豚公爵は聖女に愛される
夜会の広いホールに声が響く。
「アリシア! 君との婚約を破棄させて貰う!」
怒気を孕んだ声で叫ぶのは第一王子のユリウスだ。
ユリウスの隣には金の髪を綺麗に巻いた女性、男爵令嬢のモレナ嬢、仲良さげに腕を組みまるで恋人のようだ。
モレナの周りには伯爵令息や侯爵令息、見目麗しい貴族の男が侍っていた。
対してアリシア嬢は貴族では無い。
教会に聖女として認められた乙女だ。
当代に一人しか居ない聖女を王国が囲う為に王子との婚約をさせられていた。
アリシア嬢はいつも通りの無表情で彼らを見ていた。
「ふん! 薄気味悪い顔で……君は我が愛しのモレナに嫌がらせをしただろう!」
侍っている令息達が何度も頷いている。
アリシア嬢は微動だにしない。
そして見守る他の貴族令嬢の目は冷ややかだ。
「ユリウス、わたし本当に怖くて」
「もう大丈夫だモレナ」
早くこんな茶番を終わらせて貰いたいものだ。
今は婚約破棄の断罪の場ではない、夜会のパーティーの場だ。
アリシア嬢に恥をかかせるためにこの場を選んだのだろうが、関係無い身からすれば迷惑でしかない。
「なんとか言ったらどうだアリシア!」
ユリウスの恫喝が更に激しさを増す。
アリシア嬢は小さく息をはくと淡々と話始めた。
「婚約破棄の件は分かりました。ですが嫌がらせについては否定致します」
「なっ! ふざけるな!」
ユリウスは怒り狂ったようにアリシア嬢に近づくと髪の毛を掴んで引きずり倒した。
おいおい、王子のする事じゃないだろ。
令嬢達からも批難めいた悲鳴が上がっている。
モレナは薄笑いを浮かべているのが更に気色悪い。
「ユリウス様、さすがにその様な行為は宜しくない」
俺はアリシア嬢の髪を掴む腕を掴まえてユリウスを止める。
銀の輝く細い髪がプチプチと何本か切れていた。
こいつ王子じゃなかったら殴ってるぞ。
「ああ? はっ! 豚公爵さまじゃないか!」
ユリウスは俺を見て揶揄された罵倒をしてくる。
肥え太りまともに走れない姿を豚と揶揄され付けられたものだが、こんな場で本人に言っていい蔑称ではない。そもそも蔑称自体がダメなのだが。
「他の令嬢も怯えている。ここまでにすべきです」
俺はあくまでも無関係な立場でユリウスの品位を下げない為に止めたという体を装う。
紳士的ではないのは間違いないのだから。
「モレナに近づきたいんだろうがな、豚公爵。お前のように醜い奴はモレナは見たくないそうだ」
誰もそんなことは言ってない。
それにそこの心の醜さが滲み出てるような女は好きになれない。
というか何故にこんなにも誘惑される男が多いんだ、甘ったるい声を出して媚びを売ってるのが丸分かりじゃないか!
「はあ、まあ、それはどうでもいいです。ユリウス様のこの行いを……」
その言葉を言い終わらないうちに俺は後ろに吹っ飛んだ。
痛い。
顔と背中に激しい痛みがある。
ユリウスがアリシア嬢の髪から手を放して俺の頬を殴り飛ばしたようだ。
「モレナをどうでもいいだと!? 豚公爵が何を考えている!」
王子として、この行為は頂けない。
逆上して自分が何をしているか理解出来てないのではないか。
「大丈夫ですか。クリス様」
俺の頬に手を当てて柔らかな声を出しているのは聖女アリシアだ。
モレナの方は俺が殴られて肩を震わせて笑ってやがる。
「ええ、アリシア様こそ大丈夫でしたか。ユリウス様は今日は少し興奮してらっしゃるようで……」
アリシア嬢の顔が一瞬酷く歪んだように見えた。
もう一度確認しようとじっくりと見ても普段通りの無表情だ。
「はぁはぁ、なんなんだお前らは! この! この!」
ユリウスは床を何度も踏みしめ苛立ちを露にしていた。
むしろ此方がなんなんだと問いたいです。
「はは、はははっ、そうだ! アリシア! モレナに嫌がらせをした罰だ! そこの豚公爵と婚姻しろ!」
ユリウスはアリシア嬢への罰として勝手に俺と婚姻を結ばせようとする。
俺との婚姻は罰になるらしい、悲しいが事実公爵なのに婚約のこの字も舞い込まないので罰として使われても否定できないのが悔しい。
アリシア嬢は俯き口元を薄く開く。
誰の前でも何があっても崩れない無表情、でも俺との婚約は堪えたか。
アリシア嬢の口角が勢いよく上がった、俺の視線からしか見えないその表情、無表情は崩れていた。
(わらってる?)
顔を上げユリウスに振り返ったアリシア嬢は変わらず無表情だ。
気のせいか。
「ユリウス様が、そう仰るのなら。私、アリシアはクリス様と婚姻を結びます」
アリシア嬢が宣言するとモレナと侍っている令息たちがクスクスと笑い出す。
そんなに豚公爵と婚姻させるのが可笑しいか。
俺はアリシア嬢に支えられながら立ち上がる。
「ユリウス様、臣下として忠告致しますが今日のような行いは良くありませんよ」
俺の言葉にユリウスは酷く顔を歪ませ睨み付けてきた。
これ以上この場に居ては俺まで何をされるか分からない。
俺は怪我を理由にパーティーを離席し自宅へと急ぎ帰ることにした。
自宅に着きソファへと腰を落とす。
酷い目にあった。
王子の行いを止めた事は間違いで無かったと思うが彼が王位を継いだらこの国での俺の立場は無いだろう。
それ迄にあのモレナが尻尾を出すか王子の目が覚めてくれれば良いのだが。
「大丈夫ですか、クリス」
「ああ痛いけど怪我は大したことな……い……え?」
俺は今誰と話たのだ。
顔を向ければ柔らかな笑顔を浮かべる聖女アリシア嬢がいた。
同じソファの俺の隣に座り片手は俺の太股に添えられている。
「アリシア様?」
「どうかアリシアとだけ呼んでくださいクリス様」
さらに身を寄せ俺の胸元に頭を置いて見上げるアリシア嬢はとても自然に笑っていた。
「アリシア……あの、何故ここに?」
「何故って、私はクリス様の妻になりましたから」
アリシア嬢は当然の事のように返答して俺の首に両腕を絡めてきた。
「あの、え? 妻にって、ユリウスのあの命令ですか? 大丈夫です、明日にでも陛下に伺って撤回して戴きますので」
豚公爵などと揶揄されるが公爵の権威はそこそこ凄い。
それにユリウスのあの紳士的でない行為を咎める事は出来るだろう。
だがアリシア嬢はこの世の終わりかのように絶望した顔になった。
「私はクリス様に不必要ですか……要りませんか……死んだ方がよろしいですか」
「いや、いやいや! 違いますよ! 俺は豚公爵、あー自分で言うと変ですが豚と罵られてる身です。婚姻なんて不名誉な事を受ける必要は無いんですよ」
聖女として、もっとしっかりとした相手が居るはずだ。
ユリウスとは無理だが、他の真面な相手と婚姻すべきである。
だがアリシア嬢は泣き出してしまった。
そんなに俺が嫌なのかと思ったが違った。
「ああっ、私はクリス様と一緒になりたいです! こんな名誉な事を受けないなんて言えません!」
アリシア嬢は美しい顔でボロボロと泣きながら笑顔を浮かべ俺をきつく抱き締める。
「私はクリス様の妻になって良いですか?」
こんな美しい聖女の涙はずるいと思う。
拒否なんて誰も出来ないだろう、モレナに侍る男達もこんな気持ちなのかもしれないな。
俺は泣きながら抱きつくアリシアの銀の髪を優しく撫でた。
アリシアはそのまま俺の屋敷に住まう事になった。聖女として教会に戻る必要があるのではと聞くと、じっと俺の目を見つめて「夫婦なのだから一緒に住むべきでは」と言うので何も言えなかった。
翌日には教会からクリス・スーザク公爵と聖女アリシアの教会による正式な婚姻証明書が届けられた。
婚約や結納、結婚式など全てすっ飛ばして俺たちは公的に夫婦と認められてしまった。
その証明書を受け取った時のアリシアの顔を思い出すと背筋がゾクリとする。
目を見開き食い入るように証明書の文字を何度も読み進め口角を引き上げて、どこかぎこちないそれでいて狂喜をはらんだ笑みだった。
「アリシア、その、嫌なら直ぐに言ってくれて構わないですからね?」
「クリス様……私はこの国一の幸せ者です」
首をぐりっと回して俺を見る顔は余り見ることのない笑顔だったがアリシアの可愛らしさを集めたような微笑みだった。
聖女として、ユリウスの婚約者として、無表情で淡々と仕事をこなす姿からは想像出来なかった。
「さて、仕事を……どうするかなぁ」
「お仕事ですか? お手伝い致しましょうか?」
アリシアはそっと俺の腕に手を絡めて身体を寄せてきた。
こんな豚と世間で罵られるような太った男に近寄っても楽しくないだろうに。
「手伝い……というか、俺がしていた仕事自体が手伝いだから」
「……どなたの……ですか」
アリシアの表情が消え失せ声が冷たくなる。
きっと何かを察したのだろう。
「ユリウス」
名前を告げるとアリシアの手が震えだす。
やはりあんな目に合わされて辛かったのだろう。名前を聞くだけでこんなにも恐怖しているなんて。
「……アレの仕事の手伝いを……なさるのですか……」
「そうしていたが、昨日の件を考えたらな、今後はしない事にした」
そもそも俺だって公爵の仕事があるなか、未来の臣下として仕事を手伝っていただけだ。
何も問題がなければ順当にユリウスが王太子となり次期国王になる、だからなわけで今の状況から考えて王太子になる事は無いかなれないだろう。
「だから昨日からこちらに回されている仕事は全てそのまま送り返してある。それでいつもならその仕事をやっているはずだが仕事が無くなったから今日はどうしようかなと」
「そうなのですね……では、クリス様のご趣味などをなさっては如何ですか?」
趣味か。
そう考えて俺は窓の外を見る。太陽が輝く青い晴れ渡った空だ。
「そうだな、しばらく外を出歩いてないから外に行くか」
「お供いたしますわ」
腕に回された手に力が込められた。彼女の指が腕に食い込みそうだ。
「ん……? いや、アリシアは好きに過ごして構わないよ」
「お邪魔ですか……私はやっぱり必要ありませんか……」
アリシアが声を震わせて俯く。
なぜこんなに彼女は俺から離れたがらないのだろうか。
もしかしてと思い当たる節はある、あのユリウスに何か言われたのだろう。
だから認めてくれる相手を欲しがっているに違いない。
「アリシア、アリシアよく聞いてくれ。俺は君を要らないとか邪魔だとか思うことはない。だから安心してくれ。そして君の好きな事をしていいんだ。君が一緒に来たいなら一緒に行こう」
俺はアリシアの正面に回り込んで彼女の顔を見つめて語り掛ける。
彼女の心は弱っているんだ。だからこんな風に思っているに違いない。
なら俺がすべきなのは彼女を認めて癒す事だろう。
「あ、あの……ク、クリス様……お顔が……」
アリシアは顔を赤くして視線をさまよわせている。どうやら距離が近すぎたみたいだ。
「あ、ああ。すまない近すぎたな」
豚公爵……うぅん、豚と罵られるような男に顔を近づけられたら確かに嫌だろう。
俺はすぐに離れて襟を正した。
「うん、うん。よし。じゃあ。そうだな。出かける準備をしようじゃないか」
俺は執事を呼び今日の予定を伝えるとアリシアを自室へ返して外出着に着替えた。
玄関で待っているとアリシアが着替えてやってきた。
簡易なワンピースドレス、装飾の少ないセパレート、もしくはパンツスタイルかと考えていたがまさかの……
「ローブ……?」
「その……聖女として出歩く事が多かったのでそういった衣類を持ち合わせて無くて、申し訳ありません。この服ではダメでしたら今日は我慢します」
純白のローブに金のストールをかけた姿は教会関係者か癒術に精通した冒険者に見えてしまう。
だが仮にもユリウスの婚約者だった事があるのに衣類が無いなんてあっていいのか。
やはりユリウスに酷い扱いを受けていた事はあの日だけじゃないのは間違いないようだ。
「そうか、その服で出歩いて平気なら一緒に行こう。今日は君の着る服を探しに行こうか」
「良いのですか!? ありがとうございます。一緒にお出かけ出来て嬉しいです!」
先ほどまで不安そうにしていた顔が晴れやかな笑顔になった。
うおっ、眩しい。笑顔が眩しい。可愛い。
俺はそっと彼女へ腕を差し出し先導すると職人街へと出かける事にした。
屋敷から職人街までは馬車で、馬車留めに留めたあとはアリシアと連れ立って歩いて回ることにした。
一応二人きりではなく、侍従と護衛も連れ立ってではあるが。
「まずは何件か見て好みを教えてくれ。今後は屋敷へ職人を呼んで頼むことになるがアリシアの好みの物が得意な店に頼みたいからな」
「あのっクリス様は私に着て欲しい服は無いのですか? クリス様が好む物を着たいのです」
俺はアリシアの顔と銀の髪そして意外とスタイルの良い身体を見て、ハッとする。
視線が胸に行った瞬間アリシアが俺へ向けてそっと胸元を寄せたのだ。
バレている。
「ごほん。俺は君に似合う物を着て欲しいと思うな。勿論君が好きではない服は着なくていいと思うよ」
すぐに視線を上げてアリシアの顔を見る。
胸元を強調するドレスじゃなくて素肌を隠すローブ姿でよかった。
「そう、ですか」
少しだけ不満そうな顔でアリシアは小首を傾げて返事をする。
そんなやり取りをしたあと数件の店を巡った俺は疲れ果てていた。
「大丈夫ですかクリス様」
「もち、ろんだ、はぁっ、はぁっ、だがっ、すこし、やすませてっ、くれ」
圧倒的な体力の無さ、豚公爵と罵られても仕方ないかもしれない。
昔は平気だったのだが、ユリウスの仕事を押し付けられてからは運動することが減ったからな。
「クリス様……」
アリシアは座り込む俺の後ろへ回りそっと背中へ手を置いた。
すると暖かくて爽快感のある熱が彼女の手から全身へ広がった。
熱が回りきると疲労が無くなっている。
「今のは」
「癒しの力です。ただ疲労が癒えるのが早くなって癒えるまで疲労を感じないだけですので、休む事は必要ではあります」
なるほど、疲れた体で暖かい湯に浸かると疲労が回復しやすいみたいな感覚だな。
あくまでも休む事で回復するだけで補助でしかないという。
「ありがとうアリシア。楽になったよ」
「良かったです」
にっこりと口角を上げすぎな程の笑顔を見せるアリシアの頭を撫でてあげた。
「ふわっ……」
「それじゃあそこの茶店で休んでから帰るとしよう」
俺はアリシアの手を引いて茶店へと入っていく。
今日から運動をして少しでも体力を付けないとな。
アリシアとの婚姻が始まってから半年が経った。
俺はユリウスの仕事を回されていたストレスから解消され過食と深酒が無くなり、アリシアに付き合って貰って軽い運動を続けた結果、大豚から小豚くらいにはなった。
残念ながら当社比でしかないので痩せたと言ってもまだまだ豚公爵の罵りは免れないだろう。
そしてアリシアは相変わらず俺から殆ど離れずにいる。
一度聖女としての仕事は大丈夫なのか問いかけたが基本的に国を覆っている結界は聖女が中に居るだけで補強され続けるらしく、浄化や治癒もする事はあるが聖女でなければならない程の仕事は少ないらしい。
教会も何度かアリシアを見に来たが、様子を見て俺にアリシアの事を頼んで帰るばかりだった。
「クリス様、お客人がいらっしゃったのですが。その、どうしましょうか?」
そんなある日に来訪者の報せが来た。報せを持ってきた執事が困惑している。特に来訪の予定は無かったはずだが。
「誰だ?」
「モレナ嬢です」
は?
あのユリウスの婚約破棄で見かけたきりではあるが大して会いたい顔でもない。
「あいつが何のようだ」
「本人にしか言えない大切な話だとの事です」
今さらモレナが俺に何の話をするのか気にはなる。
仕方ない、会うか。
「アリシアには心配しないでくれと伝えてくれ、それと二人きりにはならないようお前と他に何人か控えさせろ。ああ、護衛も隠れて待機しろ」
念には念を入れて応接室に入る。中にはまるで部屋の主のようにくつろぐモレナ。
男爵令嬢ごときが公爵相手に取っていい態度とは思えないな。
「待たせたなモレナ嬢、それで何のようだって?」
「えっ、クリスさま? まぁ、お痩せになられたのですね」
モレナは気色悪い程に艶めいた声をあげ俺の事を観察する。そして可笑しそうに笑った。
「やはりアリシアなんかと一緒ではお辛いですわよね」
平然と公爵の妻を呼び捨てにする態度に驚いてしまい開いた口が塞がらなかった。横で聞いていた執事もあまりの状況にモレナに忠言をする事を忘れてしまっている。
「今日はとっても良い話を持ってきましたの。ユリウスは王太子になれないって決まってしまいましたの。それでー、今一番次期国王に近いと言われているのがクリス様なのですわ」
やはりと言っては何だが、ユリウスは王太子の座を手に入れる事が出来なかったようだ。そして国王にユリウス以外の男子は居ない、そうなった場合は四大公爵家の何処かが代わりに王位に付き国を維持する。公爵家と王家が入れ代わるのだ。
「何故私を推しているか、という理由はモレナ嬢の良い話とは関係無さそうだな。その話がどう良い話に繋がるのかな?」
モレナは髪を後ろに流して胸元を寄せて片目を瞑る。まるで娼婦が誘惑しているかのような仕草だ。
「あの無表情な平民では満足出来ないでしょう? 私が貴方の正妻になってあげま……」
その先は言わせなかった。
俺は手元のカップをモレナに投げつけ立ち上がる。
「出ていけ! 私を侮辱するに飽きたらず、私の妻まで愚弄するか! 貴様のような娼婦紛いの女なぞに価値など無いわ!」
俺の怒声にモレナがびくりと震え、信じられないという顔を俺に向けてくる。
「なっ、なっ、この、豚のくせに! 良い気になってんじゃ……」
男爵令嬢ごときが公爵に豚とか言ってはならないと何故分からないのか。カップが投げられた音で入ってきた護衛が抜剣してモレナ嬢を床に抑え込んだ。
「それ以上喋れば不敬罪で即刻首を切り落とす」
俺の冷ややかな声にモレナはやっと黙った。俺を睨み付け怒りを我慢しているのか手を震わせながら。
「気分が悪い、それは男爵の所に送り返しておけ」
モレナの処遇を指示した俺はアリシアの元へ足を向ける。
今はアリシアの癒しが欲しい。
アリシアの部屋に入るとアリシアがこちらを向いてくれる。
「クリス様!」
大きく見開いた目とつり上がった口角。いつものような飛びきりの笑顔だ。
彼女は部屋に一人で居るときは部屋の中央に椅子を置いて扉の方を向いている。侍従が訪ねても表情は変わらず淡々と受け答えをしているらしい。
俺はアリシアのその表情をここに来てから殆ど見ていない。俺と話す時は照れたような顔や今のような笑顔、そしてユリウスの話が出たときの辛そうな感情の抜けた顔。
侍従たちの話にあるアリシアも知ってはいる。それはユリウスと婚約していた時のアリシアだ。まるで亡霊のように鬱蒼とした無表情で細々と喋るアリシア、今のアリシアを知ったから分かるがあれは相当辛かったからだろう。
「アリシア、君の膝を貸して欲しい」
「はい! 喜んでお貸しします!」
彼女の手を取りベッドへと行く。ベッドに彼女が腰かけるとその膝を枕にして横になった。顔は彼女の側、お腹に埋まるようにくっついた。
「どうしましたクリス様」
アリシアの手が優しく俺の髪を撫でる。
いつからか俺はこうやってアリシアに甘える癖がついてしまっていた。
「さっきあのモレナが来た。ユリウスが王位を継げそうにないから俺に媚び売って正妻の立場を取ろうとしてだ」
アリシアの手が止まる。
「そして俺への侮辱に留まらず君まで馬鹿にし始めたんだ」
アリシアの腹部に手を回し抱き寄せた。アリシアの冷たい手が頬を撫でる。
「あまりの事に冷静になれず怒鳴ってしまった。あんな娼婦でもユリウスや他の男どものお気に入りだ。何かしらの罰が来るかもしれない」
いくら無礼だったからとはいえ流石にまずいかもしれないと今さらになって思い始めたのだ。
それを誤魔化すようにアリシアにもっとくっついた。
華やかな香りが鼻をくすぐる。
「大丈夫、大丈夫ですよ、問題、ありません。クリス様」
俺の昂る熱を冷ますみたいにアリシアの冷たい手が頬に置かれたまま、俺は眠りに着いていた。
目を覚ましたのは翌日。執事の声に起こされてだ。
俺はアリシアにくっついたまま寝てしまったようでアリシアが座った姿勢のまま俺を見下ろしていた。
もしかしてずっと起きて俺を見ていたのかもしれない。悪いことをしたな。これなら一緒に横になった方が良かった。
「どうした」
外の朝日を見るに半日近く寝ていたか。
「大変ですクリス様。国内に魔物の被害が出ております」
「なんだって?」
俺はあわてて起き上がった。国内なら結界があって、魔物は入らない。アリシアが居る限り結界は問題なく発動するはず。俺はアリシアを見た。
アリシアの目は俺をじっと見つめていた。そして口角をあげていつものように笑ってくれる。
「大丈夫ですよ、クリス様。被害は極一部だけですから」
「そうなのか?」
執事に問えばとても言いにくそうに頷いた。
「被害は何処なんだ」
「モレナ嬢とモレナ嬢に従っていた伯爵や侯爵の、屋敷のみです」
つまり街には被害が全く無くてモレナ嬢に関係する貴族の屋敷だけが襲われたと。
「そんなことがあるのか?」
「ありますよ、クリス様」
アリシアが笑って答えてくれた。アリシアが言うのならあるのかもしれない。
結界の事はアリシアや教会の関係者しか分からないし仕方ない。
執事に教会の者を呼んでくれと伝えて俺はアリシアを抱き寄せアリシアの髪を撫でたりアリシアを愛でながら待った。
昼前には教会の者が来たのでアリシアの手を握って応接室に入っていく。
今日はモレナの時とは違い、隣にはアリシアがいる。
「アリシア様、昨日何かございましたか」
挨拶も程々に教会の者がアリシアに質問を始めた。
アリシアはスッと無表情になるとぼそぼそと喋りはじめる。
「昨日、ユリウス……王子の、モレ……モレナ? というのが、来て……クリス様に正妻の申し込みを……クリス様は怒って追い出しました」
アリシアに伝えた昨日の事をアリシアが伝えているがモレナの名前があやふやなようだ。
教会の者はそれを聞いて苦虫を噛み潰したような顔をする。
「クリス様にご質問してもよろしいですか?」
「えっ? ああ、いいぞ」
俺が答えるが教会の者の目はアリシアを見ている。俺のじゃなくてアリシアの許可が欲しいようだ。
アリシアは俺の顔を見て手を繋ぎ直してから許可を出した。教会の者が少し安堵したように思える。
「アリシア様が仰られたモレナ男爵令嬢が来たというのは?」
「本当だな、ついでに言うのならユリウス……王子が王太子になれないから次の王位に近い四大公爵家の俺に媚びを売りたかったようだな。アリシアを平民と見下して自分を正妻にとか何とか言い出したな」
教会の者が途中酷く焦ったような顔をしていた。
「なるほど、勿論お断りになられたのですね?」
「言い終わる前にカップを投げつけて怒鳴ってやったよ。そしたら良い気になるな豚と返してきたがな」
豚と口にしたら俺の手を握るアリシアの手の力が強くなった。
俺のことで怒るアリシアが何となく可愛くなって空いている手で握っているアリシアの手を撫でてみる。
「……原因は分かりました」
教会の者が納得出来たのか帰り支度をはじめる。待ってくれ原因を教えてくれないのか。
「ちょ、原因はなんなんだ」
「それは……申し訳ない」
教会の機密なのか教える素振りを全く見せない。だがアリシアが口を開くと態度が変わった。
「クリス様が知りたいと言ってるんですが?」
底冷えするような冷たい声に教会の者は帰り支度を止めて座り直した。そして俺の方を見て背筋を正す。
「お教え致します。今回の結界の空白部分はアリシア様の意思で開いています」
「え? アリシアの?」
アリシアの顔を見るが無表情のまま教会の者を見つめている。
「その、アリシア様はクリス様を大変、大変っ好かれていらっしゃるようでして。今回はクリス様に悪さをする者に対しての仕打ちとも言えるでしょう。なので教会としては問題ないと判断しました」
「問題ない? だが結界の空白は問題があるんじゃないのか?」
「それは故意ではない場合です。今回のようにアリシア様の意思で行われた場合は問題はありません。勿論教会としては聖女の機嫌ではなく天罰であると発表致しますが」
結界が意図せず消えてしまった場合は補強が必要だが、今回のようにアリシアが意図して結界の空白というか結界を消した場合はアリシアの意思で行っているので原因も分かるから対処はしないということか。
アリシアと教会の者とを交互に見たあとに再び口を開いた。
「なんで教会はアリシアにそんな態度を取るんだ」
さっきから蛇に睨まれた蛙のように怯えているような態度なのだ。
さっさとここから立ち去りたいとでも言わんばかりの態度。対するアリシアも目を細め虫でも見るかのような態度だが。
「アリシア様は今までの聖女の中でも格別に力がお強いのです。ただ聖女の力は心の持ちようで如何様にも変わってしまう。なので教会は聖女を保護し幸せになるように力添えをさせて頂くのです。今までなら王子との婚姻は手段として最適だったのですがアレでは仕方ない。ただクリス様との事に対してはアリシア様が今までに無いほどに喜んでおられるのです。我々としてはクリス様さえ拒否されないならアリシア様との事を支えたいと思っております」
教会の者は時折アリシアの顔色を窺うようにしながら俺へ説明する。やはり何処かアリシアを怒らせないようにと怯えているように見える。
アリシアも自分の事を話されているのに全く表情を変えずに居た。前から気にはなっていたがアリシアは感情表現が下手なのだろうか。
「分かった。あと一つ、答えられるなら聞きたい。アリシアは普段あまり笑わないようだが、教会でもそうだったのか」
俺の問いに教会の者は困惑してアリシアを見た。アリシアはチラリと俺を見てから教会の者へ頷く。
アリシアから答える許可を貰ったとばかりに教会の者が答えた。
「アリシア様が笑う……という事は無いかと思います。幼い頃から一度も笑われた事がなく、また他人にもあまり興味が無いようで我々が何をしても今のように表情を変えて下さらなくて。なので教会としてはアリシア様の望みを叶えたくても望みが分からない状態でしたから」
笑ったことがない?
アリシアは俺と二人で居るときはずっと笑っている。今みたいに他の人の前では笑う事は少ないが、一度も笑わないなんて事があるのだろうか。
俺は何となくアリシアが可哀想に思えてアリシアの頭を軽く撫でた。
「ヒッ」
教会の者がアリシアに触れる俺を見て小さな悲鳴をあげる。俺がアリシアを怒らせるのではないかと俺の手を取ろうと動き出す。
その動きを片手で制したアリシアは頭に置かれた俺の手を掴み俺の方へグリリと顔を向ける。
「クリス様」
そしていつものとびきりの笑顔を見せてくれた。
開かれた瞳に上がりきった口角。アリシアの可愛い笑顔だ。
「アリシア様が笑われた?」
教会の者が驚いている。
彼らの言う笑ったことがないは本当なのかもしれない。
ああ、ならば。
「アリシア、ずっと私のそばに居ていいよ。君の笑顔を見て居たいからね」
今まで明確には避けていた愛の告白をした。
アリシアにとって不本意なのではないかと思っていたが笑顔が彼女なりの俺への愛の示しかただと分かったからだ。
ゴクリと唾を飲む音がする。
「クリス様っ、ああっ嬉しいですクリス様。ずっと貴方のお側に居させてください」
喜びに震える声でアリシアは言うと俺に抱きついてきた。
こんなにも可愛い彼女と居られるのは幸せなことだ。
教会の者が珍獣を見るかのように俺を見て、アリシア様を頼みますと告げて出ていった。
俺も今の可愛いアリシアを他の人に見せたいと思わないし、ちょうどよかった。
「アリシア、好きだよ」
アリシアの頬に指を添えて彼女の唇を唇で塞いだ。
その日から俺も遠慮することなくアリシアと寝食を共にするようになった。
今までは夫婦と言えど成り行きでなっただけと遠慮していたのだ。
だが不要と分かったからには俺も大好きなアリシアに触れていたい。
今日も隣でアリシアは笑ってくれる。
あれからユリウスの話題はアリシアの耳に入れてない。ユリウスはあの日魔物の被害にあって怪我をしたらしくずっと外に出ていないそうだ。
きっと怪我は建前で実際は、そういうことになっているのだろう。聖女の機嫌を損ねない為に誰も口にしないだけで。
モレナの方は親の爵位が剥奪され平民として暮らす事になったようだ。あれだけ媚びを売っていた周りの男たちはこれ以上の被害は受けたくないとばかりにモレナに冷たく当たったと聞く。
まあモレナもモレナであっさりとユリウスを捨て俺に媚びを売るような性根だ。
俺は興味が湧かないが見た目は良い方だから平民になっても誰かに養って貰えそうではあるが、報告書を見た時にやはりそうなったかとしか言えなかった。
複数の男、なかには妻の居るものにもちょっかいをかけまくったせいで反感を買い、恨みをかった者たちに襲われてまともに歩けなくなったそうだ。そして平民で歩けない女を養う金持ちは居ない。
「クリス様?」
考え込んでいた俺に抱きついたアリシアが心配そうに声をかけてくる。
「なんでもないよ」
アリシアの髪を優しく撫で額に口付けをした。




