珊瑚櫻の巫女狐
――灰色の桜が舞っている。
色を失った空から、小指の爪ほどの花弁が雪のように降ってくる。それらは好き勝手に吹き荒れる風に乗って、くるくると回転しながら、高く舞い上がっては地面に叩きつけられていった。
その様を、俺はただ寝転がって眺めている――夢だからだ。
俺の頬に落ちた花弁を、誰かの白く細い指が払いのけた。視界の端で、くすんだ桜色の長い髪が揺れる。色も音もない世界で、決して明るくないはずのその髪色が、ひどく鮮やかに見えた。
自分と同じくらいの年齢の女だと思う。思う、というのは、俺は一度もそいつの顔を見れていないからだ。
そいつの表情にはいつも霞がかっているし、桜吹雪のせいではっきりと認識ができない。それでも、俺の頭を乗せた腿の柔らかさや、顔に積もる花弁を払う指先の優しさだけは感じ取れた。
嫌な気はしない。それどころか、懐かしくて、愛おしくて、この場から離れたくないと心底思っている。
……だが、所詮は夢だ。終点は必ずある。
彼女の唇が動く。水の中で聞いているような、何重にも張られた膜の向こうから響いてくるような声で、よく聞き取れない。
桜はまるで泣いているように花を散らす。視界を埋める花弁の数が多くなって、彼女の輪郭すらも隠していく。
心と体が引き千切られるような後悔と惜別を味わいながら、俺は後頭部の激痛と共に眠りから覚めた。
未だ眠りに半分浸っているぼやけた視界に、丸い餅型の照明が張り付いた天井が見える。ベッドからは頭から落ちたらしい。
薄いフィルターが一枚一枚と除かれるように俺の頭が覚醒するにつれて、床の冷たさや小鳥のさえずり、時計の秒針が進む音が認識できるようになってきた。
体をよじり、中途半端にベッドに残っていた足を床に降ろすと、振動で勉強机から目覚まし時計が転がり落ちた。その小さな機体のどこに詰まっていたんだと思うほどの部品が散らばり、拾い上げたら文字盤が目に入った。止まってしまった短針と長針が指し示す数字を見て、俺は血の気が引く音を聞いた。改めてスマートフォンも確認するが、文字盤と違いはない。
「やっべ、寝坊した!」
気づいてからは早かった。
時計はもう死んだ、助からないということにして机に投げ捨てる。床に散らばるちまちました部品に構わず、寝間着代わりのハーフパンツを脱ぎ捨てて制服に着替えた。制服と言っても、スラックスだけでブレザーなんて肩肘の突っ張るようなものは着ない。タンスから赤いTシャツを引っ張り出し、パーカーに腕を通したら鞄を乱暴に掴んで部屋を出た。
ドスドスと階段を降りる足音を聞いて、台所から父の染井貴春がひょっこりと顔を覗かせた。
「おっはよ~、千春チャン。朝ご飯できてるわよぉ」
「ウゼェおはようクソ親父」
早口でおざなりな挨拶を返し、一目散に玄関に向かう俺の背中に、親父は仕事帰りの格好――顔にアゲハ蝶でもくっつけてんのかと思うほど濃いメイクと、ギラギラとした紫のスパンコールが鱗のようについたミニドレスのままで抱きついてきた。
親父の身長は百八十センチある俺よりデカい上に、細身なくせに力も強いから俺の足を止めることなど簡単だ。
「ちょっとぉ、朝ご飯はちゃんと食べなきゃダメよ、千春チャン!」
「時間ねぇから」
「卵焼きだけでも食べてちょうだい! ママ、頑張って作ったのよぉ?」
「なーにが『ママ』だよクソ親父!! 香水臭ぇからひっつくな!!」
大きく腕を振れば、親父はあっさりと離れていった。拳を軽く握り、それで口元を隠すぶりっ子のような仕草をしながら「ひどい!」と悲愴な声を上げたが、俺は気にせず靴に足をねじ込む。嘘泣きにほだされて構ったら最後、もっと鬱陶しいことになるのは経験から分かっている。
案の定、親父はすぐにケロッとして顔を上げた。
「あら、本当にもう行っちゃうの?」
「日直だから早く行かなきゃならねぇんだよ。目覚ましセットし忘れて寝坊しちまった」
「そーんなこともあろうかと、おっちょこちょいな千春チャンのために、ママは朝ご飯をお握りにしていたのでした! 行きがけに食べていきなさい。喉、詰まらせないように気を付けてね」
ラップに包まれた拳大の握り飯は、何が入っているのかずっしりと重い。ありがたいが、正直に礼を言うのも恥ずかしくて口をもごつかせている内に、弁当も持たされて背中を押された。
「さ、千弦ママにも挨拶して」
「……おう。行ってきます、母さん」
下足箱の上に置かれたハガキサイズの写真立ての中で、艶やかな黒髪を桜吹雪になびかせた母さんが微笑んでいる。まだ生まれて間もない俺を、この世で最も大切な宝物だと言わんばかりに抱き締めながら。
母さんのことは、親父の思い出と写真でしか知らない。俺を産んで、病気ですぐに死んじまったからだ。
どれだけ急いでいても、どれだけ機嫌が悪くても、必ず母さんに声をかけてから出かけること――それが俺と親父のルールだ。
玄関の外まで見送ろうとする親父を押し留めながら家を出て、駆け足でマンションの非常階段を降りていく。フロア中央の共用階段や正面エントランスを使わず、裏口から出るのには訳がある。
清掃業者くらいしか出入りしない裏の通用門を出た瞬間、俺は複数の人影に囲まれた。
「よォ、染井千春ゥ。今日こそ落とし前をつけさせてもらうぜェ」
思い思いに学ランを着崩し髪を派手に染めて、至る所にガーゼやら包帯やらを巻き付けた男たちが、俺に敵意の籠った目を向けてくる。こんな朝から町ひとつ離れた俺の家で待ち伏せをするとは、不良って奴らはどうしようもなく暇らしい。
いつもであればひとりひとり相手をしてやるが、今日はそんな時間はない。無理矢理にでも押し通ろうとしたが、やはり道を譲ってはくれなそうだ。
「おいおい、どこ行くんだよ」
「学校に決まってんだろ。今日は日直なんだよ、退け」
「日直ぅ? ははは、おい、聞いたか? 日直だってよ!」
「懐かしー、聞いたの小学生の時以来だ!」
「面白かったか? そりゃよかった。じゃ」
「待てよ」
適当にあしらって通り過ぎようとしたが、そう上手くいかなかった。
肩を掴まれ、頬に衝撃が走り視界が揺れる。少し遅れて、頬の内側からジンジンと痛みが湧いてきた。すぐ目の前にいる金髪野郎に殴られたのだ。
「話はまだ終わってねぇぞ。この間マサがボコられた分、返させてもらうぜ!」
「……殴ったな、俺を」
「構わねぇだろ? これからもっとやられるんだか……ぶッ!!」
金髪野郎の言葉は、最後まで続くことはなかった。
俺の拳が鼻にめり込み、二メートルほど吹っ飛んだからだ。群れていた不良たちの顔が一瞬で強張ったのも構わず、俺は乱れた前髪をかき上げる。
「染井家家訓、第三条……『暴力はむやみに振るうべからず。振るっていいのは、自分や家族が傷つけられた時のみに限る。正当防衛万歳』!! テメェらも大人しく帰る気ねぇみたいだから、俺ももう容赦しねぇ。覚悟しやがれ!!」
「上等だ、やっちまえ!!」
あとはもう、迷惑極まりない朝の住宅街に響く男の怒号と悲鳴の大合唱。
俺ひとり対不良三十人弱。傍から見れば俺が劣勢だろうが、喧嘩のセンスは俺の方にある。
既に手遅れだと思うが、俺は極力ご近所迷惑にならないように奴らを近くの公園に誘導する。向かってくる不良たちを一撃で沈めていき、公園は二十分ほどで静けさを取り戻した。大柄な野郎たちが大の字になって呻いている様に、俺は舌を出した。
「これで満足か? じゃあな、もう来ンなよザコ共」
俺は放っていた鞄を拾い上げ、ポケットから握り飯を出してかじりながら公園を後にした。すでに一限目が始まっている時間だから、もう焦っても意味はない。中身は昨日の晩飯の残りだった唐揚げとワサビとクリームチーズだ。さすが親父、俺の好みを分かってる。
ラップに取り残された米粒まで腹に納め、信号の歩行者用ボタンを押そうとした時だった。
「……ん?」
子供の手が、俺の伸ばした人差し指を掴んでいた。
いつの間にか、隣には五歳くらいの少年が立っていた。ラクダ色のジャンパーを着て、二年くらい前の戦隊ヒーローがプリントされたイヤーマフをつけている。――もう六月になるというのに。
「何だ、ガキ。離せよ、ボタン押せねぇだろうが」
子供は俯いたまま、車がビュンビュンと行き交う横断歩道を指さした。ちょうど真ん中あたりに、汚れたサッカーボールが転がっている。
「拾ってきてほしいのか? けど、今はまだ駄目だ」
「……なんで?」
少年が顔を上げる。頭の右側が耳まで抉れ、落ち窪んだ目からは血が涙のように流れていた。
俺は構わず、信号のボタンを押す。
「今は信号が赤だろ。赤信号は渡っちゃいけないって、母ちゃんに教わらなかったか?」
「お……かあさん、いない……あっちで、まって、る……」
「そうかよ。じゃ、早いとこ渡って母ちゃんの所に行ってやれ」
「……こわい。おにいちゃん、いっしょにわたって……」
「冗談じゃねぇ、こちとら学校があンだよ。信号変わったらあそこまで連れてってやるから、自分で拾って自分で渡れ」
正面の信号が青に変わる。俺は少年の冷たい手を握って、横断歩道を歩き出した。
やがて、サッカーボールのある横断歩道の真ん中まで来ると、俺は足を止めた。少年が困ったように見上げてくる。
「どうした? さっさと拾えよ」
「……ひろって」
「ダメだ。お前のボールなんだから、お前が拾え」
少年は立ち竦んだまま微動だにしない。青信号が点滅を始めたが、俺も動くわけにはいかない。停まっている車の運転手が、横断歩道のど真ん中で突っ立っている俺を怪訝そうに見つめているのが分かる。
「最後のチャンスだ。お前が拾え、ガキ!」
俺の声に、少年がぱっとしゃがんでボールを拾い上げた。素早くその手を取って、俺たちは駆け足で横断歩道を渡りきる。
車道の信号が青になり、また車が猛スピードで行き交い始めた。何度も横断歩道とボールを見比べる少年に、俺はしゃがんで目線を合わせた。
「ちゃんと渡れたじゃねぇか。……これで、三途の橋を渡るのも、怖くねぇだろ?」
「うん……おかあさんのところ、いく」
「おう。次また生まれた時は、ちゃんと信号は守れよ」
「はぁい。ありがと、おにいちゃん」
サッカーボールを抱き締めた少年は、綺麗な顔に満面の笑みを浮かべて、光の中へ消えていった。
俺は腰を上げて、鞄を肩にかけなおして学校へ歩き出した。ガードレールに立て掛けられた百合の花が、柔しい初夏の風に揺れていた。
◆◇◆
「――……で、遅刻したってわけ」
「おう」
「じゃあ、何で幽霊と横断歩道を渡っただけなのに、こんなに傷だらけの泥だらけなのかしら?」
それは、と言おうとして開いた俺の口から出たのは、引きつった悲鳴だった。切れた口の端に、クラスメイトの杠葉院璃奈が無遠慮に消毒液が染み込んだガーゼを押しつけてきたからだ。
結局、俺が学校に着いたのは二限目も終わろうという頃だった。あからさまな喧嘩の傷をこしらえて教室に入ってきた俺に、言葉をかける奴などいない。目の前のコイツともうひとりを除けば。
「どうせケンカしたんだろ? 朝早くからモテモテだなぁ、千春」
俺の肩に肘をついて体重をかけてきたのは、同じくクラスメイトの卜部恭太郎だ。ヒョロリとした長身で、明るい色の短髪は毎朝ワックスで整えているらしいが、正直寝癖のまま登校してきた時との違いが分からない。
強面で愛想も悪くて喧嘩ばっかりしている俺に、自分から近寄ってくる奴はコイツらくらいだ。幼稚園の頃からの腐れ縁で、何くれと世話を焼いてくる。
特に璃奈の方は、学校内外にファンクラブまでできるくらいには見た目が良いらしい。目はドングリみたいに大きいし、丁寧に編み込んでいる長い黒髪は艶があるが、俺はガキの頃から見てるから特に感慨はない。まぁ、好きなヤツは好きなんだろうな、という容姿だ。こんなこと言えば殴られるから言わねぇが。
とにかく、璃奈は漫画みたいな青春を謳歌できるだろうに、何故俺なんかに関わってくるのか。何度か聞いたこともあるが、はぐらかされるばかりでよく分からなかった。
現に今も、昼休みが始まると同時にコイツは自分の昼食もそっちのけで、怪我した俺を保健室まで引っ張ってきた。どれだけ断ろうが、手を振り解こうが、璃奈は何度も腕を掴んでくるから俺の方がいつも根負けしている。
傷にガーゼや絆創膏を貼った璃奈に、「はい終わり」と膝を叩かれた。痛がる俺を無視して、彼女は治療道具を薬品棚にしまう。ケラケラと笑う恭太郎に肘鉄を食らわせたりヘッドロックをかけたりしていると、彼の制服のポケットから一枚の紙が落ちた。
「おい、何か落ちたぞ」
「依頼だよ。新聞部から、我らオカルト研究会へのな。……ってか、そろそろ放してくれよ、ギブギブ」
腕をペシペシと叩かれて、俺は恭太郎を解放する。咳込む彼を尻目に、紙を拾い上げた。恭太郎のものではない、小さな丸い文字が並んでいた。
「『夜な夜な珊櫻湖に現れる妖怪、白い人喰い幽霊の謎を探ってきてほしい』……何だコレ、妖怪か幽霊かはっきりしろよ」
「そこは言葉のアヤってことで。夏に向けて怪談特集を組むから、そういうハナシのひとつやふたつ欲しいんだと」
「でもさ、あそこって立ち入り禁止じゃなかった?」
璃奈の言う通り、その湖は『底なし根なしの珊櫻湖』と呼ばれている深沼だ。この街の人々は、とても悪いことをした人を沈める場所だとか、あの世と繋がっていて落ちたら助からないとか、色々と吹き込まれて育つ。俺たちもガキの頃から悪さをすればそうやって脅されたものだから、純粋だった当時は震え上がったものだ。
今なら危険な沼に子供を近寄らせないための方便だったと分かるが、それでも自分からわざわざ近づこうとは思えない。――何となく、不気味だからだ。
それでも恭太郎は「ヘーキヘーキ」と笑い飛ばした。
「昨日の夜、下見に行ったけどフェンスもロープも看板もなかったぜ!」
「い、行ったの恭太郎くん!?」
「放課後にチョロっとな。つっても、森の入口までだけど」
「お前……なんつー無謀な……」
俺も璃奈も溜息を吐くが、恭太郎はまるで冒険から帰ってきた勇者の如く得意気だ。ビシッと天井に向かって立てられた親指をへし折ってやりたい。
珊櫻湖は街の北東側、鬱蒼とした森の中にある。人の手も入っていないから、樹海と言った方がしっくりくるかもしれない。野生動物はいないと思いたいが、そんな場所、昼間であっても入りたくはない。
予想に反して否定的な俺の顔つきに気づいたのか、恭太郎は面白くなさそうに口をへの字に曲げた。
「何だよ、ノリ悪ぃなふたりとも! オカルト研究会を結成して、初めての調査依頼だぜ!? もっとテンション上げろよ!」
「どう上げろってんだよ馬鹿、十中八九デマだろ。憑り殺すならまだしも、幽霊が人を喰うわけねぇだろうが」
「でも、噂だけなら私も友達から聞いたよ。夜に珊櫻湖の方に白くて長い影が見えたとか、森の近くを通ったら変な声みたいなのが聞こえたとか……」
璃奈の言葉に、恭太郎が「ホレ見ろ!」と勝ち誇ったように胸を張る。なんか腹が立ったから今度はコブラツイストをかけてやった。コイツはどうやら事前に聞き込み調査をしていたらしく、俺に絞められたままブレザーのポケットから手帳を取り出して読み上げた。
幽霊らしきものの目撃例は意外と多く、共通しているのは細長い煙のような白い影が森の方に見えたというものだ。中には夜中に犬の散歩をしていたらいきなり路地裏に向かって吠え始め、見ると白っぽい何かがいて、すぐに消えたという証言もある。
いよいよ俺は頭が痛くなってきた。幽霊だろうが妖怪だろうが、存在が現実味を帯びてくれば話も変わってくる。
「俺は反対だ、断れそんな依頼」
「え、どうして?」
首を傾げたのは恭太郎ではなく璃奈だ。
「どうしてって……そんな幽霊が本当にいるんなら、ノコノコ喰われに行くようなもんじゃねぇか」
「確かに幽霊がいるのは本当かもしれないけど、人喰いって名前の割には実際に誰かが食べられたって話はないじゃない。きっと話が広まる内に尾ヒレと背ビレだけじゃなくて、胸ビレまでついちゃったんだと思うな」
「そうそう、危なくなったらすぐ逃げりゃあいいんだよ。つーことで、璃奈ちゃんはカメラ、千春はお菓子を持って今日の夜十時、森の入口に集合な! 遅れんなよ!」
恭太郎はまるで遠足にでも行くようなテンションで、足取り軽く保健室を出て行った。時計を見ると昼休みも半分を消費している。随分と話し込んでしまったようだ。
俺たちも教室に戻り、昼食を食わねばならない。保健室の鍵を職員室に返して、廊下を急いだ。
擦れ違う男子生徒たちは璃奈を目で追うが、すぐ隣にいる俺に気づいてさっと視線を外す。まるで熊でも見たような表情だ。そっちから何かしなけりゃ俺も何もしねぇよ、失礼だな。
「ねぇ、千春くんが幽霊に会った交差点って、五丁目の公園近く?」
「おう、何で分かった?」
「二年前かな……交通事故があって子供が亡くなったってニュースがあったの。車道に転がったサッカーボールを取りに行って、車に轢かれちゃったって」
覚えてないかと問われ、記憶を漁るといやに救急車がうるさい日があったことを思い出す。
確か、雪の降る冬の日だった。サッカーボールを追いかけた子供が公園から飛び出してきて、車の方も道路が凍っていたからすぐに停まることもできず、轢いてしまったと聞いた。母親を早くに亡くした父子家庭で、子供まで喪った父親が悲劇的に報道されていた。
事故の後から、その交差点には子供の幽霊が現れるという噂が囁かれるようになったらしい。車を運転していたら子供が飛び出してきて、慌てて確認しても何もいないとか、信号待ちをしていたらどこからともなく「拾って」という声が聞こえたとか、遭遇例は多かったようだ。
「もう現れることはねぇだろうから、噂も忘れられるだろうよ」
「そっか、ちゃんと逝けたんだね、よかった。千春くんってさ、優しいよね」
「何が?」
「男の子が自分から逝けるようにしたんでしょ? 千春くんなら適当にあしらって無視することもできたはずなのにね。相手が幽霊でも妖怪でも、千春くんは昔から普通に接するもん」
全てお見通しといった笑顔の璃奈に、俺は舌打ちを返して頭を掻いた。
俺は物心ついた時から、常に「ヒトじゃないモノ」が見えていた。幽霊や妖怪といった類のものだ。あまりにハッキリと見えるから、人だと思って普通に挨拶したら幽霊だったなんてことは日常茶飯事だった。ちなみに、親父は見えるが母さんは見えなかったらしい。
見えない奴らは「幽霊や妖怪は怖くて悪いモノだ」と十把一絡げにして言うが、決してそんなことはない。気のいい奴もいれば、人間と共存しようとする奴もいる。現に俺が赤ん坊の頃に泣いていると、どこからともなく轆轤首やらひとつ目小僧やらが集まって、あやしてくれていたと親父は言っていた。
とはいえ、恨みを持って死んだ霊や、人間を喰って強大な力を得ようとする妖怪もたくさんいる。
璃奈は特にそういった奴らに好まれる体質で、昔から肩や背中に小さいヤツを二、三体は乗っけていた。幼稚園に入る頃には俺も良い霊と悪い霊の見分けが何となくついていたから、よく追い払ってやった。彼女は家が神社で先祖代々神主をしている家系だから、そういうモノに好まれるのだろう。
璃奈の言う通り、俺はあの子供の手を振り解いて学校へ向かうこともできた。そうしなかったのは、アイツは悪霊になりかけていたからだ。
「あの時、アイツは俺にサッカーボールを拾わせようとしてた」
「それ……もし手に取ってたら、どうなってたの?」
「魂抜かれて死んでただろうな、多分。サッカーボールはアイツの死の原因だ。アイツにその気がなくても、寂しいから一緒に橋を渡ってくれる相手がほしくて、俺を殺そうとしたんだよ」
妖怪たちから教えてもらったことがある。幽霊にとって、一番辛いのは『寂しさ』であり、それを紛らわす手っ取り早い方法は『仲間』をつくることだ。
多分、あの子供は自分が死んだことは分かっていたのだろう。橋の向こうで死んだ母親がいることも分かっていた。だが、ひとりで三途の川を渡るのは不安で、寂しかったから『仲間』を増やすため交差点に居続けたのだ。
命を奪うのは生きている人間だろうが幽霊だろうが許されない。俺がサッカーボールに触れて死んだとしたら、あの子供は罪に穢れて悪霊になってしまっていただろう。
悪霊となったら生前の記憶も失って、永遠に埋まらない寂しさを抱え続けることになる。誰かに祓われるまで、あの交差点に縛られるのだ。今までは目撃情報だけで済んでいたことが、生きている人間に実害が出てしまうだろう。
だから、未練とトラウマの象徴であった『サッカーボールをガキ自身に拾わせ、横断歩道を渡る』というステップを踏むことで、橋を渡ることは怖くないと思わせた。
「やっぱり、千春くんは優しいよ」
「……そうかよ」
……何だか項の辺りが痒くなってきた。大袈裟に後頭部をガシガシと掻いて、恭太郎の持ってきた依頼に話の方向をねじ曲げた。
「珊櫻湖、お前は来ない方がいいんじゃねぇか?」
「え、何で?」
「何でって……夜も遅いし、親父さんたちも心配すンだろ」
「そんなの抜け出してでも行くわよ! 写真部としてもオカルト研究会としても、絶対に幽霊の顔をカメラに収めてやるんだから!」
彼女がこうも息巻くのにも理由がある。璃奈は霊を引き寄せる体質だが、視認することはできない。オカルト研究会だけでなく写真部に入っているのも、一方的にちょっかいを出してくる悪霊どもをカメラに収め、ツラを拝んでやるためだという。成功した試しは一度もないようだが。
大人しい顔をしてはいるが、コイツはお転婆なところがある。行動力も度胸も無駄にあるから、ガキの頃から俺や恭太郎は振り回されていた。
「帰ったらすぐにカメラの準備しなくっちゃ! 千春くんも遅刻は厳禁だからね! 不良に絡まれても、相手しちゃダメだよ!」
恭太郎ほどではないものの、璃奈もワクワクした様子で目が輝いている。俺は諦めて大きな溜息を吐き、教室へ入っていった。
珊櫻湖の噂が何なのか、俺には分からない。本当にヤバい悪霊や妖怪だったら、依頼だろうが何だろうが関係なくふたりを抱えて逃げよう。そう覚悟を決めたのだった。
◆◇◆
「――じゃ、戸締りよろしくね、千春チャン」
夕食を終えると、今日も今日とて派手で毒々しいドレスを着て、副業であるオカマバーに向かう親父を送り出す。
信じられないかもしれないが、親父は昼は普通の格好で喫茶店を経営している。それなりに繁盛はしているようだが、それだけの稼ぎでは俺を大学まで行かせられないと、喫茶店を閉めた夜は繁華街でも仕事を始めたのだ。
何で親父がこんな格好をするのか。母さんが死んで、母親を知らないまま大きくなる俺を不憫に思い、だったら自分が父親も母親もやればいいと思っていたら『こう』なったらしい。マジで何でだ。
とはいえ、親父が昼も夜も働いてくれているおかげで、特段不自由もなく暮らせていることは確かだ。男手ひとつで育ててくれている親父には感謝している。一応。こんなだけど。
なるべく心配はかけたくないが、恭太郎たちを放っておくこともできないから珊櫻湖に集まることは言わなかった。親父が帰ってくるのは午前四時頃。それまでに新聞部からの依頼は終わらせて、何事もなかったように布団で寝ていなければならない。さっさと写真の一枚や二枚を撮って帰ればいいだろう。
「大人しくカメラに写ってくれりゃいいけど……」
自室でジャージに着替え、部屋を出る。貴重品だけでなく、懐中電灯や恭太郎に言われていた菓子も忘れない。
火の元や戸締りを確認して、玄関で歩きやすいスニーカーを履く。ふと、扉の脇に立て掛けられた金属バットが目に入った。万が一、強盗などが家に入ってきた時のために置いてある。実際に殴るわけじゃない。ちょっと振りかざして脅す程度だ。
少し考えて、俺はバットをケースに入れて肩にかける。幽霊や妖怪に通用するかは分からないが、ないよりはあった方がいい。
「ごめん母さん、ちょっと行ってくる。すぐ帰るから、親父には内緒にしててくれよ」
一応、微笑む母さんの写真に頼む。しっかり成仏しちまってるからか、俺たちの前に姿を表したことはないが、念のためだ。今は可愛い息子の味方をしてほしい。
玄関の鍵がしっかりかかっていることを確認して、駐輪所に停めてあるママチャリを漕いだ。
珊櫻湖がある森への入口まで、二十分程度で着く。余裕を持って出てきたつもりだったが、ふたりはもう待っていて俺を見つけるなり大きく手を振ってきた。
「悪い、遅くなった」
「全然! オレらが早く来すぎちまっただけだし! つーか、もう少し遅れてもよかったんだぜ。その方が璃奈ちゃんとふたりきりに……」
「璃奈といやぁ、お前、外出許可もらえたんだな。よく親父さん説得できたな」
「そりゃあ反対されたわよ。でもお祖母ちゃんが『いいよ』って言ったから、ムリヤリ出て来ちゃった」
首からさげた一眼レフカメラの調整をしながら、璃奈はあっけらかんと答えた。見た目も重量もゴツイ年代物のカメラだが、逆に古くないと実体のない幽霊は写りにくいらしい。
彼女はそれから思い出したように、ポーチからお守りをふたつ取り出して俺と恭太郎に配った。
白い無地の布で作られた長方形のお守りには、深い赤色の櫻珊瑚で作られた勾玉が揺れている。珊瑚といっても、海にあるようなものではない。珊瑚みたいな色と形で採掘されるから、そう名付けられた鉱石だ。
所々に桜の花びら見たいな薄い部分が散っているから、櫻珊瑚。小さい町にしたら貴重な観光資源のひとつでもある。
「お祖母ちゃんが持ってなさいって。魔除けの櫻珊瑚がついてるから、多少の悪霊くらいなら身を守ってくれるらしいわ。あと、千春くんのお父さんにも話は通したって言ってたよ」
「え、親父に話って――」
さっと背中に走った悪寒を見越したように、タイミングよく俺のスマートフォンが震えた。液晶には、予想通り『親父』の文字。しばらく待っても諦める様子もないから、俺は舌打ちと共にアイコンをスワイプした。
『ヤッホー、千春チャン! 杠葉院のおばあ様から聞いたわよ、ママに内緒でお家を抜け出すなんてやるじゃない!』
「親父……そこは普通怒るとこじゃねぇの?」
『何言ってんの、ちょっと冒険するくらいでママは怒らないわよ。……ま、話を聞いた時は驚いたし、今も心配はしてるけどね』
「……悪い」
俺は素直に謝罪する。親父に心配をかけないつもりだったが、逆により心配させてしまうことになってしまった。
親父は俺と電話するために店の外に出ているらしく、同僚らしい鼻にかかった男の声と、それにスマートフォンを離した親父がひと言ふた言返すのが、不明瞭に聞こえてきた。
『じゃ、ママはお仕事に戻るけど、千春チャンたちも冒険はほどほどにして帰るのよ! 夜は人間も幽霊も妖怪も変なのがいっぱいなんだから』
「分かってる」
『じゃあ最後に、染井家家訓第十条、復唱!』
「は!? えっと……『何があっても笑顔でただいま。お家万歳、家族万歳』だろ?」
『はぁい、よろしい! 璃奈ちゃんと恭太郎くんのこと、しっかり守るのよ!』
親父からの電話は切れて、俺は安堵の息を吐いた。てっきりバレたら叱られるだろうとばかり思っていたから、何だか拍子抜けだ。璃奈の祖母さんが上手く伝えてくれたのだろうか。
「お前の父ちゃん、相変わらずスゲェな」
「それどっちの意味だよ……」
「怒ってなくてよかったね。恭太郎くんのご両親は大丈夫だった?」
「あー、ウチはなぁ……良くも悪くも放任だからサ。ちょっと出てくるー、はーい、でオシマイ」
「それもそれでどうなんだ……」
恭太郎の両親はコンビニに行ってくるでも思っているのだろうか。行き先が立ち入り禁止の森と湖だなんて、露にも思っていないかもしれない。
これはいよいよ責任重大だぞ。遠足気分で警戒心皆無な恭太郎と、憑かれやすいくせに怖いものなしの璃奈を守れるのは俺だけだ。バットを持ってきて正解だったとしみじみ思う。
見えない重石が追加されていく俺の心情などお構いなしに、恭太郎と璃奈は足取り軽く森へと入っていった。
懐中電灯の限定的な灯りは、足元を照らすだけで精いっぱいだ。枝葉が何重にも重なった森に月明りなど届かず、俺たちは一瞬で異界に迷い込んだような心地になった。
最初は手も足も振り上げて先頭を歩いていた恭太郎も、予想以上の暗さにすっかり出鼻をくじかれたようで、今は俺の腕に縋りつくように小股で歩いている。反対に、璃奈は何物も見逃さないとばかりに、木立の間に懐中電灯を向けながら周囲に目を光らせていた。
「本当にこの森って静かよね。夜なのに小さい幽霊とか妖怪の気配も全然しない」
「親父が言うには、昔からそうらしいな。珊櫻町はそういうのが集まりやすい町らしいが、何でかこの森には寄り付かないらしい。……つーか恭太郎、いい加減離れろ。歩きづれぇんだよ」
「ヒドイこと言うなよ千春ぅ~!」
腕を振れば振るほど、恭太郎は強くひっついてくる。こんなんでよくオカルト研究会を立ち上げたモンだと、呆れを通り越して感心した。
物心ついた頃からこの世のものではない奴らが見えた俺や、見えずとも存在は感じられた霊媒体質の璃奈と違って、恭太郎は霊感というものがない。だというのに、彼は高校に入学するとすぐに同好会と言う形でオカルト研究会を立ち上げた。
俺たちが昔から幽霊のこととかを言うから、自分でも見たくなったというのが理由らしい。こんな胡散臭い同好会を学校が認めるわけがないと俺も璃奈も思っていたが、あっさり許可をとってしまった。
まぁ、俺としては『生徒は必ず部活動に入ること』という校則と、しつこい運動部からの勧誘に辟易していたから、オカルト研究会が発足したのはありがたいことではある。
「お前が受けた依頼だろうが! お前を盾にしていいってンなら、このままひっつくことを許してやる」
「ヒドくね!?」
「もー、ふたりとも静かに! そろそろ湖のはずだけど……」
背の高い草をかき分けながら進んだ先に、ぽっかりと展けた場所があった。円形の珊櫻湖は黒々しい水に満たされ、天空から落とされる月明りを鈍く反射していた。
人の手が入っていないためか草は生い茂り、湖と陸の境界が分からない。俺は不用意に歩き回ろうとする恭太郎の襟首を掴んだ。
「下手にうろつくな馬鹿。湖に落ちても引き上げてやれねぇぞ」
「わ、悪い、千春……」
「ねぇ、アレ……桜の木?」
璃奈が指を向けた先には、湖の中心に一本だけ立っている大木があった。
大きく腕を広げるように伸びた枝は、灰がかった薄紅色で彩られている。璃奈は桜かと言ったが、そんなわけがない。今はもう初夏で、桜などとっくに散っている時期だ。いわゆる「狂い咲き」というものかと思ったが、そもそも暗くて懐中電灯の光も届かないから確認のしようもなく、桜であることの証明もできなかった。
「そういえば、お祖母ちゃんから聞いたことある。珊櫻湖には一年中花が咲いてる桜があるって……確か『珊瑚櫻』っていったかな。この町の名前の由来になったんだって」
「へー、だからこの町には『桜』とか『珊瑚』とかが名前についたモンがいっぱいあるんだな」
「いくらなんでも安直すぎだろ……サンゴザクラとかサンオウコとか、ややこしいったらねぇぜ」
風にもそよがない、湖面から生えている大木に言い知れぬ不気味さを感じて、俺はふたりを近くの茂みに押しやった。
「とにかく、今日の俺たちの目的は人喰い幽霊だか妖怪だかを写真に撮ることだ。夜中の十一時近くが一番目撃例が多いんだったな?」
「おう、調査だとそのくらいの時間に白い影を見たっつー情報が多かったな」
「じゃあその時間まで身を隠して待つぞ。俺が持ってきた『みゃっきーマシュマロ』でも食ってろ」
「いや、オレはソレいらねぇや……」
「千春くん、ソレ好きだよね……」
ふたりは何とも言えない微妙な苦笑いを浮かべる。何でだよ、美味いだろ。普通のマシュマロと違って、中にカラシソースが入ってるから甘さも辛さも味わえる画期的な菓子なんだぞ。
低木や太い木の裏に腰を降ろし、対象が現れるのを待つ。スマートフォンの時計は十時四十分になろうとしていたが、湖には特に異常はない。
璃奈も恭太郎も次第に緊張も解れてきたのか、俺が持ってきたスナック菓子を食べ進めていく。
「なーんも起きないな。今日はハズレかねぇ?」
「その場合はどうするの?」
「明日、もう一回来るしかねぇな。依頼料の前金として、調理実習のカップケーキもらっちまったし」
「ほー、カップケーキ。俺らはもらってねぇな、ソレ」
「あっ、ヤベッ」
恭太郎が口元を押さえる。オカルト研究会には俺たち三人しかいないことは誰でも知っているはずだから、前金のカップケーキは三つあっただろう。コイツ……ひとりで食いやがったな。
「恭太郎、お前は昔から……――ッ!?」
小言のひとつでも言ってやろうと思って開いた口が、途中で止まった。尋常じゃない寒気が背中を貫いたからだ。
氷柱を背骨に挿し込まれたような感覚を、璃奈も感じたらしい。強張った表情で顔を見合わせ、ただひとり恭太郎だけが理解できない様子で俺たちを交互に見た。
「ナニナニ、どしたん?」
「シッ!」
呑気な言葉を吐く恭太郎の口を手で塞いで、俺は姿勢を低く保ったまま、木陰から顔をわずかに覗かせた。
木々がざわめく。風もないのに、右へ左へ、梢が揺れる。
幸か不幸か――俺たちは明日もここに来なくてもよくなったらしい。
大きく木を揺らして、生臭い臭気を撒き散らしながら、白く長い物体が空から降り立った。淡く発光している体表には鱗があり、一見して巨大な蛇のようだ。しかし、体から生えた四本の人間の腕のようなものが巨躯を支え、持ち上げられた頭には二本の鋭利な角がある。
背後から蒼白な顔の璃奈が俺の服を引いた。
「ち……千春くん、なにあれ……」
「璃奈にも見えてんのか?」
「うん、白い蛇みたいなもの……あれが妖怪?」
霊には好かれるが、見えるほどの霊感はない璃奈にも視認できるほどだ。あの蛇の妖怪は、相当力が強いらしい。
「俺もここまでヤバい奴を見るのは、初めてだ」
「え、千春くんでも?」
「ヤバい? 何が? お前ら、何が見えてんの?」
ひとりだけ見ることのできない恭太郎の問いに答えることはできない。頭をフル回転させて、これから取るべき行動を考えなければ冗談抜きで危険だ。
蛇の妖怪は、身震いするように体を左右に揺らす。腐った魚のような臭いの水が、周囲に飛び散った。
『嗚呼……かつては「妖天下の珊櫻國」と呼ばれておった理想郷が、しばらく見ぬ内に何とも下品な町に成り果てたものよ。どこもかしこも、人間臭うて敵わぬわ』
老婆のような嗄れた声が響く。鼓膜をざらついた舌で舐め上げられているような感覚に、全身が不快感に震えた。
『我らを見ることのできる者も、随分と少なくなった。信仰心も薄れるだけでなく、軽んじられるとはまったく嘆かわしい――そうは思わぬか、人間』
「マズい、よけろ!!」
俺は璃奈を抱えるように地面に伏せた。後頭部を水が弾丸のよう掠める。低木や木の幹が抉れ、断面が泡立って鼻を刺すような刺激臭がした。毒だ。
蛇の妖怪は呵々と笑う。
『ほぉ、よけたか! この蛟の毒水を! そこの人間、何者だ?』
「ただの人間だよ。テメェらみてぇなのが見える、普通の高校生だ」
『嘘をつくなら、もっとまともな嘘をついたらどうだ? 貴様の霊力……これほど潤沢で美味そうなものは見たことがない。遠路はるばる辺鄙な地まで来た甲斐があった……そこらの坊主を食うよりも力を得られそうだ』
頬から顎へ汗が伝ったが、俺はそれを拭うこともできなかった。
コイツは自分のことを『蛟』だと言っていた。昔に親父からもらった本では、邪悪な妖怪として書かれていたはずだ。
体は蛇だが角と足があり、毒も持っている。時代や場所によっては水神として崇められていることもあるが、コイツは明らかに違う。過去に人間を喰ったことがあるのだろう――何度も。
「おいおい、何が起こってんだよ!? いきなり木が溶けたぞ!?」
「恭太郎! 璃奈を連れて逃げろ!」
「で、でも、千春くんは!?」
「俺に構うな、いいから行け! 恭太郎、体張って璃奈を守れよ!」
「お、おう! 死ぬなよ、千春!」
璃奈を恭太郎に押し付け、俺は持ってきていた金属バットを構える。蛟の大きさに対して武器としては心許ないが、ふたりが逃げる時間稼ぎくらいはできるだろうか。
ふたりは一瞬迷ったようだが、踵を返して出口へ向かって走り始めた。
それを蛟は一瞥しただけで、フンと鼻を鳴らす。
『娘を逃がしたつもりだろうが、意味のないことだ。貴様を喰ったら、すぐにあの娘も喰ろうてやろう。あれも随分と美味そうな霊力を持っている……今日は善き日よ、強き霊力を持つ人間をふたりも喰えるとは!』
「そう簡単にいくと思うか? 俺もこんなとこで死にたくねぇから全力で抵抗するし逃げるぞ。余裕かましてる蛇より必死なネズミの方が強いのを知らねぇとか、無駄に年だけ食ったんだな」
『人間風情が、抜かしよる!』
蛟が尾を一文字に薙ぐ。太い木の幹が、まるで割り箸を折るようにバリバリと真っ二つになった。俺は身を屈め、木を盾にしながら走る。一撃が大振りな分、狙いは雑だ。集中していればきっと避けられる。
鉄砲水のような毒水を吐いた瞬間、蛟は頭を下げてわずかに硬直する。その隙を狙い、俺は幹を蹴って高く跳んだ。
「オラァッ!!」
渾身の力でバットを振り下ろす。金属同士が打ち合うような甲高い音が響き、バットの先端は蛟の脳天に当たった。
しかし、蛟の目が不敵に細められた。
『――何ぞ、掻いたかえ?』
「なッ……――うあッ!!」
腹に重い衝撃が走る。手からバットの感覚がなくなり、体が無重力を味わった。蛟の姿が遠のき、視界が濁った水で満たされて、やっと尾で薙ぎ払われて湖に落とされたと悟った。
早く上がらなければと思うのに、激痛で手足が思うように動かない。骨が折れているのだろうか。痛みに耐えながら藻掻いても、体はどんどん沈んでいく。
――チクショウ……親父、悪ぃ。家訓、守れねぇかもしれねぇ……。
水面に揺れるわずかな月明りが遠ざかっていく。足掻いている内に、くるりと体が反転した。
眼前に黒く太い柱のようなものが見えた。――木の幹だ。珊櫻湖の中心にあった、灰色の花をつけた桜の木。それは湖を貫いて、闇の中に沈む湖底へと伸びていた。根は、見えない。
どうやら『底なし根なしの珊櫻湖』というのは本当だったらしい。ついでに言うと、落ちたらあの世行きということも。
恭太郎と璃奈は無事に逃げ切れただろうか。せめて璃奈の実家である杠葉神社まで着くことができたなら、祓い屋でもある彼女の祖母が何とかしてくれるはずだ。
意識が暗闇に侵食されていく寸前、往生際悪く水をかいた左手が何かに触れた。
細くて角の丸い四角形の、筒のようなもの――そちらへ顔を向けた一瞬だけ、水中の濁りが晴れた。
桜の幹に、袴姿の少女が磔にされていた。体中に血のような櫻珊瑚の数珠が巻きつけられ、両腕と両足は幹と同化し、死んだように目を閉じている。その胸には、一本の刀も一緒に縛り付けられている。水死体というより、芸術的な彫像のようだ。
――こいつ……どこかで……?
ほっそりとした白い少女の輪郭に、理由の分からない既視感を覚えていると、手が吸い寄せられるように刀の柄を掴んでいた。
あ、と思った時には遅かった。刀はあっけなく、数珠を断ち切った。
ドクンと水が震える。桜の木が心臓であるかのように、拍動は大きくなっていく。一体何が起こっているのか――その答えを得る前に、湖底から闇が間欠泉のように噴出してきた。
怨嗟や悲嘆が渦のように俺を包む。禍々しさにあてられて、とても息苦しい。逃げなければならないのは分かっているのに、もう指先ひとつ動かせなかった。
だが、まるで誰かに服を掴まれて引き上げられているような感覚がした。水面へ上がる寸前、藻で濁った湖底に、俺は古い瓦屋根の町並みを見た気がした。
唐突に空気と重力が体の内外に満ちて、激しく咳き込んだ。水面に上がった後も、俺の体は俺以外の力によって岸へと進んでいく。間違いない、俺は誰かに助けられている――だが、誰に?
やがて手が草を掴んで、力を振り絞って上半身を陸に上げる。生臭い水を咳とともに吐き出していると、木の枝のようなもので顎を掬い上げられた。
目の前にいたのは、湖の中で桜の幹に縛り付けられていた少女だった。月明かりに照らされた灰がかった桜色の長い髪が、巫女装束の肩にかかり雫が滴る。赤と青の、左右で色の違う瞳が、泣きながら笑うように細められた。
「――やっと迎えに来てくれた。約束を守ってくれると信じておったよ、我が愛しの御前様」
少女はそう言って、俺の頭を大切なものにするように抱き締めた。布越しに頬に当たる柔らかな腿と、視界で揺れるくすんだ桜色の髪に、幼い頃から見ていた夢の光景が脳裏で重なる。
「お……お前は、一体……――そうだ、璃奈、恭太郎!」
俺は今も蛟から逃げているであろうふたりのことを思い出し、勢いよく体を起こした。だが、尾で強かに殴られた腹に痛みが走りすぐに蹲る。丸まった背中を少女は労るように擦ってくれたが、何だか背骨の上を硬いものでゴリゴリと撫でられているようだ。
よく見ると、彼女の両手は木の枝のようになっていた。夢では細くて砂糖菓子のようだったのに、枯木のように茶色く変色して罅割れ、乾いている。
「大丈夫かえ、御前様」
「……よく分からねぇが、助けてくれたことは感謝する。さっさと逃げろ、俺は今から行かなきゃいけねぇトコがあんだ」
「そんな! せっかくまた会えたのに、こんなにすぐサヨナラするのは嫌じゃ、御前様!」
「やめろ、ひっつくな! いいから逃げろつってんだよ! 馬鹿みてぇに凶悪な妖怪が出やがったんだ! ソイツに俺のダチが追われてるから、今すぐ助けに行かなきゃならねぇんだよ!」
「妖怪? ……ふむ、この臭い、蛟じゃな?」
少女は鼻をひくつかせ、あっさりと言い当てたことに驚く俺の顔を見て鋭い八重歯を見せて笑った。
「そんな子蛇一匹、珊櫻國で一番の祓師じゃった御前様ならひと捻りじゃろうに。さては、また稽古を怠けておったな?」
「マジで何なんだ、テメェは! 頭のおかしい話に付き合ってる暇は……!」
「そうじゃ! 再会の記念として、また昔のように共に妖を封じようではないか! 子蛇では少々役者不足じゃが、まぁ怠け者の御前様にはちょうどよかろうて!」
「はぁ!? ――うおッ!」
俺の話を聞きやしない少女は、手を掴んで走り出した。璃奈と同じくらいの小柄な背格好なくせに、大柄な俺でも振り解けないくらいの力だ。
頭の上に生えた三角の耳と、腰で揺れる毛のフサフサな尾からして、コイツも狐のような妖怪であることは確かだ。しかし、普通の妖怪とは何かが違う気がするのは何故だろう。
「あっははは! 懐かしいのう、御前様! 昔もこうして悪霊を追いかけたものじゃ!」
「さっきから昔、昔って……テメェ、マジ説明しろ!」
「それより御前様、その刀を手放してはならぬぞ!」
「刀って……これか?」
妖怪少女に言われて初めて、俺の右手が刀を握っていることに気づいた。ずっしりとした重さから、模造刀などではないことが分かる。どれだけあの湖に浸かっていたのかは分からないが、鋼色の刀身には錆などなく、かすかな月明りをギラリと跳ね返していた。
よく水中で落とさなかったモンだ、俺。というか、手に馴染みすぎて怖いくらいだ。
灯りも乏しく、十センチ先も分からない夜の森を走り続け、次第に俺の鼻でも分かるくらいの生臭さが漂ってきた。
闇の中に蛟の白い巨体が浮き上がる。その牙が向けられた先には、追い詰められた様子の恭太郎と璃奈の姿があった。
折れた木や抉れた地面の中心で、蛟が苛立たしげに唸る。
『何故じゃ、何故我が毒液で溶けぬ、娘! その守り袋のせいか、忌々しい!』
「り、りり、璃奈を喰いたかったら、先にオレを喰ってからにしろってんだ! どこに何がいるか分からねぇけど! つーか璃奈サン!? カメラより先に逃げた方がいいんじゃありませんか!?」
「恭太郎くん、そのまま動かないで! お祖母ちゃんのお守りあるから、少しなら平気よ!」
「少しって何が!?」
恭太郎のヤツ、震えてはいるが璃奈と蛟の間に立ち塞がっている。それがアイツの役割としては『正しい』から、璃奈も恭太郎の背中に隠れてお守りを握り締めながらシャッターを切っていた。意外とたくましいな。
恭太郎は霊感がない。まったくと言っていいほどに。それは逆に『霊や妖怪からも認知されない』ということでもある。加えて、霊障の類も一切受け付けないから、蛟の毒も尾の攻撃も消し飛ばすし、弾く。本人は気づいていないが、アイツ自身が一種の『無敵の盾』なんだ。だから今も、蛟の目には璃奈しか映っていないはずだ。
高名な祓い屋である璃奈の祖母さんが作ったお守りもあって、なかなか手が出せない蛟が、やがてしびれを切らしたように尾を地面に叩きつける。
『もうよい! 破魔の守り袋ごと喰ろうてやればよいだけのこと!』
「え、ウソ、恭太郎くん、ちょっとヤバいかも……!」
「ヤバいって何が!?」
蛟が大きく口を開け、鋭利な牙がふたりに襲いかかる。どれだけ攻撃を無効化できても、丸呑みにされればひとたまりもない。
俺は妖怪少女に掴まれていた腕を振り払い、大股でふたりと蛇の間に体を滑り込ませた。間一髪、蛟の鼻先と顎を刀で受け止めることができた。
「ち、千春ぅ! 生きてるって信じてたぜ!」
「よかったぁ!」
「いいからさっさと隠れろ!」
『生きておったか、子鼠め。貴様は邪魔じゃ、少々肉は減るかもしれぬが、致し方なし!』
蛟の喉奥からゴロゴロと水音がする。マズい、至近距離で毒液を浴びれば、璃奈も無事では済まないかもしれない。しかし、今から逃げようにも遅すぎる。
蛟から毒液が発射される寸前、その横っ面に蹴りが入った。長い巨体が悲鳴と共に転がり、俺の前に妖怪少女が仁王立ちして立ち塞がった。
「子蛇如きに、我が伴侶に手出しはさせぬぞ!」
『グウゥ……貴様、傷をつけたな、我が鱗に!! 許さぬ! 許さぬぞぉ!!』
少女が蹴った部分の鱗が剥げて、赤い血が滴る。余裕そうだった蛟の目が怒りにギラつき、尾を振り回して周囲の小枝を巻き上げた。
少女は憎悪のこもった罵詈雑言にも、フンと鼻をひとつ鳴らしただけだった。
「悪態だけは一人前じゃのう、子蛇。珊櫻國では『人妖害すべからず』が法律であることも知らんとは、さては相当な田舎者じゃな?」
『貴様、小娘! 我を愚弄した罪、死を以て償うがよい!!』
すっかり頭に血が上った蛟は、標的を妖怪少女に変えたようだ。尾が近くに転がっていた丸太を掴み、めったやたらに振り回す。
少女の周囲に妖力が膨れ上がり、背中から焦げ茶の枝が生えた。妖力が翼膜として形作られて翼となり、脚が猛禽類のような形に変わる。少女は桜色の翼を羽ばたかせて木々の間を飛び回りながら攻撃をかわしていく。これも狐妖怪が得意としている変化の能力なのだろうか。
俺はこの隙に恭太郎と璃奈の腕を掴んで、蛟から遠ざける。木の陰に身を押し込めると、ふたりは困惑した表情で俺に詰め寄った。
「なぁ、何が起こってんだよ! いきなり木が倒れたり溶けたり……例の妖怪人喰い幽霊の仕業なのか!? あの女の子も誰なんだよ!」
「俺も分からねぇよ……――って、ん? 恭太郎、あの狐女が見えるのか?」
俺は蛟の尾や牙を軽々と避ける妖怪少女を指さすと、恭太郎は大きく頷いた。それには璃奈も驚いた顔をする。なぜ霊感のない恭太郎に妖怪の少女が見えるのか、理由は分からないし考えても答えは出ない。
俺は珊櫻湖に沈んだ時のことを早口で説明した。湖の中心に生えていた桜の木に、あの妖怪少女が刀で貫かれていたことも。
説明を聞いた璃奈がしばらく考え込んだ後、思い出したように顔を上げた。
「そうだ、お祖母ちゃんから聞いたことがある。珊櫻湖には、ずっと昔に封印された妖怪がいるって。とても悪いことをして封印されたらしいけど……」
「それがアイツだっていうのか?」
「全然そんな風には見えねぇけどなぁ……よく見るとカワイイし」
「妖怪にカワイイもブスもあるか馬鹿。とにかくお前らは逃げろ!」
ふたりをこの場から逃がすのが先だと考えていると、ギャウと悲鳴が聞こえた。見ると、傷だらけになった蛟の脚が少女を捕らえて地面に押し付けていた。
『捕まえたぞ、小娘! 羽虫の如く飛び回りおって!』
「ぐッ……!」
『昔に聞いたことがあるぞ。人間共に味方し、我ら妖怪を封ずる女妖狐がいると。その者は退紅色の毛に、蒼紅の瞳を持つ、半人半妖の出来損ないだとな。名は確か――彌桜といったか』
妖怪少女――彌桜は一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、口元は弧を描いて尖った八重歯を見せた。
「田舎者の小蛇にまで名が知られておるとは、彌桜も有名人になったものじゃ――ぐあッ!」
『黙れ半妖風情が! このまま捻り潰してくれる!』
「おいおいおい、マズいんじゃねぇの……!?」
「あっ、千春くん!?」
璃奈の制止の言葉も聞かず、俺は木陰から飛び出した。
脳裏にありもしない記憶が繰り返し映し出される――彌桜が、誰かに虐げられている記憶。地面に押し付けられ、口汚く罵られても、アイツは今のように不敵に笑っていた。
俺は右腕に持った刀を、彌桜を押さえつけている蛟の脚をめがけて振り下ろす。硬い鱗と鋼が打ち合う甲高い音が響いた。さすがにこれくらいでは傷をつけることはできなかったが、大振りな木葉型の鱗が数枚剥げ、蒼碧色の地肌が見えた。
そこに刀を突き立てる。蛟がしゃがれた悲鳴を上げて、彌桜を解放した。
「御前様! きっと助けてくれると彌桜は信じておったぞ!」
「目ェうるませてる暇があったら、とっとと逃げろ!」
刀を引き抜くついでに足で押しのけると、蛟の巨体が簡単に転がった。確かに力の限り蹴ったが、人間の力なんてたかが知れている。それに驚いたのは俺だけでなく蛟もだった。
『何故だ……体が重い! 小僧、我に何をした!?』
「『吸魔の力』じゃ」
答えたのは彌桜だ。尾についた土を払い、得意げに俺の持つ刀に指をさす。見ると、鋼色だった刀が薄紅に色づき、薄っすらと発光していた。
「この刀は『鬼杭』と呼ばれておってな、退魔の力を持つ櫻珊瑚が使われておる。妖や悪霊の力を吸い取り、浄化するのじゃ。腕は鈍っておらんようじゃな、御前様」
「いい加減、その変な呼び方やめろ! 俺は染井千春だ! オマエサマなんて呼ばれると背中が痒くなるだろうが!」
「え……お主は、春千佳様では、ないのか……?」
コイツ、やっぱり誰かと間違えてやがったか。
キョトンとする彌桜を嘲笑ったのは、蛟だった。
『愚かな小娘よ。貴様が封じられた時分より、もう三百年は経っている。珊櫻國は既に歴史の藻屑と消えておる。貴様の旧知なぞ、とっくに死に絶えておるわ』
「三百年……そうか、もうそんなに経ったか……。どうりで喪ったはずの手足が樹梢となっているわけじゃ。永き時の中で、彌桜は珊瑚櫻と同化してしまったんじゃな」
彌桜は己の木質化した両手を悲し気に見つめる。俺にはコイツの事情など知らないし、きっと想像も及ばない。
しかし、それを覆すほどの強い光もまた、炯々と宿っている。
「――じゃが、それがどうした? 時代の変遷も、國の興亡も、愛する者との別離も、封印された時に全て覚悟の上じゃ。どれだけ時が経とうとも、必ず我が伴侶が彌桜の封印を解いてくれる……そう信じておった」
『フン、半妖風情が健気なものだ。この小僧がその伴侶だというのか?』
「その通りに決まっておろう!」
「待て待て待て、黙って聞いてりゃ、何で俺が伴侶なんだよ!? 伴侶って、結婚相手のことだろ!?」
「だから、彌桜の封印を解いたからじゃ」
「答えになってねぇよ!」
もはや理解が追いつかず、頭痛までしてきた。頭を押さえて空を仰ぐ俺を無視して、彌桜は刀の鍔をコツコツとつついた。
「今は分からずともよい。御前様は鬼杭に使い手として選ばれている、そのことだけを頭に入れておいてくだされ」
「……よく分からねぇが、これで妖怪をブチのめしゃあいいってことか?」
「その通り。傷をつければつけるほど、刀が相手の力を吸って弱体化させる。妖怪は妖力の量が存在を左右するからの。後は、彌桜が『これ』に封印する」
彌桜はニヤリと笑って、体に巻きつけていた真っ赤な櫻珊瑚の数珠を手に握った。心なしか、さっき璃奈からもらったお守りについていたものよりも赤色が濃く見える。
未だに全てを呑み込みきれていないが、今はこの蛟を何とかする方が先だ。俺は刀を握りしめ、地面を蹴った。
刀なんぞ持ったことはないが、剣道の授業や時代劇で俳優がやっていた動きを思い出しながら振るう。鱗がある部分は傷がつけられないことはさっきの攻撃で分かっているから、彌桜との交戦で剥がれて地肌が露出している部分を狙った。
だが、蛟も馬鹿ではない。身をよじり、尾を振り上げ、俺を近づけまいと牙を剥いて威嚇する。疲労や怒りでか、叩きつけた尾は地面に大きなクレーターを作り、土埃を大きく巻き上げた。
それは蛟よりも身長が低い俺らの姿を隠すにはちょうどいい。暗闇と土埃に紛れて、俺は脚や胴など地面に近い部分から斬りつけていった。
その度に、刀が紅色に染まっていく。刃についた蛟の血は滴り落ちることもなく、まるで刀自身が吸い取っているようだ。刀に『吸魔の力』があると言っていた彌桜の言葉に、嘘はなさそうだ。切り傷は浅くとも徐々に蛟の動きは鈍くなり、背筋が凍るような妖力も小さくなっていく。
やがて蛟の妖力が霧のように消え失せ、体が大きく揺らぎ、頭が地面に倒れ込んだ。――チャンスだと俺の勘が告げる。刀に導かれるように、俺は蛟の頭にある一対の角の中心を貫いた。
甲高い断末魔と共に、蛟がのたうつ。俺は振り落とされないように、刀を握ってしがみつくのに精いっぱいだ。
耳元でジャラと音が鳴って、蛟の体に櫻珊瑚の数珠が巻き付いた。
「捕らえたぞ、子蛇!」
『我が……この蛟が、子鼠と半妖風情に敗北れるなどォ……!!』
刀に力を吸われ続けた蛟は、細い数珠も引き千切れないようだ。
彌桜の全身に妖力が集まり、長い髪が逆立つ。人差し指と中指を揃え、ピストル状にした手を蛟に向かって振り下ろした。
「いざや開けよ、幽世の門! いざや閉じよ、現世の関! 誅罰の血染め珊瑚よ、邪悪なるモノを永久に奈落に封じよ!!」
彌桜の祓詞と共に、数珠が紅く光り輝く。蛟は金属を擦るような断末魔を上げながら黒い粒子となり、小さなピンポン玉くらいのサイズに収縮して、数珠のひと球に吸い込まれていった。
巻き付いていた対象を失った数珠がジャランと地面に落ち、俺もまた尻餅をつく。彌桜は数珠を拾い上げ、自分の身体に巻き付けた。
「怪我はないかえ、御前様?」
「……何とかな」
「おーい、千春ー! 大丈夫かー!?」
蛟がいなくなったことで、恭太郎と璃奈が木陰から走ってきた。無事であることを片手を上げて示す俺の背中に、トスンと重さが寄りかかってきた。見れば、彌桜が背後に隠れていた。
「何してんだ、お前」
「い、いや、別に、何でも……」
さっきまでの威勢はどこへやら、耳も尾もペシャンと垂れ下がってしまっている。人見知りなのかと思っていると、恭太郎が興奮気味に口を開いた。
「なぁお前、超スゴかったぜ! オレ見えねぇから何してたか分かんねぇけど、ビカーって光ったと思ったらドカンドカーンって地響きがして、急にザザザザーってなってさぁ!」
「落ち着け馬鹿。何言ってるか全然分からん」
「もー、少し静かにして。この子、怖がってるでしょ。――大丈夫だよ。ごめんね、おっきい声出しちゃって。あなたのお名前は?」
璃奈が少し腰を屈めて、彌桜と目線を合わせて優しい声音で話しかける。すると、彌桜はおずおずと俺の背中から顔を出した。
「……彌桜じゃ」
「彌桜ちゃんね! 私は杠葉院璃奈よ、助けてくれてありがとう!」
「ゆずりはいん……もしやお前さん、杠葉神社の巫か? そうかそうか、杠葉の家系はまだ続いておったのじゃな! 彌桜もそこで修行を積んだ巫なのじゃ!」
「えっ、そうなの? 一緒ね!」
彌桜は嬉しそうに目を輝かせ、璃奈に抱きついた。璃奈の方も嫌ではないのか振り解こうとせず、興味深そうに彌桜の三角の耳や長い尾を触っている。
「すごいね、ふわふわだ! 彌桜ちゃんって、本当に妖怪なの?」
「左様じゃ!」
「マジで!? ……でもよ、だったら何でオレも彌桜ちゃんが見えるんだ?」
「それは本当に知らねぇ。つか恭太郎、耳とか尻尾とかも見えてんのか?」
バッチリ、と恭太郎は親指を立てる。
人間に個人差というものがあるように、妖怪や幽霊にも個体差があるから、そのせいだろうか。
「恐らく、それは彌桜が半妖だからじゃな。お父は妖狐で、お母は人間だったんじゃ」
「へぇー、ハーフってヤツ? だとしてもスゲェ! オレ、初めて妖怪見れた! あ、オレは卜部恭太郎ってんだ。こっちの不愛想なヤツは染井千春!」
「ちはる……千春か。御前様は女子のような名じゃの」
「ほっとけ! つーかお前、さっきはバタバタしてたからスルーしたが、色々と説明しろ!」
何で珊櫻湖に封印されていたのか、この刀は何か、何で俺を伴侶と呼ぶのか……矢継ぎ早に質問を並べる俺に、彌桜は申し訳なさそうに耳をたたんだ。
すかさず、璃奈が庇うように彌桜の前に立った。
「ダメだよ千春くん! そうやっていきなり詰め寄ったら、話せるのも話せないでしょ!」
「うぅ……話したいのは山々じゃが、少々長くなるのじゃ。封印されていたのも永きに渡ったから、どうも曖昧なところが多々あってな……」
そういえば、蛟は三百年経っていると言っていた。今から遡ると、江戸時代頃か。それを考えれば、無理もない話に思えた。
「それでもひとつだけ、確かなことがある。彌桜は御前様と、一緒に生きるためにここにいるのじゃ!」
明るい語気で言い切った彌桜はピョンと跳ねて、俺の首に腕を回して抱きついてきた。
「……ハァ!?」
「キャッ、これってまさかプロポーズかしら、恭太郎くん!」
「キャッ、きっとそうヨ、璃奈ちゃん!」
「テ、テメェら! 気色悪ィ声出すんじゃねェ! お前も何言ってやがる、離れ……!」
ひっつく彌桜の襟首を掴んで引き剥がそうとした時、見上げる瞳と目が合った。
肌はほのかな月明かりに染まって透き通るように白く、桜貝みたいに小さい唇からは小さな牙が覗いている。色の違う緋色と蒼色の瞳は、宝石でも嵌め込んでいるかのようだ。
一瞬、目の前の景色が揺れた気がした。
既視感が胸を刺す。覚えているはずの記憶が頭の奥にあるのに、手を伸ばした瞬間、すり抜けて掴めない……そんな感覚だ。
だが、胸元に押し当てられた柔らかな感触の正体に気づいた俺は、全身の血が沸騰する勢いのまま彌桜を剥がす。考えていたことも既視感も、どこかへスッ飛んでいった。
半ば放り投げるように璃奈へ押し付けられた彌桜は、すぐキャンキャンと非難めいた声で鳴いた。
「何故じゃ、御前様! 昔はよく彌桜の頭を撫でてくださったじゃろう!?」
「だからソレ別人のハナシだろうが!」
「姿形は違うても、魂は同じじゃ! 御前様は彌桜の伴侶なんじゃ!」
「訳わかんねェこと言うなっつの! とにかく、用事は済んだんだから帰るぞ! 写真も撮れたんだろ?」
「う、うん、多分! 実際に現像してみないと分かんないけど……」
「帰ンのはいいけどサ、彌桜ちゃんどうすんの? 千春、連れて帰る?」
恭太郎の言葉に、俺と璃奈は同時に「あっ」と声を上げる。
半分は妖怪だから人間より体は頑丈とはいえ、まさかこんな街灯もない森の中に置き去りにするわけにはいかない。
一番最初に恭太郎が首を横に振った。
「オレんトコは無理だぜ。家狭いし、親に何て言えばいいか分かんねぇし」
「ンなの俺も同じだよ。男ふたり暮らしの家に女を連れて行けるか」
「じゃあ、今日はうちに泊まってもらうよ。事情が事情だから、お祖母ちゃんにも会わせたいしね」
璃奈の提案はいいかもしれない。杠葉神社にはこの町の歴史資料館もあるし、彼女の祖母さんは祓い屋もしているから妖怪の知識も豊富だ。封印されていた彌桜のことや珊櫻湖のことも、もしかしたら知っているかもしれない。
それに不満そうな反応をしたのは、彌桜だった。
「えぇ、御前様と共に暮らせぬのか!?」
「当たり前だろ。会って数時間も経ってない男女が一緒に暮らすのは駄目だろ、倫理的に」
「まぁまぁ、彌桜ちゃん。うちで我慢してくれないかな? ちょっと古いけど部屋だけはいっぱいあるし、温泉もあるよ。せせこましいふたりの家よりはいいと思うな」
「璃奈ちゃん、さらっとヒドイこと言ったね」
「お前俺らの家のことそう思ってたんか」
「お、温泉!? し、仕方ないのぉ、今日のところは杠葉神社に世話になるとするか! 申し訳ないが御前様……今宵は彌桜を偲んで独り寝で朝を迎えてくれぬか……」
「気色悪いこと言うんじゃねぇ!」
しおらしくしてやがるが、尾は元気に左右に揺れている。ヒトのこと散々伴侶だ何だ言っておきながら、俺より温泉じゃねぇかコイツ。
スマートフォンの時計を見れば、もう午前三時を回っている。早く森を抜けて帰らねば、新聞配達が始まったり早起きの年寄がウォーキングしたりする時間になってしまう。
再び森を出口に向かって歩き出す騒がしい四つの背中を、はるか上空で夜に溶けた黒い靄が見下ろしていたことに、俺たちは誰も気づかなかった。
◆◇◆
「なんっだよこれぇぇぇ!? 全っ然写ってねぇじゃん!!」
翌日、学校の屋上に恭太郎の絶叫が響いた。
それに璃奈が申し訳なさそうに肩を落とし、ごめん、と呟いた。原因は、俺たちの前に広げられた昨日の写真。どれもが森と俺や恭太郎の背中ばかりが写った、黒いものばかりだ。
「帰ってすぐ現像したら、ちょっとブレててもちゃんと写ってたのよ。でも朝起きて見たら、こんな感じで……」
「妖怪って、写真から勝手に逃げるモンだったか?」
「幽霊と違って妖怪は写真と相性が悪いことはお祖母ちゃんから聞いてたけど、彌桜ちゃんが『数珠に封印したからだ』って」
彌桜は杠葉院家で用意された朝食を食べながら、さも当然といった風に説明したらしい。
蛟はアイツの体に巻き付けている櫻珊瑚に封印したが、それはこの世との関りを断ち切るいうことでもあるらしい。だから『蛟は珊櫻湖に現れなかった』ということになり、写真から消えたのだという。一体どういう原理だ。
俺は霊や妖怪を見ることもできるし、多少なら話すこともできるが、存在について知っていることは少ない。璃奈の口づてに彌桜の言葉を聞いても、さっぱり分からなかった。
いっそ昨日のことが全て『なかったこと』になってくれてたらよかったのだが、俺の横っ腹には青痣がくっきりと残されていた。刀も折れた金属バットの代わりにケースに入れて、玄関に置いてある。昨日の詳細は親父にまだ言えてないから、刀がバレないかどうかが心配だ。
それよりも、蛟の姿が写真に収まらなかったことで困るのは恭太郎の方だ。頭を抱え、大きく仰け反る。ブリッジでもしそうなほどだ。
「新聞部の子たちに何て説明すりゃいいんだよぉ! 依頼された時に『ステキな写真を待ってます』って言われてたのにぃ!」
「カップケーキもらった上、女の子たちにイイ顔しちゃったのね。だから張り切ってたんだ」
「いっそ偽造するか? パソコンに取り込めばチャチャッとできるだろ」
「できるわけねぇだろ! オカ研のプライドとして!」
「正直に言うしかないよ。私も千春くんも一緒に謝るからさ」
「……え、俺も?」
俺は恭太郎と璃奈に左右の腕を抱えられ、引きずられるように屋上から新聞部の部室がある二階の東棟に向かうことになった。
部室をノックして出てきた小柄な女子部員にあらましを――さすがに彌桜のことは伏せて――伝えると、彼女は怪訝そうな顔で俺たちを見た。
「『珊櫻湖に現れる妖怪、人喰い幽霊についての調査』……? そんなの頼んだっけ?」
「……え?」
「ウチらがオカルト研究会に頼んだのは『街に出没する妖怪、ビキニおじさんの正体』なんだけど?」
それはオカルト研究会じゃなくて警察の仕事じゃねぇのか。そう言いかけたが、女子部員は「早めによろしくねー」と言って扉を閉めてしまった。
しばらく廊下で呆然と立ちすくんでいたが、部室を訪れた別の新聞部員に「邪魔」と蹴散らされて俺たちは再び屋上へ戻ってきた。
「どういうことだよ恭太郎。テメェ、依頼間違って覚えたのか?」
「そんなワケねーだろ! メモだってさっきの子から渡されたもので……あれ!?」
慌てて制服のポケットからメモを取り出した恭太郎が、目玉が飛び出そうなほど驚く。震える手で俺らに見せてきたメモには、丸文字で『深夜に街に現れる妖怪、ビキニおじさんの正体を探ってきて』と書かれていた。
昨日と文面が違う。メモは俺も見たから、間違いということでもない。
「何で内容が変わっちゃったんだろ……これも彌桜ちゃんが蛟を封印したからかな?」
「可能性は……それしかねぇか。璃奈、帰ったらアイツに聞いといてくれ」
「うん、分かった。――ところで、さ……」
頷いた璃奈は声を潜めて、隣で静かになっている恭太郎を見やった。昨日の労力が水の泡になり、ショックから灰にでもなっているようだ。
「この『ビキニおじさん』……調査しなきゃダメかな?」
「……恭太郎に任せようぜ。きっとコイツなら、スマホのカメラでもバッチリ写るだろうしな」
◆◇◆
夕日が山に完全に隠れた頃、俺は重い足取りでマンションの階段を登る。
昨日は徹夜同然で戦って、湖にまで落とされたのに蛟の写真は撮れず、封印されたら依頼自体がなかったことになって、もう心身共に疲れた。鬱陶しい不良どもが来なかったのは幸運だ。
今日は親父の夜の仕事は休みだから、今頃晩飯を作って俺を待っているだろう。飯を食ったら風呂入って早々に寝るか……そう考えながら鍵を回し、ドアノブに手をかけた時だった。
「お帰りなさいませ、御前様ぁ!」
ドアを開けるのと同時に、首元に抱きつかれた。その勢いのまま尻餅をつくと、見覚えのあるくすんだ桜色の髪が見えた。
「テ、テメェ、彌桜!? 何でここに!?」
「御前様、彌桜がいなくて寂しかったじゃろう? もうずーっと一緒じゃ、御前様!」
彌桜は俺に頬ずりする間も、耳やら尻尾やらは出しっぱなしだ。近くから階段を登ってくる足音がして、俺は慌てて彌桜を抱えて家の中に入った。
乱暴に扉を閉めた音が聞こえたのか、親父がリビングからひょっこりと顔を出す。
「あら、お帰りなさい千春チャン」
「親父、説明しろ!!」
「あらあら熱烈ねぇ〜! やっぱり女の子がひとりいると、おウチが華やかになっていいわぁ~」
「セ・ツ・メ・イ!!」
「も~、分かったわよぉ。せっかちなオトコは嫌われちゃうゾ」
これ以上ふざけると俺が本気で怒ると分かったのか、親父はダイニングテーブルに座るよう促した。俺は椅子に座ったが、彌桜はすぐ近くに正座する。親父が固いフローリングの上では足が痛くなるだろうと椅子に座すよう言ったが、正座の方が楽だと言われてしまった。
俺にはカフェオレ、彌桜には梅昆布茶を淹れた親父は、自分のコーヒーをひと口啜り男の顔に戻ってから「さて」と口を開いた。
「説明って言われても、杠葉院のお婆様から頼まれて、彌桜ちゃんは今日からこの家で暮らすってことに決まっただけさ。部屋は二階の物置を片付ければいいし、お金のことなら貯金も十分あるしね。千春は何が不安なんだい?」
「不安って……親父も分かってんだろ、コイツは妖怪で……!」
「こーら、物事は正しく! 妖怪じゃなくて半妖だろう? それに、彼女は人間に悪さをするような子じゃない。優しい妖怪がいることは、千春だって分かっているだろう?」
「それは……そうだけどよ……」
俺は言葉を続けられず、逃げるように彌桜に視線を向けると、ばっちり目が合ってしまった。それだけでコイツは嬉しそうに笑う。
俺が彌桜との生活を拒否するのは、単純に年頃の男女がひとつ屋根の下で暮らすことへの抵抗感だけではない。何となく俺は傍にいない方が良いのではないかという確証のない直感だ。
俺が上手く言語化できずにまごついていると、親父が手を叩いて「ハイ決まり!」と笑った。
「千春には悪いんだけど、これはもう決定事項なんだ。諦めて三人の新生活を楽しもうじゃないか! それに、彌桜ちゃんはお料理もお掃除も上手なのよぉ!」
「無論じゃ! 嫁ぐ時に無様をさらさぬよう、お母から叩き込まれたからの!」
「あらぁ、ならいつでも千春チャンのお嫁さんになれるわね!」
「はぁ!?」
「おパパ上、もう彌桜は伴侶じゃぞ。手繋ぎも抱擁も済ませたし、残すは接吻と同衾のみ……」
「ヤダ千春チャンったら、いつの間に!? 意外とケモノだったのね!」
「伴侶になるって言ってねェし、あれはお前が勝手に手を掴んだり抱きついてきただけで……あーもーツッコミが追い付かねェから、適当言うんじゃねぇぇええ!!」
俺の叫びに、分厚い窓ガラスがビリビリと振動する。母さん……俺は何か悪いことをしたんだろうか。いや、喧嘩はいっぱいしてるけど。
結局、彌桜との同居は覆らず、俺は夕食ができるまで二階の物置を片付けることになった。
本格的な整理は週末に行うから、布団を敷けるスペースさえ確保できればいい。俺も親父も物を溜めこむタチじゃないから、衣装ケースやダンボールを積み直して床を掃除すれば、少しの空間くらいなら確保できる。
掃除で出たゴミをまとめて階段を降りると、玄関に彌桜が立っていた。
下足箱の上に乗せた母さんの写真を手に持ち、写真が珍しいのか上下ひっくり返したり小枝の指でつついたりしている。
俺に気づいた彌桜は、小さく尾を揺らした。
「何してんだ、お前」
「御前様、この御仁はどなたじゃろうか? 美しい女子じゃの」
「俺の母さんだよ」
「ほぉ、御母堂様か! ということは、この赤子が御前様じゃな? 確かにどことなく面影があるのう。ご挨拶したいのじゃが、どちらにおられるか?」
「もういねぇよ。俺を生んですぐ、死んじまったから」
彌桜はパッと俺を振り向く。すまぬ、と謝る声は小さく、耳も尾も下を向いた。
「何で謝んだ? お前は知らねぇことだ、仕方ねぇだろ」
「けど……悲しい。彌桜もお父を知らぬ。お母の話では、とても強くて格好いい妖狐じゃったが、彌桜が生まれる前に死んでしまったと聞いた。その話をする度に……彌桜はとても悲しくなる。自分自身でお父の存在を消してしまっているようで……」
しょげた様子でぽつぽつと話す彌桜に、今度は俺がかける言葉を失って頭を掻いた。コイツの言っている感覚は分かる。
俺にとって、母親がいない生活は当たり前だった。だが、周囲はそうじゃない。幼稚園とか小学校の頃は何で母親がいないのかと悪気なく聞かれたし、説明すれば気の毒そうに離れていったり悪口のネタにされたりした。悪口には俺も拳を振り上げて報復したが。
母さんは死んでしまったと言う度に、胸に隙間風のような冷たいものが通り抜ける感じは味わっていた。それは恐らく、彌桜と同じ『悲しさ』だ。どれだけ時間が経っても、どれだけ人間関係に恵まれても、この隙間は一生埋まることはないのだろう。
俺は手を伸ばして、彌桜の持つ写真立てを指先でつついた。
「挨拶なら、今すればいいだろ」
「う、うむ、それもそうじゃな! では……お初にお目にかかりまする、御母堂様! 珊瑚櫻の巫女狐、彌桜と申しまする!」
彌桜はその場に正座し、向かい合うように置いた写真に向かって三つ指をついて頭を下げた。額がフローリングとかち合う鈍い音が響く。
畳二枚分くらいの広さしかない玄関でやることじゃねぇと慌てる俺や、声を聞いて何事かと顔を覗かせた親父を尻目に彌桜は続ける。
「御子息様のことは安心なされよ! 彌桜が陰日向なく尽くしまする! 掃除も料理も洗濯も、伴侶として不自由はさせませぬ故!」
「ハイ言うと思った! そもそも俺は、伴侶になるって了承してねぇんだよ! そういうのは好き合った奴らが行きつく最終形態だろうが! じゃあ何か、お前は出会って一日も経ってねぇ俺を好きなのか!?」
「好きじゃ! 御前様は彌桜の封印を解いてくれた。昨日も彌桜が蛟に捕まった時も助けてくれた。かつての伴侶と姿は違えども、魂は同じと分かったから好きになったんじゃ!」
「ん……なッ……!」
ストレートな剛速球が頭に直撃した心地だ。自分から聞いておいてたじろいだ隙に、彌桜は俺に抱きついてきた。親父は助けるどころか目を輝かせて「お赤飯炊かなきゃ」なんて言ってる。
せめて母さん、今だけは写真の中で微笑んでるだけじゃなくて、天国から降りてきて助けてくれ。息子の青春の危機なんだから。
「これから現世の涯、幽世の淵まで、ずーっと一緒じゃよ、御前様!」
「勘弁してくれ……」
徹夜明けの眠気と、無駄働きの疲労で鈍くなった頭では、もう理解する余裕ももツッコミする気も起きない。
とにかく飯食って風呂入って寝たい――屈託のない彌桜の笑顔と、母さんの写真を胸に抱いて涙ぐむ親父の横で、俺は諦めるしかないと悟るのだった。