表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

少女人形

作者: 日乃

少女人形とは何でしょう。この小説の舞台は日本と似て異なる世界。でも、分岐した未来の一つの可能性かもしれない。若い女は、疲弊して、使われて、すり減って、少女人形と出逢うのです。貴方に幸あれ。

十九時半、工場での勤務を終えた頃にはいつも通り終業時刻はとうに過ぎていた。人の多い更衣室の中、皆葬式帰りのような面持ちで粛々と着替えていく。女が集まれば甲高い声がやかましいくらいに響きそうなものだが、工場婦達は皆静かだ。挨拶もなく俯いて更衣室を出たが咎める者は当然いない。逆に挨拶などしたら浮くだろう。そんな元気があるのは工場に来たばかりのまだ何も知らない若い娘だけだ。私には当然ない。眠気と頭痛、胃痛と戦いながら重い体を引きずり死んだ顔のまま帰るだけだ。


帰路に着く途中、息の詰まるような日常にふと反抗をしてみたくなった。そうと決まれば、田舎特有の電灯の少ないいつもの大通りから更にうす暗い小道へ歩を進める。砂利道を硬く黒い靴で踏みつけながら、何かに化かされるような気持ちで進んでいく。こんなのただの寄り道だ。何が待っている訳でもない。でも、こんな形でしか私が意思を持つ人間であるという事を証明できない。


そうして早足に歩を進めて行けば、森の入口まで来ていた。大きな木を下から見上げれば、あまりの生命力に目眩がした。現実とはかけ離れた存在のように思えた。これが全て枯れ木なら、燃えた木なら、現実味があっただろうか。分からない。

ふと、甲高い音が響いた。体に緊張が走る。誰か人に見つかっただろうかと、女一人で薄暗い森の前にいるというこの危機的状況に今更ながら気づいたのだ。しかし、その音は甲高く、音が弾けるかのように、遠くまで響き渡っていた。

「カンパネラだ……」

女はそう呟くと、ぼんやりと、音に化かされたかのような心地で歩き始めた。音を頼りに、森近くの小道を更にもう一本向こうに歩けばそこには古い廃屋が広がっている。その中でもとびきり大きな、きっと屋敷と呼ぶにふさわしかっただろう家から、音は確かに響いていた。

こんな所あっただろうか。ふと不安になった。もしかしたら、家を失ったもの達や、ならず者達の巣窟になっているかもしれない。危険だ。でも、女は見てしまった。寂れた屋敷の中白く美しい肢体が揺れる様を。目を奪われた。真っ白い肌の少女が踊っている。ふわりとドレスを翻し、手を広げて。少女に近づく。壊れた壁から中に入る。家は骨組みだけで屋根などもう無いに等しい。簡単に侵入できた。

音楽と共にくるくると回る少女の肌は陶器でできており、赤みの差した頬も色付けられているにすぎなかった。透き通るような瞳も、長い睫毛も、愛らしいドレスも、絵付けされているだけなのに、それはひどく美しく魅惑的だった。

少女の頭上には顔のついた月がニヒルな笑みを浮かべ飾られている。音楽が止み、少女の動きがピタリと止まると、月はくるりと反転しお堅い顔の太陽へと姿を変えた。すると少女人形は台座の中へ静かに消えていく。

それは不思議な心地だった。荒廃した不安定な世界の中、高らかに響く音楽と、踊り輝く小さな陶器人形。そこだけが異質で、特別で、尊く思えた。

優しい何かに肯定されたような心地にさえなった。ささくれだった心がほろほろと解けていく気がした。


「また、来ます」


誰に宣言するともなしに呟いて、女はそっと去っていった。後に残るは、月光の下で白く輝く少女人形と、硬い太陽のレリーフだけだった。


女の朝は早い。太陽が昇るより早く、四時半には起きて支度をする。そうして五時には家を出て、五時半には徒歩で工場に着く。制服に着替え、決められた自分の席につき準備をすると、六時きっかりにレーンが動き出す。部品を手に取り決められた工程を繰り返す。女から別の女へ部品は渡り歩き、やがて物騒な武器に変わる。綺麗に箱詰めするのは別の女だ。女は、工場婦の一人に過ぎなかった。私語もなく、毎日朝六時から、夜の十九時過ぎまで作業を繰り返す。休憩は一時間半きっちり。

私の方がよほど人形じみていると、女は作業の合間にひとりごつ。代わり映えのない日々。慣れきり、疲れきり、段々に思考を放棄していく自身が怖かった。目に濁りを浮かべても、周りは変わらない。皆濁っているし私語もないから誰も労りの言葉などかけない。それは女とて同じ。隣のレーンの工場婦の顔ぶれが昨日と変わったとて、気にしない。黙々と自分の作業を行うのみ。そうして疲弊して一層濁るのだ。


昔はこうじゃなかった。この時代の人間達誰もが口を揃えて言う。こうじゃなかった、けれども疫病と大戦により全てが塗り替えられ取り返しがつかなくなったと。後戻りできず、なぜ戦っているのかも思い出せないまま争いを繰り返し、貧困と疲弊に世界はまみれた。

女も、もとはただの平和なパン屋の店員だった。毎日朝早くから焼き上がったパンを棚に並べ、笑顔で客を迎える、そんな凡庸で満ち足りた幸せな生活を送っていた。

しかし争いが広まると、パン屋は硝煙とともに瓦礫と化し、女は武器を作る工場の一員となった。

仕方がなかった。勢いよく流れる時代の変換に呑まれ、皆元の生活を捨てざるをえなかった。しかし、パンという希望を並べていた手は今や、人の命を奪う道具を作るだけの手へと変わり、絶望と罪にまみれた。何度洗っても流せない。女はよりいっそう疲弊していった。美しいはずの二十代の日々は色褪せ、女の顔色はいつも悪く、疲れからか老けて見えた。体はいつも重く、喉が塞がれたような息苦しさを感じる。苦しい、溺れているみたいだ。黒く艶やかな髪もくすみ、肌も荒れていた。なぜ私は生きているのか。分からないままに日々を繰り返す。明日がやってくる。仕事に追われ、自分の時間などなかった。国の大事なお役目だから、何度も繰り返されたその言い訳を自ら口にして女は今日も動いていた。まるで機械仕掛けの人形ね。そう独りごちて、女は立ち上がる。色褪せた女の日々の中、廃墟から鳴り響く怪しくも美しいラ・カンパネラの響きと、白く輝く陶器人形は、彼女の唯一の癒しとなった。


工場が終わると女は今日も廃墟へ急ぐ。目指す時刻は十九時四十三分。壊れたからくり時計はおかしな時刻に動き出すのだから。廃墟に着くと時計をひたすらに見つめ待つ。カチリカチリと手首から硬い音が鳴り、そうして時刻はようやく十九時四十三分。カチリという機械音と共にオルゴールの弁が震えだし、甲高いピアノの音が鳴り響く。すると、お堅い顔の太陽がくるりと反転し、ニヒルな笑みを浮かべた月へと姿を変える。音楽を合図に白く輝く少女人形が台座の中からようやく姿を現し、お客をくるりと見回した。女と目が合うとそれはキラリと光った気がした。月の光を反射しただけかもしれない。けれど女にとっては、最高のファンサービスであり、歓喜の瞬間であった。

両手を高らかに上げたまま、少女人形は踊り出す。女は声もなく、息さえもひそめ真剣に演奏に聞き入る。眼は決して少女から離れずうっとりと魅入っている。やがて約三分半の小さな公演は、音が止み、ニヒルな月からお堅い太陽へとレリーフが変わるのを合図に終了する。

訪れる静寂さえ美しく気高いものに思え、観客の拍手すら無粋に思えた。だから、惚けたようにその場で立ちすくみ、月の光をめいいっぱい浴びると、やがて意を決したように歩を進め女は現実へと帰っていく。頭の中では今だ興奮冷めやらないままに美しいラ・カンパネラの響きを繰り返しつつ、冷や水のように明日の仕事という重い使命を掲げている。ため息をついたのは必然だった。


ある日、もう一人の観客の存在に気がついた。彼は女と同じく毎日来ている訳ではなく、また来ても隅でひっそりと立って観ているだけだったため、劇の虜になっている女はしばらく気がつかなかった。また気がついてもお互いの視線が合うことは無く、ちらりと目をやるのみで無害な客の一人と判断すれば後は公演に集中していた。そうしてすぐに女は彼の存在など忘れた。不思議なことに廃墟にいる間、女は幼子のように無垢で無防備で、素直に喜びを表現する少女にかえっていた。心が解けてゆるりとリラックスしきった状態だった。ひとときだけ、現実は遠い蚊帳の外にあったのだ。なにがそこまで女を魅了するのか、女自身もよく分かっていなかった。ただの人形とオルゴールだ。けれど、まるで初恋に浮かれる少女のように高揚感と多幸感で胸いっぱいで、夜寝る時でさえ女は少女人形の事を想っていた。辛く短調な仕事さえ、早く終わらせて会いに行くのだと思えば苦ではなくなった。女にとって少女人形はカンフル剤であり、それを失えば生きてはいけないと思う程、いつのまにか人生において無くてはならない存在となっていた。


だから、そのヒビに気がついた時、女は心の底から恐怖を感じた。少女人形のすべらかで美しい肌に唯一の翳りを、正しくはそのヒビを見つけた時女は思わず悲鳴を上げた。喉奥で上げた絹を割いたようなその悲鳴に、隣の彼は思わず目を止め、やがて女の視線の先の真実に気がついた。どうしよう、男の存在も忘れ狼狽した女はひとりごつ。顔は蒼白で、声は悲壮に満ちていた。それを聞いた男は、たっぷりと時間を置いてから「大丈夫」とだけ言った。小さな呟きとも取れるその返答は、時間をかけて女の頭に届き、なんの根拠もない労りもない短い言葉だというのに、心の揺らぎがピタリと止まるのを感じた。視線が合う。女は初めてしっかりと男の姿をとらえた。男は兵服を着ていた。歳は女と同じ二十代後半ぐらいか。長身で、驚く程細身だったが、腕や胸は厚く服が張っていて、筋肉はあるようだった。肌は訓練のためか、日に焼けていた。しかし雰囲気は驚く程に静かだった。月のように怜悧で、目に光を宿していない。優しい落ち着いた声とは裏腹だった。驚きで女は思わず固まった。

「あなたは…」

「失礼、私は国務部隊所属の兵士。気にしないでくれ」

男が薄く微笑む。月に照らされて見るその笑みは、ひどく空虚だと言うのに、なぜか落ち着けた。男の口調だろうか、声だろうか。瞳とは裏腹にどこまでも優しい声は、ラ・カンパネラの響きのように女の心を捉えた。


しかし帰路に着く途中ふいにあの時抱いた恐怖が甦った。背筋に冷たいものが走る。鼓動は強く高鳴り、足元には薄い氷膜が張っているかのような身の置き所のない不安感に苛まれた。一度は落ち着いたのに思い出すともうダメだった。

「どうしよう」

闇の中、もう一度呟いても返答など当然なかった。

その日はなかなか寝つけなかった。ようやく寝ついても、浅い睡眠の中溺れるように覚醒を繰り返した。


次の日 工場でも人形のヒビばかりが思い起こされた。なんとか仕事に集中しようとしてみるが、頭の中を不安感と恐怖感に支配され、うまくいかない。もう人形なしでは生きていけないのだ。喉を塞がれたかのように息が苦しい。胸が痛い。

ようやく仕事が終わると彷徨うように廃墟まで歩く。怖さのあまり屋敷に踏み入れられなかった。見たいのに、会いたいのに、怖くて入れない。もし恐怖が現実のものとなったら、女の心はショックを受け止めきれず壊れてしまうかもしれない。いや、いっそ壊れた方が楽な程に辛い痛みが胸を覆うだろう。今も痛いのだから。


「嫌、怖いのよ」


十九時四十三分、壊れた窓の隙間から、美しいラ・カンパネラの音色が響いた。

小さな人影がくるくると回っている。女の不安など杞憂とばかりに、見事で素朴で、いつもと変わらぬ劇が屋敷の中で繰り広げられている。ヒビの入った人形は、異変に気づかないまま笑顔で踊り続けいる。

女はそれを窓の外からなんとも言えぬ気持ちで眺めていた。約三分半の劇はたちまち終了し、人形の影が消えていく。立ち尽くす女を、屋敷から出てきた男が見つけた。

「流れていた曲を知っていますか?」

「ラ・カンパネラのこと?ええ、知っています」

「私はこの曲を知らぬまま、ずっとここに来ていました。名前など知らずとも、怪しげで優しい人形と音色に惹かれていた。なぜでしょうね」

背中に括り付けた銃身を月の光で鈍く光らせて、男が去っていく。

「私も分からないわ。でも、惹かれる程終わりが怖くなるものよ」

男の小さな後ろ姿にそっと呟いた。


ある日、工場近くで男を見た。兵服を着た男達の中に混ざって銃を担ぎお堅い顔で行進していた。どこにも隙のない顔はひどく人間味がなく、あのお堅い太陽のレリーフを思い起こさせた。あの日の微笑みを思い出す。女に向かって安心させるように微笑んだ時のことを。不器用な笑みだった。空虚な瞳のまま笑っても意味はないと言うのに。しかし声は優しかった。あんな笑みでも女が落ち着けたのは、きっと完全に空っぽではないからだ。でなれば、人形になど惹かれないはずだ。不思議な男。そういえばと、女は考える。そういえば、公演中男は微笑んでいるのだろうかと。

その夜、男の顔を見つめてみたが相変わらず憮然としていた。無表情に近く、昼間と同じく隙がない。こんななりで人形劇を一緒に観てるとは。公演中女は初めて人形から束の間目を離し、横目で男の顔を盗み見た。相変わらず微笑みもせず立っていた。笑いもせず、しかし眼だけは人形から離さずじっと見つめている。食い入るように見る様は捕食者のようだ。楽しげな様子も見せず、なぜ足しげく通っているのか不思議に思えた。しかし、気安く男に声をかけることも躊躇われた。この不思議な劇場で、人形のためだけに集まった観客同士が気安く話すことは不自然に思えた。それに男の持つ空気は硬く、女がパン屋時代出会ってきた客とは違い話しかけづらい雰囲気を纏っていた。あの日男が話しかけてきた方がおかしかったのだ。自分とはかけ離れた男だ。仕方のないこと、そう割り切るとすぐに女は好奇心を引っ込めて人形へと意識を戻した。今宵の人形もまた美しかったと。しかし月が雲に隠れて薄暗かった。今度は灯りを持ってこようか。そうぼんやりと考えながら帰路に着いた。


灯りにともされた中、十九時四十三分を待つ。月は今日も雲に隠れ途切れ途切れに姿を見せるのみ。お堅い太陽のレリーフを前に息をひそめそっと待っていると、カチリと音がして、くるりと太陽は反転しニヒルな笑みを浮かべる月のイミテーションへと変わる。怪しげな笑みも女にとっては喜ばしいものだった。最近は工場の仕事が忙しく、帰りは二十時を過ぎることが多かったのだ。ようやく来られた、間に合ったと、安堵の息をつく。

ラ・カンパネラの音が甲高く響き渡ると、今宵も少女人形が現れる。両手を上げたままドレスをひるがえし、音楽に合わせくるりと揺れ出す。白い陶器の肌に橙色の灯りが反射しなんとも言えぬ趣きがあった。月に煌めく時よりも遥かに近しく感じた。美しいかんばせを暗闇に溶け込ませながら、僅かな灯りを頼りに少女人形は踊り続ける。甲高く、ざわめくようなラ・カンパネラの音が徐々に纏まり始め、やわらかに空間に溶けていく。頼りなさげに、迷子の少女のようにやわらかでおぼつかない音色から、眠りにつく赤子の寝息のようにひっそりとした音色に変わる。そうして眠り子を起こさぬように静かに余韻を残して音が消えていくと、くるりとお堅い太陽にバトンタッチし、月は帰って行った。

少女人形も微笑んだまま台座の中に消えていく。観客の熱い視線を一身に浴びながら。その時、微かに鈍い音がした。けれど小さなその異音に熱狂に包まれた観客達は気づかない。少女人形だけが微笑みながらその音を聞いていた。


そして運命の夜が来た。十九時四十三分きっかり、いつもと変わらぬ顔ぶれのもと少女人形が踊り出す。ラ・カンパネラの不思議な音楽のもとくるくると踊り出す。女は恍惚とした表情で胸の前で手を組みながら、男はいつもの憮然とした顔で、しかしどこか浮かれた心地で、たった二人の観客の前でくるくると踊り続ける。廃墟の壊れた屋根からコツンと、石ころが落ちていった。古い屋敷の中ではいつも通りのことであった。しかし皮肉な事に、落ちた先は愛らしい少女人形のもとだった。くるくると踊る少女にコツンと小石が当たり、まるで夢のようにあっさりと、悪夢のように突然に、少女人形はヒビ割れ、砕け、散った。

「いやぁぁ!!」

絹を割くより激しく、つんざめくような悲鳴が女から上がり、女は膝から崩れ落ちていった。男も動けないまま、その悪夢の前で固まっていた。少女人形は、砕け散った破片と共に、床に倒れている。少女人形が消えたことでからくり時計は仕掛けがやぶられたのか、美しいラ・カンパネラの音楽はピタリと止み月光と静寂とがその場を包んだ。いつもは裏に消えるイミテーションの月がその場に留まり続け、伏した少女人形と崩れ落ちる女、そして悪夢にうなされる男とを皮肉な笑みで見つめ続けている。静かだった。やがて女が少女人形に手を伸ばし、その指に赤い血を滲ませた。ぷくりと、赤い血が集まり垂れ落ちるのも気にせずに女は少女に触れ続ける。

「どうして、どうしよう。いやっ、助けて」

うわ言のようにそう繰り返しながら、少女を撫でさする。そこでようやく金縛りが解けた男が女の手を掴んだ。

「もう、止めよう。これ以上は」

小さくそう話すと、すすけた鞄からタオルを取り出し女の指に巻いた。白いタオルはあっという間に血を吸い真っ赤に染まる。しかし男は気にせずギュッときつく縛る。

「治り、ますよね?」

女がうわ言のように呟いた。力ない声だった。静けさがまた場を包む。男は熟考すると、やがて口を開いた。「治せるかもしれません」と。

「この街なら古い職人が残っているはずです。砕けた人形は戻せなくても、からくり時計自体は動かせるかもしれない。あなたの要望にはそえないでしょうが」

男は一言一言低く落ち着いた声で、けれども掠れるように静かに話す。それは時間をかけて女の頭に届き、やがて女は泣き伏した。すすり泣きだった。

「分かり、ました。ありがとうございます」

どれ程たったか女が呟いた。虚ろな目に現実を映し、虚無の心で呟いた。男は女の言葉を聞くと静かに頷いた。痛々しく、重々しく。

悪夢の一夜だった。しかしそれが現実である証拠に、陶器人形はいつまでもそこに倒れ伏し、二度と劇場は開かれなかった。悪夢のように鈴の音が男の頭の中で響くばかりで、もう二度と人形は戻らない。女の砕けた心も元に戻らない。あまりに辛く悲しい現実をどう乗り越えたらいいのか、二人には分からなかった。しかし現実は朝日と共に日々訪れる。女も男もひび割れた心を引きずったまま現実を生きるしかなかった。


女の朝は早い。太陽が昇るより早く、四時半には起きて支度をする。そうして五時には家を出て、五時半には徒歩で工場に着く。制服に着替え、決められた自分の席につき準備をすると、六時きっかりにレーンが動き出す。いつも通りだった。女の想いなど否応なしに日常は続いていく。なんの楽しみもないまま、僅かの希望さえ残らないまま、機械のように、人形のように、女はなんの感情も抱かず働いていく。自分が何を作っているのか、なぜ働かねばならないのか、考えることすらもはや億劫だった。感情を捨て事務的に作業を続けることこそ女が望まれている役目であり、義務であった。これでよかったと、女はひとりごつ。なんの希望も楽しみもない今の方がいいのだと。心は張り裂けるように痛く、胸は激しく高鳴り、喉は塞がれたように常に息苦しかったが、その苦しみさえ思考を放棄すれば遠く夢彼方へと消えていくようだった。自らが人形だったのだと錯覚すればいい。白い陶器のような美しさも輝きも自分にはないけれど、少女人形に近づけるのなら幸せだった。女は人ではない。女は工場婦であり、機械であり、人形であった。それはとてつもなく痛い現実と空想であった。


男が工場に来た。女が人形になってもう幾日も過ぎ去った頃、ぼんやりと見覚えのある男を視界に捉えると女は瞬きをした。休憩時間になり、立ち尽くした男のもとへ近づくと、男は挨拶もなしに口を開く。「オルゴールができました」と。手にした箱はニスを塗ったのか木目を際立たせ鈍く輝いており、箱を開ければ金色のゼンマイと櫛歯がきっちりと収まっていた。男がカチリコチリとネジをまくと、工場に美しくも怪しいラ・カンパネラの音が響き渡った。甲高い音達が工場のレーンのあちこちに散らばり、隠れ、やがて赤子の寝息のようにひっそりと集まり消えた。その音色は女の欠けた心をくすぐった。希望を、夢を、取り戻せた訳では無いのに、奇妙な心地で、どこか愉快であった。

「ありがとう」

女が呟いた。頬は痩せこけ、顔は青白く、疲れた笑みであった。しかし男は安堵したように息をもらすと、「ああ」とだけ呟いた。男の低く静かな声は時間をかけて女の頭に届き、気持ちを鎮めた。目の前に白い花を差し出されたかのような、優しく穏やかな心持ちになった。

「私は、近日出征します。お役目を任されました。ここへはもう来られないでしょう」

女は思わず男の顔を見た。憮然とした顔だった。

「あなたとは奇妙な縁でした。お互いおかしな時間を過ごした。他人が見れば馬鹿馬鹿しいと吐き捨てるような、取るに足りない物に心奪われ心乱されて。しかし、私は、」

女は男の言葉を待った。しかしいつまでも男の口は開かれないまま、ペコリと頭を下げ静かに出ていってしまった。女の手に木の箱でできたオルゴールを残して。女は奇妙な心地だった。どう言葉に表していいのか分からないまま、誰も聞く者がいないその想いは静かに女の中に消えていった。秋も終わる頃、冬の始まりの日の出来事であった。


幾月も過ぎ去った頃、冬が終わり、春が過ぎ去る頃、男は戻ってきた。それはたまたまだった。工場前の知らせ版の名簿に男の名を見つけ瞬きをした女は、仕事終わり男がいる施設へと走った。

「どうしてですか」

挨拶もなしに女が尋ねる。男は困ったように黙りこくると、やがて「任務でした」と口を開いた。

「どうして」

女がまた尋ねる。男は今度こそ黙りこくった。

「どうして逃げないのですか。ここにいればまたあなたは戦場に行くのでしょう。怖くないのですか、自分が壊れゆく事が。辛くないのですか」

女の言葉に驚いたかのように男がゆっくりと瞬きをする。女は男に近づき、ベットの淵を手で掴むと、しゃがみ込んだ。倒れ伏したかのようだった。

「私は怖いのです。自分が壊れることが」

女の目から静かに涙がつたい流れた。不思議だった。自分にまだそんな感情が残っている事が。しかし、無視してきた胸の痛みも、喉を塞ぐ息苦しさも、確かに女の中にあるのだ。きしりきしりと、心が痛んだ。逃れる事のできない痛みが女を苦しめた。

「逃げましょう、一緒に」

女が言う。男は黙ったままだった。女が病室を去る頃、男はようやく口を開いた。「また来てください」と。男の手も足も人形のように壊れ、幹のように太かった手も足もやせ細り今にも倒れ落ちそうだった。事実、男は病院にいるのだ。戦場で何を見てきたのか、何をしてきたのか、想像すると女の心は砕けそうに痛かった。しかし人形にはない痛みは、確かに女が人間であると思い起こさせるのだ。


夏の始まりの日、男に出仕命令が下された。療養に許されたわずか一ヶ月の期間が終了したのだ。手も足もまだ細く頼りない。それでも行かねばならない。女に言えぬまま病室で兵服を着込んだ。背に銃はない。今から貰いに行くのだ。次は誰の命を奪うのだろう。誰に命を奪われるのだろう。誰に使い倒され、削り取られるのだろう。命の火がやせ細り静かに消えゆくのを予感した。

「怖くないのですか、自分が壊れゆくことが。辛くないのですか」

女の言葉を思い出す。怖いさ。辛いさ。自分の命が危ぶまれる事も、誰かの命を奪わなければいけないという事実も。その日初めて男は涙を流した。感情とは別のまるで生理現象のような涙だった。手で無造作に涙を拭うと、男は病室を去り隊へと戻って行った。


空っぽの劇場で、男と女が呆然と立ち尽くす。「あなた、悲しい?」と女が尋ねる。「分からない」と男が答える。砕けた人形を見下ろす二人。「逃げましょう」と女が言う。「どこへ」と男が尋ねる。「どこかへ」と女が答える。「怖くてたまらない、辛くてたまらない、足があるうちに逃げましょう」と女が語る。「足は、あるのだろうか」男が途方に暮れて呟けば、「あるわ」と女が答える。男はすすり泣いた。あの日の女のように。女が微笑む。疲れた笑顔で。しかしそれは堅い太陽に似ていた。月のような笑顔で男が微笑む。「オレは疲れた、逃げよう」と。女は黙って頷いた。

それは全て男の夢の中の出来事であった。


自室で目覚めた男は憮然とした顔のまま、兵服を着込み任務に急ぐ。そしてその日の夜、廃墟の屋敷へとゆっくりと歩いた。廃墟の前で立ちすくむ。窓から白い女の手が見えた。くるりくるりと回りながら、ラ・カンパネラの音色を口ずさんでいる。男が屋敷に入り近づけば女は微笑んだ。無防備でやわらかな笑顔だった。

「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

思わずつられて答えた男が喉元を抑え黙りこくる。

「私と、いきますか?」

気がつけば男は言葉を紡いでいた。

「いきますか?」

女が男の言葉を復唱して首を傾げる。いきますかとは、どういう意味なのか。女には分からなかった。

「海外にツテがあります。船を出しあなたの言う通り逃げればいい。追うものも届かない。私達は逃げるのです」

空虚な女に、一言一言噛み締めるようにそう語りかける。空っぽの女はあまりに規模の大きな物語に途方に暮れた。男は続ける。

「自分は、兵士です。もとはただの会社員でしたが、職を無くし兵士に志願するしか道はなかった。若く頑丈な体も、楽しかった時間もとうに消え、人を殺める存在に成り果てた。疲れました。もう嫌だ」

人形劇のように淡々と、無感情に、男は言葉を語る。ぼんやりと、女は男を見つめ何も答えなかった。頭の中では何度も男の言葉を反芻し理解しようと努めているのだが、女の表情だけ見ると何も考えていないかのようにぼんやりと硝子玉のような目をしていた。男にはどのように映ったのか、女をしばらく黙って見つめていかと思えば、帽子を下げ顔を隠し、「では、また明日」と動かぬ女にそう言い残し去っていった。残された女は考える。いきますかとは、どういう意味なのか。私と行きますかなのか、私と生きますかなのか。あまりに大きな代償を支払う男の行動に対し、女では何もかも相応しくないように思えた。自ら言い出したことなのに、規模の大きさに戸惑い、それを現実と実感したとたん、今までの自分の発言が子どもの絵空事のように不透明であやふやなものであったことに気がつく。

次の日も、女はぼんやりと考え込んでいた。仕事中も単調な作業を繰り返しながらも、ずっと男の言葉を頭の中で反芻し考えてあぐねていた。そのためか、あっと気がついた時には大事な部品が手から転がり落ちるところだった。あっと、思った時にはそれを追い手を伸ばしていた。常々命より大事だと言われている武器の部品だ。尊いお役目が台無しになってしまうと、そればかりが今度は頭を占めていた。伸ばした手の先、レーンの間にすっぽりと指が挟まった。瞬間、指が取れたかと思う程の激痛に襲われた。言語にならない何事かを叫ぶと、周りが賑やかになり、指を吸い込んでいたレーンが止まった。指を引っ張ると顔に血がとんだ。指を見る。激痛で目の前がくらくらしたが、ちゃんと付いていた。もう、取れたかと思ったのに。後ろで大きな怒鳴り声がした。鼓膜が塞がったように鈍く感じられ、声が普段より遠く感じる。後ろにいたのは女の上司で工場の責任者だった。女の血だらけの指と、安全装置のため止まったレーン、そしてめちゃくちゃに散らばった部品とを見渡すと、勢いよく声を荒あげ出した。あまりに興奮しているため言語として理解するのに時間がかかった。要約するとお国の任務が滞るだろうと、ひどく怒っているようだった。当然心配の言葉などない。女は痛みに気絶しそうだった。溢れる血を汚い、部品が汚れると言う上司を信じられない想いで見つめる。思わず周りの工場婦達を見渡せば、濁った目で一斉に女を見つめていた。空虚な瞳だった。濁りきり、中心に不思議な紋様を描いた半透明の硝子玉のような瞳だった。女を映しているようで、その実何も映していない。指の尋常ではない痛みと、ダラダラと服を染める真っ赤な血を見つめ、女は気づく。誰も自分の心配などしていなと。女が今ここで壊れたとて、誰も泣かない。誰も傷つかない。代わりの工場婦があっという間に来て女は忘れ去られる。そこにいたことすら記憶されない。自分と同じ。隣のレーンの工場婦が代わったとて誰も気にとめない。自分の居場所など始めからなかったのだと、ようやく気づいた。動かない指を抑え、止まらない血を見つめ、女は口を開く。早く手当を、病院に。止まらない血を見つめ、顔を赤くした上司が不服そうに女を見つめる。舌打ちをすると、近くにいた女に何事かを命じそのまま去っていった。命じられた女はため息混じりに女を見つめていた。女にハンカチを手渡すと、止血し病院に行くように命じた。

その日女のレーンには別の者が入った。どこから来たのか分からない女が。

その夜、指を包帯で巻いた女は廃墟にゆっくりと歩いた。廃墟に佇む男に尋ねる。

「あなたは、私が壊れたら、涙を流しますか?」

痛々しい女の指を見つめながら、男は熟考するように黙りこむ。そしてやがて重々しく口を開いた。

「それは人形と同じく、ひどく切なく痛いことだ」

そして信じられないことに男が涙を流した。真顔のまま瞳からポロポロと涙を零している。まるで生理現象のような涙だった。裏のない透き通った涙だった。

「すまない、ここ最近私は変なんだ」

「いいえ、嬉しい」

男の言葉も涙も女にとって十分で、ひどく満ち足りていて、あまりに幸せなことだった。

「私は、工場に勤めています。お役目のため、安全のため。けれどもう疲れました。夢も希望もない。毎日ひどく疲れ果て、命を削って働いて。でも私の居場所など始めからなかった。私の存在など必要なかった。ただ使われていただけで、私が壊れても誰も気にかけない。もう嫌なのです。どうか一緒に逃げてください」

女が差し出す手を男は静かに取った。男は女の手を引き、森へと連れて行く。道中男が言う。

「すまない。本当は海外でなくても逃げ延びる術はある。私はあなたを試した」

「なぜ?酷い人」

女は男の頬に手を伸ばした。

「でも私は貴方を許すわ。だって貴方は他でもない私のために泣く人なのだから」


森の奥深く、女の知らない獣道へと、ずんずんと手を引き男が歩く。


暗い森の中を何日も彷徨い歩いた。森の中で女は何度も不安な心地になった。獣の声がする。森は暗く伸ばした自分の指すら見えない。怪我した指は熱く、痛く、全身から汗を吹く。

怖い。嫌だ、助けて。女が叫んだ。

大丈夫、落ち着いて。男の声は確かに聞こえるのに、あまりの恐怖に女はまた悲鳴を上げた。何日にも渡る行進は訓練経験のない若い女には苦痛だった。落ち着かせようと声をかける男の慰めさえ理解できない。

しかしある日、女は空を見上げ気がついた。

月と星の明るさに。新月は明け、今ようやく月が出たと男が言う。月に寄り添い光る星が綺麗だった。涙が出た。あまりに幸福だったからだ。

「この月と星を見るために、私は暗闇の中ずっと不安で孤独で怖かったのです。あなたの言葉も今ようやく届きました。もう歩けます」

男はその言葉を聞くと女を木陰に座らせた。水筒の水を飲ませ、時間が経つと手を引き立ち上がらせる。男はそのままゆっくりと歩き始めた。そうしてようやく、複雑な道を抜け、隠れ里へと辿り着いた。

隠れ里には家を空襲で焼かれた廃墟の住人や、元兵士、消えた工場婦、子どもから老人まで多くの者達がいた。

「皆逃げてきたのか」

「こんな近くにこんな桃源郷があったとは、気がつかなかった」

しかし、そこでの暮らしは想像以上に貧しく厳しいものだった。腹の満たされない日々。暑さに喘ぐ日々。しかし女は不幸ではなかった。心はとうに満たされていた。眠れない日はオルゴールのネジを巻く。優しくも怪しげなラ・カンパネラの音色が隠れ里に響き渡る。甲高くざわめくような音色は森に散らばり、やがて赤子の寝息のようにひっそりと女のもとに集まり消える。そして女は眠りに着く。その様子を静かに男が見ていた。女が眠ったのを確認すると男も眠りに着く。


ある日曲がった背を杖で懸命に支え、首もとをしゃんと伸ばした、貧しくも気品のある老婦人が女のもとを訪ねた。曰く、その音色に覚えがあると。女は老婦人にオルゴールを見せた。そして不思議な日々のことを語った。白く輝く陶器人形と、お堅い太陽とニヒルに笑う月のレリーフ、美しくも怪しげなラ・カンパネラの響き、それらに魅入られた二人の男女の物語を聞かせた。特に、それが失われた日のことは殊更鮮明に語った。

話を聞くと老婦人はしっかりと頷いた。

「アレは、寂しかったのでしょう。わたくしが空襲で幾月も離れ、壊れかけたアレは、自らの運命を悟りつつも、誰も涙する者を持たない事実に打ちのめされた。そうして、寂しさから貴女方を呼び寄せた。最期を貴女方が見届けてくれて、アレは嬉しかったのでしょう。アレは、わたくしの亡くなった妹によく似ていましたから。寂しがり屋でした。最期までわたくしから離れなかった。けれどもアレは、悲しい思い出を呼び起こさせるアレは、わたくしに鬱陶しがられながらも何度も手直しをされ、あそこにいた。そうして、屋敷が壊れても、わたくしが去っても、あそこに留まり続けた。なんと、数奇なことでしょう。わたくしは、疎んでいたはずのアレによく似た音色を聞き、ずっと荒れすさんでいた心が安らかになったのです。そしてここで貴女方に出会った。わたくしにも、忘れ去られたくなかったのでしょうか。寂しがり屋で愛おしい子。なぜ疎んでしまったのか。ありがとう、あなた」

老婦人は女の手を両手で包み、泣き始めた。透き通るような涙は、白い陶器肌の少女人形に似て、美しく尊いものに思えた。男が老婦人の背を撫でさする。

「わたくしは一人なのです。わたくしもいずれ遠くない未来に妹とアレを追い逝くでしょう。誰も涙する者を持たない事実は、寂しいことです。胸が引き裂かれように冷たく痛い。アレの気持ちがよく分かる」

女は老婦人の手を引き一緒に立ち上がった。

「私はあなたの家族にはなれません。しかし、少女人形を看取ったのが私達だと言うのなら、魅入られた者同士仲間にはなれるでしょう」

女は老婦人の隠れ家に足繁く通った。来訪の度、老婦人は曲がった背を杖で懸命に支え、首元をしゃんと伸ばし出迎えた。深い色の服に着替え、しっかりとした口調で娘時代の話から、妹のことなどを語った。

「あれはちょうど四十四年前になるでしょうか。嫁入りしてあの屋敷に行き子も設け、なかなか妹に会いに行けなくなった頃、電報が届き妹の病気を知ったのです。年の離れた可愛いらしい子で、両親にもわたくしにも愛されていましたが、昔から寂しがり屋でした。何を予感したのか嫁入りの日には火が付いたように泣き始め、わたくしの袖をなかなか掴んで離さなかったものです。嫁入り後病気を知ってからは奉公を辞めさせ、屋敷に招きました。闘病の中、せめてもの慰めにとあの子に似た陶器人形を作り、カラクリ仕掛けの大きなオルゴールに仕込んで贈ると大層喜んだものです。しかしその年の秋には逝ってしまいました。最期までわたくしの手を掴み、泣いて離しませんでした。妹の苦しげな声が今も耳に響くようです。それから妹に似たあの陶器人形を見る度に辛く悲しくなり、壊れぬように管理だけさせて、わたくしはアレから逃げました。これは、アレの苦しみなのでしょう。夫も亡くなり長いこと独りであったのに、今更とても寂しく感じるのです。目の前が真っ暗で寒く思うのです。わたくしが長いこと感じなかった感情です。わたくしのものでないのなら、アレの感情でしょう。わたくしを恨んでいる」

女は老婦人の手を握り「いいえ、いいえ」と囁く。

「少女人形からは邪な想いは感じませんでした。ひたすらに優しく私達を慰めてくれた。もし感情を残していたとしたら、婦人が心配なのでしょう。だから私達を寄越した。大丈夫、暗くてもいつかは月が鋭利に、星がやわらかに光るのです。婦人の苦しみも痛みも意味があり、いつかは報われるのです」

男は黙って女と老婦人の側にいた。

そのうち、老婦人のもとに足繁く通う男と女のことを、疎遠になっていた老婦人の娘夫婦だと隠れ里の皆が噂した。男も女も決して否定しなかった。


やがて老婦人は男と女が訪れても、床から起き上がれないようになった。しかし、せめてもの意地なのか、寝間着の上にカーディガンを羽織り目元には光をたたえ、しゃんと出迎えた。寝たきりになっても気品の消えない老婦人は強く美しかった。しかし女が泊まり込みで世話をするようになってからは、すまないとばかり言うのだ。強く美しい心が折れぬように、その度に手を握り女は幸せだと語る。白く輝く陶器人形に出会い、老婦人に導かれた事、その運命が愛おしいと語る。そして老婦人の生涯の話を強請り、気丈な女主人の事を老婦人自身が忘れぬように努めた。

女が老婦人の世話に疲れきらないように、男も手伝った。恥じらいとプライドの消えない老婦人を傷つけぬように着替えは女が手伝い、男は代わりに食事を調達したり、火の番をしたりと、役割を分担し懸命に老婦人を支えた。


ある秋の晩、老婦人が咳混じりに語り始めた。

「わたくしの少女時代は短くとも幸せでした。まだ両親が生きていた頃で、わたくしは二人の愛を雨のようにめいいっぱいにその身に受け、とても大事に育てられていたのです。その愛こそ、何より尊く貴重なものか気づけないままに、少女時代のわたくしは無邪気に笑い駆けていました。子を産み母となり、そして年老いて独りになった今、その幸福さを身に染みて思い出すのです。どれほど感謝しても足りなかったというのに、両親はわたくしがそのかけがえのなさに気がつく前に逝ってしまった」

そこで、コホコホと乾いた咳をつき始めたので、女は水の入ったコップを差し出した。

「ああ、ありがとう。貴方の献身さもなんと尊いことか。いくら感謝しても足りないわ。あぁ、娘ですか。おりましたけれどね、二人とも連絡が取れなくなりそれきりです。まだ生きてはいるとは思うのですが。えぇ、わたくしは何かを間違えてしまったのでしょう。年老いてこうして死にゆく間際さえ、わたくしはわたくしの罪に気がつけないのです。なんと愚かなことか。わたくしはわたくしが気がつけなかった罪こそ、最大の過ちと思うのです。どう謝るべきかも分からないだなんて。きっと知らぬ間にあの子達を傷つけたのです。なんといたらぬ母か。わたくしは両親のようにはなれなかったのです」


そこまで語りきると、疲れたのかうとうとと眠り始めた。女は布団を肩までかけると、おやすみなさいと呟いた。夢でも見ているのか、老婦人の顔はめずらしく無防備でとても幸福そうに思えた。


男との暮らしは穏やかだった。恋人同士でも夫婦でもないのに、毎晩隣合って男と寝ている。ラ・カンパネラの音を聞きながら眠りにつく女を男は見守っていた。優しい愛にも似た好意を男から受けながらも、それは友愛や親愛に近く、恋人の情からは程遠いように思えた。女は女で男をとてつもなく大切に思い、信頼しきっているが、恋人のような限定された関係とは違うと感じていた。それは友情よりは近しく、恋よりは高貴で、夫婦よりは遠い関係だった。他人であることを実感しているからこそ、お互いを大事にせねばと思うのだ。


男は時々隠れ里を離れ森の外に出かけて行った。食料や物資の調達と、外の様子を知るためだった。外ではまだ戦争は終わらず、それどころか広がっているという。世界を巻き込んだこのつまらない争いは、いったい誰が止めるのだろう。転がった地球儀のように、どこか壁にぶつかるか、地に伏して倒れ込むまで止まらないのだろうか。時折空襲の音を聞き恐怖に苛まれながらも、女は信じきっていた。男が隠れ里に来た時言った、ここは安全だという言葉を。森が焼かれぬように祈りながら、女は恐怖に震える子どもや老人の背を撫で「大丈夫」と囁いた。


秋が終わり、冬が始まり、森の中はひどく冷えきった。特に寒さの酷くなった日、朝から老婦人は口数少なく、肌はひときわ冷たかった。火を絶やさぬように割り入れた薪を焚き火の番をしながら、布団を重ね、婦人の肌を撫でさすってみたが、冷たく青白いままで女は歯がゆくなった。老婦人はやがて眠りがちになり、うわ言のように何かを呟き微笑んだ。

「婦人?」

婦人が伸ばした手を掴み握り込む。そのまま眠ってしまった。手足は冷え先端はまだらに紫色がかっていた。そして幸福な笑みを浮かべ眠ったまま、白い顔をして婦人は息を止めてしまった。

その日男が帰ってくるまで女は動けずにいた。涙も流せないままに、自らのいたらぬ点を数えていた。

「どうしよう、どうしたら」

男が帰ってくると、縋り迫った。男は老婦人と女を見つめると首を振った。

「寿命なんだ。私達にはどうしようもできない。決してこれは理不尽な苦しみではないんだ」

男は女を抱きとめた。優しくあやすように背に触れられ、女はようやく涙を流した。泣き切ると、女は立ち上がった。血色のない老婦人をいつまでも見るのが辛かったため、隠れ里の女達に声をかけ化粧道具をかき集めた。頬にチークをのせれば、たちまち薔薇色の頬がよみがえる。口紅は紅く美しいものをひいた。婦人の気に入っていた深い色のワンピースを着せ、手には白い花を握らせた。それから、女が持っていたオルゴールのネジを巻き、ラ・カンパネラの音色を隠れ里中に響き渡らせた。甲高い音色で老婦人の人生を歓喜と幸福のもと祝福すると、優しくも儚い音色で老婦人を包みその孤独を慰めた。そうして、たっぷりと余韻を残し音色が消え去ると、男も女もただただ涙を流していた。人形の時のような空虚さとは違い、喉が焼き付くような悲しみが二人を覆い声を上げ泣き明かした。月が沈み、太陽の光が二人を包むと、女はようやく立ち上がった。男も立ち上がると婦人を横抱きにしそっと持ち上げ、土を掘った中に下ろした。婦人の美しいかんばせを撫でると、手を合わせ、また涙を浮かべながら土に埋めた。女は土の上にオルゴールを置いた。

「婦人にお返しするの。人形は壊れてしまったから、せめてもの代わりに」

男は頷いた。そして震える女の肩を抱き寄せると、共にその場を去っていった。




最後まで読んで頂きありがとうございます!

こんなお堅くて面白みもない話、小説を読もうの読者にはウケないと思いつつ、自らが抱いた小さな希望を形にしたくて、震える心を沈めようやく投稿しました。

ある日世界が理不尽な出来事で当たり前の日常が失われた時、夢も希望も失われた時、貴方の傍に少女人形はそっと寄り添います。貴方だけの少女人形がどんな形かは分かりません。このコロナにより希望を失くした世界では、外国では戦争が起き、ミサイルが隣国から実験と称し飛んできます。この小説のように希望はある日突然奪われるものかもしれない。けれど人間は生きています。私は、私の希望を捨てません。例え空が真っ暗で、今は何も見えなくても。いつか月と星が私を照らしてくれるから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ