序
「あら、まぁ・・・」
足元にずらりと並んだ五つの後頭部を見下ろし、ヴィクトリアはくすりと小さく笑みを漏らす。
「金・銀・ブラウン・青・緑。髪色はそれぞれですのに、剃り初めの頭皮は等しく青白いのですわねぇ」
その桜色の唇から、感心したような呟きが続いて漏らされる。
王宮の大広間、開催中の舞踏会の会場の中心で、這い蹲るように跪き、鏡のように磨き上げられた大広間の大理石の床に額を擦り付ける様にして頭を下げているのは五人の青年達である。
現国王の第四子にして第二王子。第一王子の母親が第二妾妃であるが故に、ほんの少し前まで王太子であったユリシーズ・カレンドゥラ王子。同じくほんの少し前まで、ヴィクトリアの婚約者であった青年である。
そして。
王立学院に於けるユリシーズ王子の学友であり、側近候補であった者達。
ウィリアム・ラース。現宰相の嫡子であり、公爵子息である。
デイヴィット・グレイヴ。現騎士団長の嫡子で侯爵子息。
サミュエル・パダレッキ。現魔術師団長の嫡子で同じく侯爵子息。
ルイス・アーミリア。代々国教であるフレイア教の高位神官を輩出している公爵家の三男で、自身は学生でありながら既に高位神官の位に就いている。
ユリシーズ王子をはじめ何れも高位貴族の令息であり、次代の王を中心と成って支える前途有望なキラキラしい身分の若者であり、本来であれば、国王以外にこのように平身低頭床に這い蹲るなど思いも寄らない者達である。
そもそも、この国に土下座の習慣は無い。
にもかかわらず、彼等が今頭を下げているのは一人の令嬢。
元王太子ユリシーズ・カレンドゥラの元婚約者にして公爵令嬢ヴィクトリア・パラライズ。
また、ヴィクトリアの背後には、ユリシーズと共に平身低頭するウィリアム、デイヴット、サミュエル、ルイスの四人夫々の婚約者であった令嬢達の姿もあり、その更に背後には国王、正妃両陛下の姿もある。
これは、彼ら五名が、ヴィクトリアと夫々の婚約者に対しての公式な謝罪の為に設けられた場であった。
―――それにしても・・・
踏みたくなる位置に並んだものだわとヴィクトリアは足元に並んだ青白い地肌を曝すつるりと滑らかな後頭部を眺める。
―――これ、足を乗せてもいいかしら?
ちょっとした誘惑だわねと思うものの、そこまでやってしまうのは体裁が悪い。ヴィクトリアはそっと自制を働かせる。
「もとより、これは形式に過ぎませんわ」
ふぅ、と溜息を零すようにヴィクトリアは言葉を続ける。
いわばこれはセレモニーである。
頭を丸め、彼等が自分に仕掛けたように、公式なパーティの場での謝罪を求めたのは他ならぬヴィクトリアであった。
前代未聞の事ではあるが、貴族にとって形式は重要。
かかされた恥は、公に、誰からも間違い様もない形で、それに倍する恥を以って償ってみせて貰わねば、貴族家は侮られ、立ち行かない。
況して、弱い立場である女性は、喩え本人に何の瑕疵が無くとも、男性側と違って後々までの疵となるのである。
その理不尽は出来得る限り潰して行きたい。
これを一つの前例として貴族社会に刻み付けたいとヴィクトリアは考えていた。
もとより、頭を丸めさせた上で大勢の貴族達の面前での土下座などさせたところで、本人達の反省・改心など信じてはいないし、期待もない。その愚行を赦すつもりもない。
これは単なる見える形での報復であり、一つの見せしめだが、貴族家としてのプライドを示す上で重要な儀式でもあった。
何より、国王公認である。
そして強制ではない。一応要求はしたが、実行するかは本人達の意志次第という事になっている。無論、表向きにはであるが、そこは余人の知るべきところではない。
「顔をお上げになったら?」
冷たく響くヴィクトリアの声に、顔を伏せたままの五人の口元からギリリと唇を噛む―――あるいは奥歯を噛み締める音であろうか―――が響く。ある者は屈辱にわなわなと震える拳を固く握り締めたようであった。怒りの為か、全員全身に不自然な力が篭もっている。
それをヴィクトリアは小さく鼻で嗤う。
この国に、謝罪の為に頭を丸める習慣は無かった。
そもそも頭髪を剃り落とすという習慣も無い。
薄毛や禿げは居ないことはないが、基本、貴族は鬘を使用するものだからである。
無論、剃髪は彼等の本意ではない。豊かな頭髪を残らず剃り落とした時には、この世の終わりの気分を味わったし、一目自分の仕上がりを目にして以来、鏡を見る事が出来なくなった。なんなら、その直後あまりのショックに一週間程寝込み、今朝の今朝まで自室に引きこもっていたくらいである。
その、恥そのものの姿を並み居る貴族達の前に曝すのだ。
しかも、女に土下座した上でである。
顔を伏せたままでいるのも屈辱。だが、顔を上げるのもこの上ない恥辱。入場の際は、心に余裕は無く顔を俯け足早に人々の間をすり抜けて来たが、衆目の中顔を上げ、その姿を曝すとなるとまた話は違って来る。
報復とはいえ、このような鬼畜な事を要求するなど、本当に悪魔の様な女だ。自業自得だとしても飲み込み切れない。
だが、何時までもこのまま床に這い蹲ったままでいる訳にも行かない。
葛藤の末に屈辱と怒りに小さく身を震わせながら顔を上げたユリシーズに、「あら・・・まぁ」大変。とヴィクトリアが小さく間の抜けた呟きを漏らす。
凄まじく殺気の篭もった己の視線に、今更己の不敬を思い知ったかとユリシーズは僅かばかり溜飲を下げかけるが、続けられたヴィクトリアの言葉に、今度は耳を疑う。
曰く。
「描き分けの出来ない絵師様が髪型と色彩だけで誤魔化していたみたいな図になってしまっていますわ」
整った容姿って聞こえはいいですけど、とどのつまり平均的な造形という事ですし、結局個性の無い顔といういい見本の様ですわねなどと一人納得したかと思うと、背後の令嬢達に「どうやって見分ければよろしいと思いますかしら?とりあえず瞳の色でくらいですかしら?」などと相談を持ちかけ、「髪型って、意外と重要ですのね」などと、さもさもささやかな新事実に思い至ったとでもいうように、溜息混じりに惚けた呟きを零す始末。
この女め。本当に憎々しい女だ。
我々の顔がそんなに見分けがつき難いほど凡庸だとでもいうつもりか。そこまで似通っている筈などないだろう。
挙句、結論が「まぁ、どうでもよろしいわ。あまり興味もございませんし」である。本当に、殺してやろうか。止めようもく殺意が漲る。
「さて、殿下と殿下の側近候補の皆様方?」
そんな殺意漲るユリシーズ達の様子を毛程も気に掛ける様子も無く振り向いたヴィクトリアは徐に口を開く。
「何について謝罪をされているのか、皆様にご説明頂けますかしら」
「な・・・っ!」
悪魔のような黒い笑みを浮かべたヴィクトリアの言葉は、思わず五人を五人ともを絶句させた。
「貴様・・・っ!どこまで我等を愚弄する気だ!そんなもの今更説明せずとも知らぬ者など居る訳なかろう!」
「まぁ、殿下・・・」
思わずカッとなり、食って掛かるユリシーズに、ヴィクトリアは呆れを隠さない声を漏らす。
「知っているだろう、言わなくてもわかる筈だで行動しては、思わぬ事態を引き起こすもの。あれだけ痛い目に遭われて、まだ学習されていませんのね。ご自分の思いだけで突っ走り、周囲との擦り合わせを怠るようでは国政は立ち行きませんのよ?一事が万事ですわ」
「ぐっ」
「何事も派手な劇場型の演出を好まれ、主役であることがお好きな殿下の為に、わざわざこの場をご用意致しましたのよ?」
―――おのれ・・・っ!
たっぷりと厭味を込めた挑発に、この憎々しい女を自分の婚約者から外す事が出来た事が、せめてもの、そして最大級の収穫であると、この時のユリシーズは己を慰めるしかなかった。
事の起こりは、王立魔術学院の卒業記念パーティ。
「ヴィクトリア・パラライズ!」
本来であれば屋敷への迎えすら勤めるべき自らの婚約者のエスコートを、連絡すら無く放棄された為にギリギリの時間に一人で入場して来たヴィクトリアの行く手を阻むように、ユリシーズは四人の側近候補を従え、心から愛する乙女と共に立ち塞がった。
パーティ会場には卒業生をはじめ、来賓もほぼ全て集っている。
観客は十分に揃っており、パーティが始まるのを待ち侘びるこの時間であれば噂好きな貴族達の注目を集める絶好のタイミングであった。
案の定ユリシーズの上げた険しい声に、会場に集った人々の視線が集中する。
「王太子ユリシーズ・カレンドゥラの名において、今日この時を以って貴様との婚約を破棄することを宣言する!」
しん、と静まり返った大広間に響き渡った己の宣言に、ユリシーズの胸に言い知れぬ高揚感が広がった。
ヴィクトリア・パラライズは同い年の公爵家の令嬢という事で、血筋と年齢だけで幼い頃に政略結婚の相手として定められたユリシーズの婚約者であった。政略結婚の相手というだけに、その婚約には本人達の意志は勿論、性格の相性も夫々の容姿の好みも無論配慮はされておらず、ユリシーズは出会ったその時からこの気が強く己をしっかりと持ったヴィクトリア・パラライズという少女が、控えめに言って苦手であった。何より、常に儀礼的な敬意や配慮は示すものの、媚びる事無く、きつい印象を与える冴え冴えとしたインクブルーの瞳で冷ややかに己を見据えるヴィクトリアに、ユリシーズは己が見下されているという印象しか持てなかった。
相手は公爵令嬢。
己は第二王子とはいえ、正妃の第一子である。先に生まれたというだけの側妃腹の第一王子よりも、立場は上。
詰まり、同世代の子供達の中で自分が一番偉く尊い存在だと、ユリシーズは物心付いた時分より周囲に吹き込まれて育ち、それを一切疑う事無く成長した。
事実、立太子したのはユリシーズであった。
誰しもがちやほやとユリシーズを持ち上げ、媚を売る。
それなのに、最もユリシーズに敬意を払い、粛々と従うべき義務が有る筈の婚約者であるヴィクトリアだけは、事有るごとにユリシーズに楯突き、煩く指図し、あまつさえ、小言を言い、言外に見下して来る。
貴族の常とはいえ、あからさまに言葉に出さないだけに性質が悪い。
あの冷ややかな瞳には、常に「この馬鹿が」「無能が」と唾棄せんばかりの嫌悪が浮かんでいる。最近では、それが「言うだけ無駄」というユリシーズの存在そのものへの無視へと移行している。
その癖、外面のいいあの女は、その偽りに満ちた立ち居振る舞いで周囲にユリシーズへの不敬を悟らせないのだ。
故に、反発し、人目を憚らずに彼女を罵れば、非難の視線は自分へ向く。その事が、余計にユリシーズを苛立たせた。
無論、ヴィクトリアに見下される事に、自分に原因が有るなど、ユリシーズは疑いを持った事も無い。
何しろ自分は次期国王。貴族をはじめ、民衆全てを支配し、導く存在なのである。自分は命令を下す者。面倒な事は全て自分に従う者の役目に過ぎない。
王は即ちこの王国の法。その王の子であり、王太子たる自分の意志は、即ちこの王国の法なのである。その、王国の法たる自分の意のままに成らぬものなど有ってはならないのだ。ユリシーズは、堅くそう信じていた。
だが、あろうことかヴィクトリアは唯一ユリシーズより強大な権力を持つ国王のお気に入りであった。更には、ユリシーズの生みの親でもある正妃もまた、ヴィクトリアを可愛がっている。
それ故、ユリシーズはヴィクトリアへは下手な手出しを出来ず、更にヴィクトリアへの怒りを募らせていた。
―――知性が低く教養も無い女である母上はともかく、何故、国王たる父上があの女を寵愛するのだ。
ユリシーズには実の両親の考えは理解出来なかった。否、理解出来なかったのではない。「何故だ」という不満は抱いても、不満止まりで、疑問からそれが持つ意味への関心までへと意識が育たないのである。
故に。
―――公爵家の娘だからと、父上は気を遣いすぎなのだ。
短絡的に、そういう結論と成る。
しかも、そこでも、何故父王がパラライズ公爵家へ気を遣うのかという根本的な意味にまでは意識が向かわない。当然、何故、パラライズ公爵家でなくてはならないのかということにも。
精々、公爵という爵位は王家に次ぐ家柄で、家臣―――貴族―――の中で一番上の位であるから、揉め事を起こせば面倒なのだろう程度の浅い理解でしかない。その「面倒」の部分でさえ、ごねられたり恩着せがましくされる程度の認識であった。強ち間違ってはいないが、その程度の問題でしかないと侮っていれば、時として大変な事に成るという事を、ユリシーズは未だ学べずにいる。
そもそも、ヴィクトリアとは出会いからして良くなかった。
五歳になったばかりのあの日、婚約者として紹介されたヴィクトリアは、息を呑むような美少女であった。燃えるような真紅の髪は陽に透けて燐光を放つ様にキラキラと眩く、深く深いインクブルーの瞳には、五歳の幼女には似つかわしく無い程、冴え冴えとした知性の輝きを湛えていた。
夢のように美しく凛とした美少女。
たった今から、自分だけの宝物と成る少女。
そう、自分だけの。
だが、息をする事すら忘れて見詰めていた妖精のような目の前の少女の口から齎されたのは―――
「え?生理的に無理」
という一言だった。
その瞬間、ユリシーズは固まった。
生理的に無理という言葉の意味は理解出来なかったが、自分が目の前の妖精に拒絶されたのだという事だけは理解出来た。あまりの衝撃にその後の記憶が無いが、どうやら自分は大泣きしたらしい。
なのに、後から聞いた話では、父王はヴィクトリアの無慈悲な発言に大ウケし、腹が捩れる程に笑ったらしい。椅子から転げ落ちてまで笑い続け、呼吸困難に陥りながら、バンバンと拳で大理石の床を叩いたというのまでは疑わしいというより、噂の尾鰭というものであろうとは思うのだが。
その後どういう話し合いがあったのかまでは知らないが、国王が大ウケした事によりヴィクトリアのユリシーズへ対する不敬は罪に問われる事も無く、何事も無かったかのように二人の婚約は成立した。
元々政略による結び付きの為、婚約者となる当人達の意志はそこに差し挟まれない。
泣いて泣いて大泣きして、大泣きのあまり発熱して数日寝込んだ後、再び対面したヴィクトリアは、やはり夢のように美しかった。
だが、ヴィクトリアの毅然とした礼儀正しさは、ユリシーズに対して一線を引くような、心の距離を感じさせた。何より、自分への興味を微塵も感じさせない、あの深いインクブルーの瞳が自分以外へ向けられる時、華やかに和らぐのを見てしまってからは、心穏やかにはいられなくなった。
やがて年齢の近い高位貴族の子息令嬢達が集められ、交流が行われるようになると、更にその思いは強くなり、いつしかユリシーズは自分の婚約者から歯牙にも掛けられない己から目を逸らす為に、自分はヴィクトリアの事を、控え目に言って苦手なのだと思う事にしたのだ。
苦手だが、ヴィクトリアは元老院は勿論国王陛下が定められたユリシーズの婚約者である。国益の為に、その決定には、どんなに不服であっても我慢して従わなければ成らない。何れ伴侶としなければならない日が来るが、その時は、お飾りの王妃として、何れは自分の目の届かない所へでも幽閉してしまえばいい。その思いつきは、ユリシーズの傷付いた心を大いに慰めた。
寧ろ、幽閉してしまえば、誰の手出しも出来ないところで、ゆっくりとヴィクトリアにこれまでの己に対する不敬への罰を与える事が出来るだろう。それなら、いっそヴィクトリアとの婚約の継続も、婚姻すら、好都合に思えた。
ヴィクトリアは、傍から見る分には、王太子妃として申し分の無い女だった。
高い知性。
高い教養。
完璧な礼儀作法。
如才の無い社交性。
美しい所作。
優雅なダンス。
公務の時にだけ同伴する婚約者だったが、貴族との交流も外交も、彼女に任せていれば特にユリシーズが何をする必要も無かった。その事が、更にユリシーズの思い違いに拍車を掛けた。
そうだ。自分は王太子。次期国王なのだから、くだらない貴族との交流も、面倒な外交も、部下であるヴィクトリアに似合いの仕事である。だから適当にヴィクトリアに後を任せ、自分は友人達と優雅な時間を愉しめばいいのだ。ユリシーズはそう考えていた。
王立魔術学院へ入学してからも、ヴィクトリアは優秀だった。
入学試験は勿論、成績は常にトップ。
だが、ユリシーズはその結果を本気にはしていなかった。
その成績は、高位貴族の権力に物を言わせて水増しされた紛い物だと本気で信じていた。
何しろ、ユリシーズにとって、女性とは、知性も教養も無く、ただ男に養われるだけの存在である。高位貴族の令嬢であれば、成績が優秀である事も箔付けとなり、それだけ婚姻の条件を有利に出来る筈だからである。見栄と箔付けの為に金で成績を買うなど浅ましいにも程がある。
ちなみに、中の下程度の自分の成績について、ユリシーズは清廉潔白であるが故の嘘偽り無い成績であると誇り高い自己評価を下していた。
国の雑務をこなすのは、部下の仕事であるから、次期国王たる己の成績など、高かろうが低かろうが関係無いとさえ思っていた。自分がするのは判断だけだと。その判断に知識と責任と政治的センスが要求されるなどと考えもしない。それらが必要だというなら、その役割を担える者に仕事を振ればいいだけの話である。
学院に入学してから、本格的に始まった王太子妃教育に忙しく、ヴィクトリアは公務以外でユリシーズと行動を共にする事は無くなっていた。
そんな折、ユリシーズは運命的な出会いを果たす。
気が向かない授業を自主的に欠席して広大な学院の中庭の東屋の陰で昼寝をしようとしていた時に、茂みに足を取られて、あろうことかユリシーズの体の上に倒れこんで来た令嬢が居たのだ。
突然、甲高い悲鳴と共に自分の上に凄い勢いで倒れ込んで来た人影に、咄嗟の防御反応で受け止めようとした掌に収まったのは、あまりにも柔らかで円やかな感触。令嬢のたわわな胸を鷲掴みにした事に吃驚して僅かに力が抜けた拍子に、今度は顔面に陰が落ちる。
今度は唇に柔らかなものがぶつかって来た。
唇を柔らかなもので塞がれたまま、互いの瞳がこれ以上ないくらいの至近距離で互いを映した。
令嬢のエメラルドの瞳に映る、ユリシーズのアクアマリンの瞳。
暫し、二人の時間が止まった。
先に正気に返ったのは令嬢の方だった。
「あっ」
唇を塞ぐ柔らかいものが小さく動き、微かな甘まやかな声が耳に届く。そこで初めてユリシーズは己の唇を塞いでいるものが彼女の唇であった事に気付いた。
彼女もその事に気付いたのか、慌てるような唇の動きが、余計にユリシーズに令嬢の唇の感触を意識させた。
か~っと頬を桃色に染める令嬢の恥じらいに釣られ、ユリシーズの頬にも血が上る。否、血が上ったのは頭の方であろうか。
「っあ、あのっ、・・・っごめんなさいっ!・・・きゃあっ!」
令嬢は慌ててユリシーズの顔の両脇に手を突いて、ぐいっとユリシーズの上から上半身を起こすが、たわわな丸みを摑んだままであったユリシーズの両手がついて行った事に慌てた令嬢の手がずるりと滑り、再び彼女の体がユリシーズの胸の上につんのめる。今度は彼女の顔はユリシーズの顔の上に覆いかぶさる事は無く、頬を擦るようにして耳元に伏せられる。遅れて舞い落ちる桃色の柔らかな髪と、彼女の襟元から、ふわりと甘い花のような彼女の馨りがユリシーズの鼻腔に届く。
彼女の悲鳴と同時に慌てて手を離した彼女のたわわな胸は、今はユリシーズの胸の上で、そのふんわりとした弾力を遺憾なく発揮して、ユリシーズの胸に不思議な昂揚を齎している。
慌てて振り向くように顔を上げた拍子に、ユリシーズの耳に彼女のあえかな吐息が吹き込まれ、柔らかな唇が頬を少し強めに掠めた。キスと言ってしまって出差し支えないような存在感のそれに、ドクリ、とユリシーズの胸が鼓動を打った。
「あ、あのあの私・・・っ、ご、ごめっ、ごめんなさいぃぃっ!何度も潰しちゃいましたが、大丈夫ですかっ?」
何とか顔を上げた彼女は両手をユリシーズの肩口に添えるように乗せ、至近距離からユリシーズの顔を心配そうに覗き込んで来る。顔面から地面に突っ込んだせいか、その額と前髪、それから鼻の頭に土汚れと千切れた草が付いている。
その、彼女の飾らない表情と、顔が汚れたままという無防備さが可愛らしく思えて、ふと、ユリシーズの気持が弛む。
貴族令嬢、特にヴィクトリアにはついぞ望めない表情だ。
「あぁ、何ともないよ?寧ろ君の方が大変だ」
「あっ、わ、私ったら!っご、ごめんなさい、直ぐに退きますねっ?え、えと、ぁ、きゃ・・・っ」
優しく微笑んで応えるユリシーズに見惚れる事数瞬、令嬢は今の自分達の状況に気づいたのかハッとして起き上がろうとする。が、慌てるあまりなのか、わたわたと無駄な動きを繰り返すせいで、ユリシーズと令嬢の間で押し潰された豊かな丸みが右へ左へと擦り付けられ、よりその存在をユリシーズに意識させる。更に、しっかりした下着を着けていないのか、右往左往する胸がこすり付けられる内に、小さなしこりの存在まで、ユリシーズの胸に伝えて来る。ついでに乱れた胸元から覗く谷間もユリシーズの目に飛び込んで来て、ユリシーズは思わずゴクリと喉を鳴らした。
「落ち着いて?大丈夫だから」
支える名目で彼女の背中へ回した両手でその体を抱き締め、ゆっくりと二人の体勢を入れ替える。今度は自分が彼女の体に圧し掛かるようにしてその顔を覗き込んでから、殊更ゆっくりと上体を起こし、そっと伸ばした指先で、彼女の桃色の前髪に絡みついた草の切れ端を取り除く。
「可愛い額と鼻の頭が汚れてしまったね。他に怪我は無い?」
「は、はいぃ~」
一向に彼女の上から退かないまま、その顔を覗き込んで問い掛ければ、真っ赤になった彼女は魂が抜けたようなぼぅっとした声で辛うじてユリシーズに返事をする。ことによると、彼女は今自分の置かれている状況も、何を問われ、何を答えたかもわかっていないかも知れない。
そんな彼女の様子が、ユリシーズの中に「可愛い」という保護欲のようなものを掻き起こした。このままキスをしてしまおうか?ほんの少し、ユリシーズの中に魔が刺す。
してしまっても問題ないような気もするが、一応王太子の立場としては、軽はずみな行動派すべきではない。
仕方なく彼女の上から退く為に体を横へずらし、彼女の手を取って体を起こすのを手伝ってやる。
「あの、本当にごめんなさい。私、凄いドジで・・・」
「ドジ?」
「っあ、えっと、・・・そ、粗忽?うっかりって言うか、ホント駄目で・・・」
耳慣れない言葉を聞き返せば、彼女は慌てたようにわたわたと無駄に大きな身振り手振りを加えて、必死に拙い説明に努めてくれる。
「せっかくお父様に引き取って貰ったのに、貴族の生活って、何か難しくって、私・・・」
問わず語りに自分の境遇を愚痴り始めた彼女の唇にそっと人差し指を当てて、ユリシーズはその先を遮る。
「あまりそういう事は不用意に他人に漏らす事はしない方がいいよ?」
「え?」
「貴族の中には、無駄に身分やプライドに拘って、少しでも自分より下だと思った相手を貶めたり危害を加えて来たりする者がいるからね」
自分が正しくその代表格である事を棚に上げ、ユリシーズは親切ごかしに忠告する。
「っえ?こ、怖いんですね、貴族って・・・」
「・・・そうだね」
「あの、教えてくれてありがとうございます。あた・・・、じゃなくて、私、ミリアム・リリアンドールって言います」
「あぁ、男爵家の・・・」
「あ、え~と、・・・、そ、そうです!」
爵位を言い当てると、令嬢―――ミリアムは、吃驚したように目を見開く。
「そういえば、最近ご令嬢を引き取ったとか。・・・君の事だったんだね」
養子に成ってまだ日が浅いせいか、爵位に馴染みが無い様子がまた可愛らしく新鮮だった。
「は、はい!っ凄いんですね!名前だけで爵位がわかっちゃうんですかっ?しかも私の事まで!」
「そりゃあね」
そうまで感心されれば悪い気はしない。
実際、同時期に学院に通う貴族家の情報は、逐一報告が上がって来る。妾腹や婚外子、遠縁、或いは縁故による養子縁組は、要注意事項として別の扱いであった為に、ユリシーズはたまたま気紛れに報告に目を通していたに過ぎない。
本来はその辺の事は、自分の護衛も兼ねる側近候補達が処理する問題だという考えは、未だ変わった訳ではない。
だが、今回ばかりは目を通していたのは幸運だったと思う。
確か、ミリアムの場合は男爵が婚外子を引き取ったとあった筈だ。
卑しい生まれだが、血統書付きの純血種であるヴィクトリアとは何もかも違い、それが殊更好ましく思える。
「あっ、でもそうしたら、私、名乗っただけで平民上がりって貴族の方にはわかっちゃうんですか?」
「う~ん、誰にでもっていう訳ではないかも知れないけど、何れは噂は広まるかもね」
「っえ?じゃあ、私、虐められちゃったりするんですか?」
「・・・・・・」
ミリアムの危惧に答えずにいれば、ミリアムは不安そうな上目遣いでユリシーズを見上げて来る。
「あの・・・、守って、くれますか・・・?」
上目遣いで見上げたまま、心細そうに小首を傾げて消え入りそうな声でのオネダリに、キュンとユリシーズの胸が締め付けられた。
恋に落ちた瞬間であった。
「いいよ」
気が付けばユリシーズはそう応えていた。
「僕が守ってあげる」
無意識に、夢心地のまま出していた己の結論を、今度は意識して半分自分に言い聞かせるように紡ぎ出す。
「僕はユリシーズ・カレンドゥラ。この国の王太子だ」
「っえ!?お、王子様っ!?えっ?えぇ――――――――――――っっ!?」
「し~・・・、今、他の人達は授業中だからね」
正体を明かした途端素っ頓狂な声を上げて驚くミリアムに、ユリシーズは人差し指を唇の前で立てて静かにするようにと促す。
自分は授業をサボってここで昼寝を決め込んでいたのだが、後からこの場に来たミリアムが授業中のこの時間にこの場にいる事に、ユリシーズは何故か疑問を抱かなかった。寧ろ二人だけでのこの出会いを喜んでもいた。
「あ、あのっ、私、どうしよう、王子様を二回も潰しちゃって、ご、ごめんなさい!」
ユリシーズに大声を咎められこくこくと頷いたミリアムは、今度は思い切り小声で謝罪を始める。わたわたと無意味に大きな身振り手振りは相変わらずである。最後にぶんっ!と音がするくらいの勢いで頭を下げる様は、成る程貴族令嬢のそれではない。
「大丈夫だよ、君は羽のように軽いからね」
「ひゃ~・・・」
歯の浮くような言葉を掛ければ、ミリアムは間の抜けた変な声を出して、真っ赤に染まった頬を両手で隠そうとする。
「さっきも言ったけど、君の方が心配だ。怪我をしていたら大変だから、医務室へ行っておこうか」
「ぇ?きゃ!」
言いながら、ユリシーズはさっと横抱きにミリアムを抱き上げる。
「っや、やだ!恥ずかしいから下ろして~っっ!わ、私、重っ、重いからあぁぁぁぁっ!」
所謂お姫様抱っこの状態のまま歩き出すユリシーズに、大慌てのミリアムが大声で騒いで暴れ出す。
「コ・ラ!暴れると危ないよ?それに・・・、授業中だから騒いではいけないと言ったよね?」
「えっ?えっ?でも・・・!」
「僕のいう事が聞けない?」
少し凄んでみれば、ミリアムはブルブルと首を横に振った。
だが。
「っでもやっぱり駄目―――――――――っっ!無理ぃぃ―――――っ!お願い下ろしてえぇぇ恥ずかしいぃぃぃっ!」
「ミリアム」
「ひいっ!ごめんなさいいぃぃぃっ!でも、お~ろ~し~て~ぇぇぇぇっ、うぅぅっ」
「悪い子にはお仕置きが必要かな?」
再び騒いで暴れ始めるミリアムに、ユリシーズは「ふう」と、これ見よがしに溜息を吐く。
「口を塞いであげたいけれど、両手は君を抱くので空いていないし・・・どうしようか?」
わざとらしく呟いて、ふと、すっと顔をミリアムの顔へ近寄せる。
「こうして塞いであげようか?」
「っ!」
ミリアムの唇に触れるギリギリまで自らの唇を寄せ、見開かれたエメラルドの瞳を少し意地の悪い色を乗せた瞳で覗き込んで囁けば、真っ赤になったミリアムは、バッと両手で自分の唇を押さえて首を仰け反らせる。
「し、静かにしまふぅ」
そうして両手で唇を守ったまま、ミリアムは消え入るような声で反省を示す。そんなミリアムの反応に、くくっと笑いを噛み締めながら「残念」とさして残念そうでもなく呟いて見せれば、ミリアムは「もぉ~、殿下、意地悪ですぅぅ」と小さな声で拗ねてみせる。
「駄目だよ、ミリアム」
「え?」
「僕の名はユリシーズだ。君には他の名で呼ぶ事は許可しない」
「え?ええぇぇぇ?」
「ミリアム?やっぱり口を塞ぐ?」
理不尽な命令に、反射的に声が大きくなるミリアムに小さく脅しを掛ければ、再びバッ!と両手で自らの唇を隠したミリアムが必死に首を横に振る。そんな幼子のような仕草も可愛いと思う一因だった。
「呼んで?ミリアム。ユリシーズだ」
「ユ、ユリシーズ・・・様」
「様は要らない」
「でも・・・」
「呼んで?」
「・・・ユリシーズ」
譲らないユリシーズの様子に、根負けしたようにミリアムは要求に応える。
「いい子だ。良く出来ました」
褒美に、ちゅっと音を立てて鼻の頭にキスを贈る。
「ひゃっ」っと変な声を上げて首を竦めるミリアムに、「ははは」とユリシーズは声を上げて笑う。こんなに幸せな心地に成ったのは一体いつぶりだろうか。
「君に誓おう、ミリアム。僕が君を守るよ、何者からもね」
「・・・ありがとうユリシーズ。・・・嬉しい」
はにかんだ様に喜びを伝えるミリアムに、ユリシーズの心は満たされる。
君を守る。
その誓いを果たすかのように、以降ユリシーズは常に学院内ではミリアムを傍に侍らせ続けた。高位貴族の子息令嬢が苦言を呈しようと、強権を発動して黙らせ続けた。
そして、最大の邪魔者である婚約者―――ヴィクトリアを排除する為に、ユリシーズは最大の舞台を用意したのだった。
傍から見れば、否、少し冷静になって考えれば不自然に過ぎるこの出会いに、終ぞユリシーズは気づくことはなく、また、それを指摘する者にも恵まれなかった。
正しくは、都合の悪い事には耳を貸さず、苦言を呈するものがいれば、ユリシーズは自ら排除し続けたのである。