苦味と甘味
いつの頃からだろう。
私が、苦いものを美味しいと感じるようになったのは。
たとえばコーヒー。
あの深みのある黒く、時には焦げ茶に見える液体。
味が薄いものは水臭く、不味いと感じるようになってしまった。
色は濃く、いつまでも舌に残る深い味わい。鼻腔をくすぐり、脳にまで届き居座る芳ばしい香り。
中毒性があるのだろう。依存性があるのだろう。
私は、虜になってしまっている。
たとえばチョコレート。
カカオの含有量によって、苦味が変わる。
子供の頃は、甘いチョコレートが好きだった。
でも、いつの頃からか、甘いだけでは物足りなくなってしまったのだ。
まったりネットリとした甘さの中に、ヒッソリと紛れ込む苦味。
次第に求める甘さと苦味の比率は逆転し、苦味の中にひそむ甘さを求めるようになってきた。そっちのほうが美味しいと感じるように変わっていった私の味覚。
苦味だけではない。臭さも美味いと感じるようになった。
たとえば秋刀魚。
鮮度にもよるが、あの苦い腸に甘味を見つけた。
パリパリの皮に、ホクホクの身。そして、秋刀魚の臓物。
臓物という字面を見れば敬遠してしまうが、味を知れば嬉々として箸をつけるようになるから不思議だ。
たとえばウニ。
磯臭くて食べられなかったのに、やはり甘味を感じるようなった。
質がよいものは、格段に違いが分かる。
舌に乗せると、口内の熱でトロリと溶け出す代物。甘さと磯の香りが混在し、鼻腔を抜けていく瞬間に寄せられる期待感。
たとえばビール。
濃密な泡の口当たりと、苦い液体。だがそこには、様々な味と香りが凝縮されている。
苦味の種類が豊富で、好みの味を見つける楽しみ。喉越しの快感。なにより、高揚する気分が鬱憤を解放してくれる。
舌が大人になるという。
それは、楽しみが増えるということ。
人生にも苦味が必要だと他人が言う。
苦い経験が人生の糧になると。だから、お前も経験をしたほうがいい。経験すべきだと強要するのは傲慢で、押しつけだ。
自分は経験したのだから、キミも経験すべきだと。同じ苦しみを味わうべきだと、その道を勧めるのは、優しさなんかじゃない。
同じ道に引きずり込み、同じ傷の痛みを舐めあいたいのか。それを自分は乗り越えたのだと優越感を得たいのか。
同士を求める招かれざる囁きは、願い下げだ。
負わなくていい痛みなら、負わないに限る。
傷つき悩んだ経験が人生の糧になるという言葉は、落ち込み打ちひしがれる友に、だから大丈夫だと励ますための言葉として使いたい。
苦味の中に美味さを見い出せるように。苦味はスパイスであり、人生の楽しみである。だから諦めるな、と。
そんな綺麗事を言えるほど人生の苦を経験しているわけではないけれど、年相応の悩みは皆が持っているはずだ。
幼少期には幼少期の。思春期には思春期の。学生には学生の。社会人には社会人の。年寄りには年寄りの。夫婦には夫婦の。友人間。仲間同士。
人と人が関わると、そこにはなにかしらの摩擦が生じる。
受け取り方、受け流し方は、それぞれが歩んできた人生の価値観によって違ってくる。
みんな同じではないのだ。
みんな違う。違うのが当然。
当たり障りなく関わりを持つ程度で、意識して仲良しこよしを取り繕わなくてもいいはずだ。
児童や学生には、それが許されるとして、なぜ社会人には許されない。
会社のしがらみから逃げることは悪だという潜在意識。
そんな認識……クソ喰らえだ。
私は走らせていたペンを置き、カップに残る冷めたコーヒーを喉に流し込む。
一身上の都合、と書かなければならないことに抵抗を感じる。そう書くしかないことに憤りも感じる。
やるせなさもなにもかも、香りがしなくなった苦い液体と共に飲み込んで、おもむろに天井を仰ぐ。
見慣れたファミレスの、いつもの天井。暖色系の照明が眩しい。
「逃げるんじゃない。次に進むのよ」
声に出して自分自身に言い聞かせる。
なにを言われようと、絶対にぶれない。
固い決意を胸に、辞職願と書いた封筒をカバンにしまう。椅子から立ち上がり、擦り切れて汚れた靴で一歩を踏み出した。
さあ、行こう。
私の人生は、一度きり。私だけのものなのだから。
飼い殺しになんて、なるものか。
《終》
苦味が美味しく感じるなぁ
と思ったら浮かんできたので書きました。