 逆上がりが出来ないくらいで泣くことはない。おじさんも逆上がりの出来ない子供だったんだよ。

 あれはおじさんが小学校低学年の時だから、今から10年以上前になる。体育で鉄棒の授業があったんだ。

 鉄棒というのは変な遊具だね。地面に垂直に立った支柱とそれを繋ぐ鉄製の横棒。なんとも無骨で今見ても嫌な気分になるよ。でもおじさんの場合は、鉄棒のフォルムが嫌いなんじゃなくて、その思い出が嫌いなんだ。

 体育の授業で鉄棒と言ったら、まずは豚の丸焼き、次に前回り、そして最後に逆上がりだった。おじさんはね、豚の丸焼きが好きだった。何しろ両手と両足で鉄棒に捕まるだけだから楽だった。名前も面白いじゃないか、豚の丸焼きって、どこか可笑しいだろう?それでおじさんは豚の丸焼きが好きだったんだ。

 前回りは苦労したんだ。おじさんは当時太った小学生でね。お腹がつっかえたんだよ。両手で体を持ち上げるところまでは出来るんだけどね、そこから体を前に倒そうとするとお腹が引っ掛かって痛いし、それでも回ろうすると、途中で止まってしまうんだよ。くるっと回転せずに、お腹を鉄棒に預けて上半身と下半身がぺたっと折りたたまれたような姿勢で止まってしまうんだ。

 それでも何回目かの授業で前回りは出来たんだけど。でも逆上がりはついに出来なかったな。豚の丸焼きほど楽じゃなかったわけだ。

 地面を蹴り上げて足を思い切り上へ伸ばそうとしても、すぐぺたっと地面に戻ってきてしまう。何度やっても同じなんだ。丁度、今の君と同じだよ。何度挑戦しても駄目だった。今考えたら、たぶん体重が重かったからだろうね。痩せれば話が早いんだが、当時はそんなこと分からないし、小学校低学年でダイエットもないだろう。

 回りの子達はどんどん逆上がりが出来るようになる。自分だけはいつまでも逆上がりの練習をしている。先生が逆上がり補助器を持ってきてくれたんだけど、それでも駄目なんだ。逆上がり補助器、分からないかな?何枚かの板を合わせて坂のようにした器具で、坂の如く上へ延びた板を蹴り上げていくと自然に逆上がりが出来るはずなんだが、おじさんは駄目だったんだ。やはり体重のせいか、それともぐるりと回転する恐怖のせいだったかもしれない。

 とにかく出来なかったんだ。

 だから、鉄棒の授業は嫌でたまらなかった。

 他の子が次々と逆上がりを出来るようになっていくんだ。

 僕も出来ないけどあの子も出来ないからまだ大丈夫、なんて安心していたらすぐにその子も出来るようになっていく。これ以上出来る子が増えないでくれ、なんて僻みにも似た気持ちになる。そんな自分が嫌になるし、早く出来るようにならなきゃと焦るし、出来ない自分がとても恥ずかしくなる。

 体育の時間だから、一つの鉄棒をみんなで順番に使うんだけど、自分の番がまわってくるのがたまらなく嫌だった。自分の番になると先生や他の子がせっせと逆上がり補助器を持ってきてくれる。でも出来ない。足が上に上がらない。そのうち先生が手を貸してくれたり、まわりの同級生が頑張れと声をかけてくれるようになるんだけど、それでも出来ないし、まわりの子に励まされるのが申し訳ないし、終いには惨めな気持ちになってくる。

 僕は逆上がりが出来ないんだ。駄目なやつなんだ、と当時は思っていた。

 君も今、そう思うかい?逆上がりが出来ない自分は劣っていると。

 だとしたらそれは間違っているよ。君は劣ってなんかいない。

 いいかな、人には向き不向きというものがある。おじさんや君には、逆上がりは向いていないというだけなんだ。

 つまり適材適所というやつだよ。おじさんは逆上がりの授業からその言葉を学んだのさ。

 おじさんは逆上がりは出来ない小学生だった。でも勉強はそれなりに出来たんだ。逆上がりや、それからの体育の授業は先生に怒られない程度に手を抜いて、自分が得意な算数や国語を頑張るようになった。

 おかげでテストの点数はよかった。逆上がりは出来ないけど、自分は勉強が出来るぞ、と思うと力が湧いてきた。いいかい、人生で重要なのは適材適所なんだよ。


 坂田明彦は話し終えて、一息ついた。

 夕方18時を過ぎた公園は夕日のオレンジ色に染まっている。ブランコと鉄棒、そしてベンチしかない小さな公園。その公園のベンチに、20代の青年とまだ10代にも満たない子供が腰掛けていた。

 青年―坂田明彦は無職である。彼は自ら語った通り勉学には長けていたが就職に失敗し、空白期間を経て20代後半から就職活動を開始したがうまくいかず、今日も午前中に面接を受けてきた。しかし例の如く手ごたえがなく、ふらりとこの公園へよった。そのままぼんやりしていたら学校帰りと思われる子供が一人で公園へ現れた。一人で公園に何の用かといぶかしんでいると、その子供は鉄棒で逆上がりの練習を始めた。

 しかし何度やってもうまくいかない。見かねた坂田は子供に声をかけ、少し休みなさいとベンチへ座らせた。落ち込む子供に対し、何か適当に励ましてやろうとした坂田は、自分の逆上がり経験談を語って聞かせた。


 語り終えて、一息つき、そして坂田は羞恥心を覚えた。励ますつもりが人生論のようなものになってしまい、気恥ずかしかった。人生において何一つ成し遂げていない自分が、未来ある子供になにを偉そうに語っているんだと後悔した。

 後悔しつつ、少しは慰めになったかと隣に座る子供の様子を伺う。適材適所、という言葉はまだ子供には難しかっただろうか。坂田は不安に思ったものの、言いたいことは言えた、とも自負していた。

「それで、おじさんは逆上がりが出来るの?」

 子供が口を開いた。まだ少年にすらなりきれていない高く小さい声だった。

 子供に問われ、坂田は戸惑った。どうやら自分のいいたいことは目の前の子供に伝わらなかったらしい。「逆上がりなんか出来なくても構わない」と伝えたかったのに。もう一度話し直すか、と軽く息を吸い込んだとき。

 不意に坂田は疑問に思った。

 今の俺は、逆上がりが出来るのだろうか。

 坂田は公園にある鉄棒を見た。つい先程まで子供が何度も逆上がりをしようとして出来ないでいた鉄棒。青い塗料が所々剥がれた支柱。その支柱に支えられた銀色の鉄棒。

 記憶にある鉄棒より、大分小さく見えた。

 今なら出来るんじゃないか?と坂田は思った。

 彼は子供の頃こそ肥満児だったが今は痩せ型で筋力もそれなりについている。それに逆上がりなど、体育の授業以来、挑戦したことがなかった。

 隣の子供を見る。子供は大きな瞳で坂田を見つめている。その瞳には純粋な興味が浮かんでいるように、坂田には思えた。

 おじさんは逆上がりが出来るの?

 出来るかもしれない、と思った。

 坂田はベンチを立った。

 鉄棒の前まで進む。銀色に鈍く輝いたそれを手で握ってみる。ひんやりとした心地よい感触。

 瞬間、坂田の頭にさっと雑念が過ぎる。土を思い切り蹴って革靴が汚れないだろうか。就活用のスーツに汚れがつかないだろうか。シワにならないだろうか。もし足でも捻ったら次の面接はどうする。公園の遊具には体重制限がなかったか。成人男性は使用禁止ではなかったか。

 しかしやってみよう、と坂田思った。

 両手で鉄棒を握り締め、足で思い切り地面を蹴る。

 砂交じりの土がさっと舞い上がり、坂田の両足が空中に浮く。

 鉄棒を中心に、坂田の体がぐるりと回転し。

 次の瞬間、両足が地面に着いた。両膝に体重がかかり倒れかけるも、両手に握った鉄棒で体のバランスを取る。

 ふう、と短く息を吐いた。

 坂田は逆上がりに成功した。

 振り向くと、一部始終を見ていた子供が満面の笑みを浮かべていた。

「おじさん、凄い!」

 坂田は思わず頭をふった。

 違う、俺は凄くない。俺は20代後半の癖に無職で、空白期間もあって、今も再就職の目処の立っていない、ろくでもない人間だ、凄くなんてないし、第一逆上がりなど出来たところで何の意味もないんだ。

 と坂田は思いつつも、全身の震えが止まらなかった。

 彼は不覚にも喜んでいた。子供に褒められたことが嬉しかったのではない。今さら逆上がりを出来たことが、たまらなく嬉しかった。

「おじさんは勘違いをしていたみたいだ」

 声を震わせながら、坂田は言った。

「人生に重要なのは適材適所だけじゃない。

 七転八起も重要なんだ。

 どうやらおじさんは、諦めがよすぎたらしいな」

 坂田は言って、公園を去った。

 後ろは振り返らなかった。

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