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1話

「つまり冷却システムとは関係なく、脳を酷使した学生の体が本当に求めてる栄養素と糖分、カフェインを最適なバランスで摂取できるのはコーヒー牛乳なんだと思う」




購買部のコーヒー牛乳というものは、同じ銘柄でもコンビニとは確実に味が違うということを僕が熱弁し終わって、沈黙が3分ほどたったころに佐原走多はこう言った。




「中学高校時代の友人って一生ものってよく言うけど、人によるよな」


「そりゃあ、大学に入れば人間関係を更新してきれいさっぱりって人もなかにいるんじゃないか」




カラカラが言ってるのは少しちがうなあ。


殻栗空。だからカラカラ。僕のあだ名だ。


もう慣れたが正直気に入ってない。すっからかんとかからっぽとか、そういった意味合いはなく語呂なのだが、どうしても中身がないやつみたいなあだ名じゃあないか。




「一日の大半を狭い学校で過ごすんだから、多少合わないなーって奴ともうまくやってかなきゃいけないだろ。俺ら中高一貫校、六年間一緒って言ったって、合わねー奴とは高校の卒業式まで合わねー。派閥だなんだもある。嘘笑いして偽ダチやって、卒業したらはいさよならだ。一学年三百人生徒がいればつるんでるやつ全員偽ダチってやつもいるだろ。息がつまるよな」


「なんだよ。お前人の好き嫌いがそんなに激しいとは思ってなかった。学校生活が窮屈だったのか?」


「違うよ。俺は幸運だったと思ってるんだ。俺だって孤立やいじめは怖い。張りつめて人間関係やってるときもある。でも、こうやって中一のころから中庭の東屋で俺たちが昼飯食べ始めてもう三年だ。クラスが変わってもこうやって同じ顔ぶれ並べてシけた面して昼飯食ってるこの時間はなんかこう、あれなんだよ。あれ」


「どれだよ」


「多分俺たち永遠にこうしてるんだろうなって気がするんだ。三年後には高校も卒業だし、永遠なんてないのは知ってる。知ってるけど『今このとき』そう思えるのが幸せなんだな。俺は」




中学の卒業式が終わって初めての通常授業日だった。中高一貫のこの学校において中学卒業式に中卒資格取得以上の意味は無い。しかしこういう湿臭い——ちょっとした本音、みたいなことを言う空気が醸成されていたのは確かだ。それでも佐原には似合わない台詞だ。似合わない言葉だったから、ぼくはそう言われて嬉しかった。


だから。僕は佐原のために神にも祈った。




過労でハンドル操作をミスしたトラックが横断歩道で信号を待っていた佐原に激突。意識不明の重体で、現在集中治療室で治療中。事故はその会話の一週間後の出来事だった。


心配で夜も眠れない、なんてことが本当にあるとは思わなかった。じっとしていられない。ベッドで寝がえりをうつ度に焦燥感が募る。上着を着て、外に出た。家の近くに誰も手入れのしていない空き地がある。


(ここ、空き地なの今気づいた。だれの土地なんだろう)


昼には気にもとめない空き地だが、夜の静けさのせいか、鬱蒼と茂った林のなかになにかがありそうな予感がした。


薄着でこの中に入っていくのはいささかためらったが、なぜか惹かれる。


惹かれる?


ぼくはこの空き地の闇が怖い。


畏れている。


畏れに、惹かれている。


ジャージで踏み込んだ。夕方の雨で靴の中に水が染みる。足は止まらない。


藪のあいだに張られた大きな蜘蛛の巣が顔に引っかかったので剥がしながら中に進むと、苔の生えた鳥居の奥に小さな祠があった。


柏手を控えめに打って祈る。 




(あいつを助けてください。僕はどうなったって構いません)


「言ったな」




声が上から確かに聞こえた。見上げても人はいない。いるはずもない。カラスが羽ばたく音が聞こえた。


ろくに眠れていないのだ。カラスの鳴き声が人の声に聞こえることもあるのかも知れない。僕はそう思うことにして家に帰った。その夜は一睡も出来なかった。その次の夜も、その次の夜も。




「カラス、カラセ、ケヲカラセ」


信号待ちの行列に。


「黄色い線の内側まで——」


「カラス」


電車のホームの雑踏に。


「ケヲカラセ。ケヲカラセ。」


「ケ、ヲ、カ、ラ、セ」


昼休みの喧騒に混じって妙な声が聞こえだした。頻度は日に日に多くなっている。




脳が膿のようなもので満たされて苦しくてたまらない。身体のどこかを痛めつけて精神の苦痛から逃れる衝動と必死に抗う。





「聞いた?山木さんマイコプラズマだって」


「有坂さんもこの時期にインフルエンザこじらせて肺炎らしいよ」


「バスケ部の坂本くんは体育の授業中に複雑骨折」


「電車また遅延した!最近人身事故多くね」





学校中の大病や大怪我、毎日のように起きる自殺。幻聴。


僕は自分が正気であることを幻聴が起きた日と同時に起き始めた町の異常から確信していた。


なにが起きてる?


心霊現象に決まっている。


じゃあどうする?神社にでも駆け込むか?


クラスメイトに家が神社の生徒がいるが「神社にお参りしたせいで変な声が聞こえて町が大変なんです」なんて言っても形だけのお祓いをしてそれとなく精神科へ誘導されるのがオチだろう。


悪霊なんてほとんどの神主だって本心じゃ信じてないことくらいまともな感覚と常識があれば分かる。


だが心霊現象は本当に起きている。——いや本当にそうだろうか。統合失調症は無関係な出来事を繋げて自分に妄想を作る。


たまたま不運が町で続いていて、それを幻聴と結び付けているだけかもしれない。


わからない。


なにが起きているのかわからない。


自分が正気かわからない。


世界が正気かわからない。




(だめだ。保健室行こう)


HRが始まる前に、意識の隙間から漂う腐臭にふらつきながら教室を出る。


肩に軽い衝撃が走った。崩れ落ちるように倒れる。


ぶつかったのは羅生祓。


不登校ぎみの、孤独というより孤高という表現が合うクラスの一匹オオカミ。


「学校一美人」というだけで仲間を作らずとも学校中で特別な位置にいる異端児だ。


羅生祓は巫女である。大きな神社の神主の娘らしく、その神社は魔除けにおいて日本で最も有名な布都大社というらしい。先述の家が神社のクラスメイトだ。


雪のように白く長い髪は生まれつきのものらしい。白磁よりも透き通る肌に、凛とした和を思わせる嗅いだことの無い花のような香り。僕を見下ろすその琥珀の瞳は何千年も生きた龍のように深く、深く。


僕はこの時初めて間近で羅生祓という少女を見た。「かわいい」なんて言葉ではくくれない——人間離れした麗しき神話のお姫様。




「ケヲカラセ。ケヲカラス。ケガラス。ケガラセ。ケガラセロ」




「ケガらわしい」




幻聴ではない。


羅生祓がそう呟いたと気づくのに数秒かかった。


青い氷のように冷たく透き通った美しく怖ろしい声。心の弱った部分に刺さり、謝罪もできずに逃げ出した。





保健室の先生に薬を処方する権限はない。僕はドラッグストアで買った花粉症の薬をこっそり多めに飲んで眠ることにした。花粉症の薬は眠くなるから、眠れない僕はそれを逆手にとってこうやって眠っているのだ。





「それだけケが枯れて抗ヒスタミン薬だけで自殺しないとはイかれたやつだ。生まれ持ったケが人間離れしているね。まったく町中みっしり穢れをばらまいてくれたね。低級の妖になったケガレの駆除だけで布都はてんやわんやだよ」




目を覚ますと美しい、氷の宝石のような声が聞こえた。羅生祓が隣のベッドでペーパーバックを読んでいた。


起き上がると制服にお札が貼られている。端から少しずつ黒ずんでいっているように見える。既に半分以上焦げたように黒くなっていた。




「勝手に人のカバンを漁ったの」




ぼくは少し気を悪くする。




「見られて困るものは特に見当たらなかったが」


「人としてどうかと思うよ。羅生さん」


「祓でいい。長い付き合いになるしな」




その言葉の意味は汲み取れなかったが、今一番知らなければいけないことを先に質問した。




「とにかく、穢れだかケが枯れてるだか知らないけれど、僕は呪われてて、君は神社の跡取りとしてこれについてなにか知ってるわけだね。こんなお札が貼ってあるってことは僕、心の病じゃなさそうだ」




「話が早くて助かるが、教養が圧倒的に不足しているな。穢れとはケが枯れるとで同じ意味だよ。ケとは日常、生活そのものだ。漫画風に言うなら生命エネルギーと言い換えてもいい」





「お参りに行ったんだ。家の近くの空き地の奥にある、だれも整備していない神社に」


「空の神社の神坐に悪霊が住み着き、神格を得ることがある。おそらくその神社は昔住んでいた人たちが氏神として祀っていたもので、昔の住人が引っ越す際神もついていったんだろう。そうしてあの神社は空となった。そういう場所に力の強い悪霊が棲みつき、「狂い神」として神格を得ることがある。腐れ神社と私たちが呼ぶものだ。私の家——布都神社が行政に取り壊しを命じていたのだが、一歩遅かったな。」




祓はペーパーバックを置いてこちらに向き直った。




「君には神格を得た悪霊が憑りついているんだよ。単なる悪霊のお祓いとは訳が違う。神に人は逆らえない。君はこのままでは生きているだけで周りを穢し、不幸や理不尽をばらまき、狂い死にするだろう」


「話が、見えてきたんだけど——僕が死ななきゃ大変なことになるってこと?」


「そうだ」


「死ぬのは嫌だ」


「死ぬのは嫌か?」


「死ぬのは嫌だ」




祓がベッドから起き上がり、寝ている僕の上に馬乗りになった。顎をつかんで無理やり視線を合わせられる。凛とした花の匂いと、桃とココナッツの合わさったような少女の香りが僕の心臓を高鳴らせる。なぜだろう。僕は今後彼女に逆らえない予感がしていた。それは生まれる前から決まっていたような、必然染みた本能の命令。




「じゃあ、人間を辞めて、私の下僕になれ。殻栗空」


「人間を——辞める?」


「私の式神になれ」


「式神って、それは陰陽道でしょ。君の家は神道のはずだ」


「布都大社はお祓い——ここまできたら退魔と呼ぼうか。それだけを千年以上仕事にしてきた。神道だけじゃなく仏教、密教、陰陽道、道教、なんならキリスト教だって退魔のためなら無理矢理習合させて用いているよ。式神なんて、うちの退魔師なら持ってることが大前提だ。私もそろそろ自分の式神が欲しかったところでね」


「式神になったら、その「狂い神」は僕のところから離れるの?」


「離れる。布都大社の『所有物』になるということだからな。野良の狂い神はビビッて逃げ出す。その代わり——お前は悪鬼、精霊、神霊怨霊、妖といった『向こう側』のお仲間になることになる。そして私の式神になるということは私の命令に逆らえなくなるということだ。呪い、悪霊、心霊現象。反吐の出るような悲劇的な事件に私は容赦無く君を連れ出し、使い倒す。そのたびに君は人から外れていく。それでも死にたくないか」




ジジッと音がした。見るとお札が完全に変色していた。




「カラセカラスケ゚がらわすケガレヲケガレヲ——地獄ヲバラマケ」




幻聴と共に動悸と冷や汗が心臓の裏から噴き出した。脳が恐怖に強姦される。




「死、にたくない。傷つけたくない」




祓いはポケットの中からお守りの袋を取り出す。躊躇なく袋の口を開き、折りたたまれてよれよれになったお札を取り出した。




「クリカラ。お前はこれからクリカラだ。倶利伽羅剣、最強の退魔の剣。私だけの剣。殻栗空はカラカラではなくクリカラ、私だけの剣として生きろ。この式札に誓え。復唱しろ。『布都の羅生祓の式神、クリカラとしてすべてをささげる』」




意識の隙間の腐臭。脳梁から噴き出す膿。死の匂いがそこまで来ている恐怖。


羅生祓の白い髪だけが、僕を正気足らしめていて。


本心から誓う。




「僕はクリカラ。布都の羅生祓の式神クリカラとしてすべてを捧げる」




瞬間、左脳と右脳の隙間に青い風が吹き渡る。洗浄されていく。漂白されていく。そして僕は人から外れたことを魂から思い知った。




午後一時。


布都大社でまだ手続きがある、ということだったので僕と祓は早退を希望した。正確には早退を先生に伝えたのは僕だけで、祓は荷物をまとめてさっさと保健室から出て行った。


神社に行くまで、なんだか祓は不機嫌だった。




「ねえ、なんか怒ってる?」


「怒ってる?私がかい?怒ってはいないさ。ただとても不機嫌なだけだ」




いつもより冷たい、絶対零度の声で返されて僕はそれ以上聞けなかった。


神社の参道近く特有の土産物や食べ歩きの店が出てきて、活気に満ちているのは大きな鳥居をくぐる前まで。


観光で行くような大きな神社を通り過ぎ、普段神職の人が寝泊まりしている建物に入ると、中は一般的な家屋と変わらなかった。家具や調度品が高価なものだということは分かったが、それだけだ。


二階に上がった突き当りの部屋をノックする。




「親父。狂い神憑きを剥がしたぞ」


「剥がしたあ?」




ドアの向こうから声がして、パソコンをカタカタする音が止む。


扉が開いて出てきたのは四十代のおじさんだった。羅生祓の親父さんということは神職の方なんだろうが、私服姿ではそんな印象は受けなかった。


男は祓を一瞥し、僕を見て口角を吊り上げ、また祓に向き直った。




「狂い神憑きへのお前の任務は対象の式神化、もしくは殺害の二択だった。お前は後者を選んだはずだが」


「こいつの霊的能力のポテンシャルを見て、式神にしたくなった」


「人間が式神を持つということの意味。布都の人間が式神を持つということの意味は当然分かってるんだろうな」


「分かっている」


「ならいい。追って指示を出す。本堂に人をやるから、形代をその少年に渡しなさい」


「助かる」




男はドアを閉めた。




「殺す気だったの?」


「……」


まあいい。どんな心境の変化か知らないが、彼女は僕を助けてくれたのだ。


「形代ってなに」


形代くらい僕だって知っている。それを僕に渡すとはどういうことか。


「来ればわかる」


「僕を式神にするのって、もしかして大変なことだった?」




そういうと羅生は振り返り、口を引き結んで泣きそうな顔をして上目遣いでこちらを見る。


彼女がこんな年相応の少女のような表情をするのはなんだか似合わなくて、僕はうかつに質問したことに切ない後悔を覚えた




「黙って来い」




本堂には巫女の恰好をした、僕らとそう年が違わない少女が正座していた。




「祓さん」


「よう、沙也」


「式神の男の子さん。初めまして。羅生家の分家として布都大社の仕事を手伝わせてもらっています。麻生沙也と申します」


「はあ、はじめまして」




祓のあとに続いて、用意されていた座布団に腰掛ける。


沙也は箱から掌におさまる程度の袋をとりだして僕にうやうやしく差し出した。




「手っ取り早く済ませましょう。こちら布都御霊の形代になります。これを——失礼、お名前は」


「殻栗空です」


「殻栗さんにはこれからこれを肌身離さず持っていただくことになります」




僕は袋から中身を取り出す。漆塗りの黒い棒。よく見ると切れ目がある。僕は持ち手と思われる部分から鞘を引き抜く。


刃が覗いた瞬間から惚れ惚れするような白銀の輝き。祓の髪を思い出させるような。


全体の刀身は儀礼用とはとても思えず、明らかに命を奪うことを想定して打たれた一品だと分かる。




「銃刀法違反では」




僕が常識的見地から意見する。




「いいえ。この書類も肌身離さず持っていてください。自分が神職で、宗教的理由から刃物を持ち歩く必要性があることを証明する文書です。職質で捕まったとしても遅くとも半日で解放されるようになっています」


「もうええでしょう。私眠い。部屋に戻るから説明あとはよろしく」


「おやすみなさいませ。祓さん」




ピシャン、と襖を開けっ放しにして、祓が出て行った。


沈黙が下りる。




「祓さんが突然「人間式神」を連れてきたので、驚きました」


「なんか、前々から欲しかったみたいですよ」


「嘘です。「人間式神」と契約するということは布都の跡取りになるための最後のステップなんですよ。つまり今日、彼女は正式に羅生の跡取りとなることが決まりました。おかしいんですよ。祓さんは心霊に携わることを嫌っていました。この世ならざるものと関わることは、自身の正気を賭けて博打をするようなものです。私たちの価値観では理解できない、理解したくもない異形と向き合うことは精神を蝕む。そうやって壊れていく術師を何人も見て、祓さんは心霊に忌避を抱くなるようになりました。あなたの何が、祓さんをうごかしたんでしょうか」


「分かりません。同じ学校とはいえマトモに話したのは今日が初めてなので。でも、今日一緒にいて、祓のことはちょっとだけ、ほんのちょっとだけ分かった気がします」


「え?」


「ぶっきらぼうで、偉そうで、わざと嫌われそうな口調で喋るひねくれ者。それでいてなにより、すぐに絆される底抜けのお人よし」




沙也さんはぽかんとして、口に手を当ててクスクスと笑いだした。




「祓さんをよろしくお願いします。空さん」





祓は自室のベッドに倒れこんで、殻栗空のことを想う。


今日のことじゃない。私は数年前から彼を知っていた。


心霊は最悪だ。「こちら」の世界は最悪だ。不条理で、理不尽で、理由なんて欠片もなく、道理なんて微塵もなく日常に這いより蹂躙する。逃げ出したかった。「祓」という自分の名前も嫌だった。


あれは私が中学二年の時だっただろうか。心霊と対峙して廃人になった知り合いの見舞いに行った日の夜が任務だった。大勢の夢の中に現れて、相手の精神を蝕み犯す悪霊、「夢子ちゃん」の討伐依頼。大勢の夢に現れるためネットロアとして広まりだしていた。彼女は小学一年生のころから病気で昏睡状態が続いており、小学六年生の時他界。生への未練から悪霊になり、夢で彼女と出会うだけでケが枯れ、精神に異常をきたす。


他者の夢に入る瞑想で私が「夢子ちゃん」と接触したとき、同級生の殻栗空の夢にいたのは偶然だった。見捨てなければならない。彼女が彼の夢を飲み込み精神を犯しつくして、夢の主導権を握ったあと、除霊しなければならない。


夢を眺めているだけで叫びだしそうな穢れだった。殻栗空が壊れるのは一分もかからないだろう。




「イキタカッタ。いきたかった。」




みんなそうだよ。


でも、死んだら死ぬんだ。死んだあとにそんなことを言っても意味ないよ。




「いきたかった。いきたかった」




殻栗空の精神がぐにゃぐにゃ揺れる。相当な苦痛のはずだ。今すぐ逃げ出したいはずだ。




「どこに行きたかったの?」




行きたかった?


生きたかったではなく?


いやそれよりも。会話をしていられる余裕なんてないことは空の精神の揺らぎから見れば明らかだ。




「夢子ちゃん」の周囲を渦巻く瘴気が一瞬、凪ぐ。それは一瞬で、更なる穢れを周囲にまき散らす。




「海を見てみたかった。キャンプしたかった。公園で遊びたかった。星がたくさん見たかった。お父さんとお母さんと行った、蛍の見える川、また見たかった」




未練をまとった瘴気が渦巻く。夢子ちゃんは泣いている。今、今なら祓えるかもしれない。今祓わなければならない。空が壊れる。


夢の中で空の身体がサイケデリックに歪む。




「おっととととと、泣かないで。ほら、お兄ちゃん壊れちゃうよ。夢子ちゃんだよね」


「行きたかった。行きたかった」


「わかったよ。お兄ちゃんに任せて。得意技見せちゃうよ」




そう言って空は左手だったものを空に掲げる。夕暮れの公園が舞台だった夢はぐにゃりと歪み、新しい景色を生んだ。




夜の山の頂上、満天の星空。




夢子ちゃんの台風のような穢れの奔流が、止まる。


彼女は目を見開いて星空を眺めている。




「幽霊がいても、明晰夢って使えるんだなあ」




身体が元に戻った空はもはやただの少女に見える夢子ちゃんのとなりに立つ。




「一等星、二等星くらいは忠実に再現できてるなあ。僕、夏の星座だけ詳しくてさ、天の川の真ん中にある明るい星、分かる?あれがデネブ、アルタイル、ベガ——君が指さす夏の大三角——って知らないよねえ」


「き、れ、い」




それから、空は夢子ちゃんと一緒に遊んだ。大怨霊の側にいる苦痛をおくびにもださないで。


海辺で花火をして、公園で砂遊びして、キャンプでバーベキューをして。


蛍を川辺で眺めながら、空は言った。




「夢子ちゃん。本当の名前はなんていうの?」


「は、る、か。高崎、遥。どこまでも行けるようにって、お父さんが」


「遥ちゃんか。いい名前だねえ」


「だから、私、そろそろ遠い場所まで行こうと思うの」


「……そっか。」


「お兄ちゃん。ありがとう。お化けになった私と遊んでくれて、抱きしめてくれて、お話してくれてありがとう」


「おー。元気でね」




夢子ちゃんの——高崎遥の霊がふっと消える。夢が崩れだした。




瞑想を解いた私は、泣いていた。心霊現象はいつだって救いようがなくて、やるせなくて、悲しくて。バッドエンドしかなくて。


私は生まれて初めてハッピーエンドを見た。


救いようがないお化けはやはり救われなかった。大勢の人の魂を犯し、狂い、ただ壊しただけ。


死者に救いはない。死んだらそこで終わりだから。


それでも、これはハッピーエンドだった。


殻栗空はこの夢を覚えていないだろう。夢は目覚めとともに消えていくものだ。


それでも、私はこの夢を忘れられないだろう。魂を穢されながら、お化けの少女と遊んだ底抜けのお人よしの彼のことを。


殻栗空。殻栗空。その名前を、口の中で転がす。

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